■ 月下双華 〜 月姫Short Story 〜
水瀬 拓未様


 見上げたそこに、真珠のような月がある。薄く広がる雲の向こうに見える満月は、私に月夜と言う言葉を思い出させた。
 中庭で月を見ながらお酒を飲みたくなったのは、そんな月夜と言う言葉に誘われたせいなのかもしれない。テーブルの上に置かれたグラスに入っている液体は、残りわずかになるたび、私の手でその量を増やされた。
 わずかに火照る頬。撫でるように吹く夜風が心地いい。
 子供の頃から見上げることが多かった。周りに大人が多かったせいもあるのだろう。遠野という屋敷の家柄を考えれば、それは至極当然のことだ。
 けれど、その背中を追いかけている時だけ、私は自分が子供だということを思い出せた。思い出そうとしなければ忘れてしまうぐらい、それはささいな時間。束の間の休息のような、そんな儚い刻。
 でも、だからこそ。私はその背中を忘れることはなかった。
 それは、今でも。
 月を見上げて、ふと思う。あの背中を想い続けた日々のこと。
「秋葉さま」
 口元に運ぼうとしたグラスが、不意に止まった。それは私の意思ではなく、琥珀の手が私を手首を掴んでいるためだ。
 中庭でお酒を飲みたいと頼んだときに着込んでいた割烹着は、もう着ていない。着物姿の琥珀の目が、飲み過ぎですよと訴えている。
 見れば、私の手首を掴んでいる彼女の、もう片方の手には空になったウィスキーの瓶があった。中庭に来たとき、その瓶の中身はまだ半分以上残っていたはずなのに。
「そろそろお休みになられたほうがよろしいですよ」
 私の目線の動きから、琥珀は私が何を考えたのか理解したらしい。余計な言葉を使わず、彼女はそれだけ言い残して立ち去ろうとする。
「琥珀」
「なんですか? 秋葉さま」
 立ち去ろうとする彼女の名前を呼んだ。主人たる私に名前を呼ばれて立ち止まった彼女は、名前どおり琥珀色の瞳を私に向けた。
 それは、手にしているグラスにわずかに残る液体の色に似ている。
「…兄さんは?」
「志貴さんはお部屋に戻られましたよ。…そうそう、秋葉さまが中庭で月見酒することを申し上げたら、二日酔いには気をつけるように、と」
 忘れていたのか、それとも兄さんのことを尋ねられると分かっていたのか、琥珀は思い出したようにそう言って笑った。
 いや、気づいていたんだろう。兄さんが帰ってきてから約一年。私が兄さんの様子を尋ねなかった夜は一度たりともなかったのだから。
 でも、飲み過ぎに、ではなく二日酔いに、という注意の仕方をするあたりが兄さんらしい。そう思って思わず笑った私に、琥珀が頭を下げた。
「いま、お薬とお水をもってきますね。いくら秋葉さまでも、今日は飲みすぎですから。明日に差し障りがあっては困ります」
 言い切って、琥珀はすっと闇に消えた。反論する隙を与えては、私がそれにノーという判断を下すと思っての行動だろう。月明かり照らす中庭に残されたのは、私と、そして中身が半分ほどになったグラスだけ。
 琥珀との会話で破られた静寂が戻ってくる。遠野の屋敷の庭は広い。夜風に揺れる木々の音が、ざわざわと私の耳に届いた。もうすぐ本格的な秋。そうなれば、このざわめきに虫の声が重なることになるだろう。
 手にしたグラスに残る、わずかなアルコール。琥珀が戻ってくるまでにそれをどうやって楽しもうかと、グラスを回す。
「あら」
 揺れる液体を眺めていると、その声が聞こえた。続いて、風に揺れるよりも大きく、がさり、と一本の木が音を立てる。
 そして猫のような身のこなしで、音もなく舞い降りる影。
「お酒は二十歳になってから、っていうのがこの国の決まりじゃなかったっけ? 妹」
 金髪。そんな表現では伝えきれない。絹糸を天上に浮かぶ満月の光で染めれば、きっとあんな色になるんだろう。そう思わせる髪を夜風に好きにさせたまま、彼女は歩み寄ってきた。
 月明かりだけで浮かび上がるシルエット。それは怖気がくるほどに幻想的で、手にしていたグラスの中身はいつのまにか波打つことを止めていた。
「…この国の決まりでは他人の家に勝手に侵入してはいけないことになってると、何度申し上げれば分かっていただけるんですか?」
 やってきた影の主に声をかける。彼女はそれがさも当然であるように私の正面の椅子に座ると、ごく自然に笑った。
 不敵や挑戦的な笑みではなく、それを楽しんでいるような笑顔。
「志貴と私は他人じゃないもの。だからこそ、あなたを妹って呼んでるんじゃない」
 くすり、と笑った彼女は私の持っているグラスを見つめた。
「生憎と、泥棒猫に差し上げるお酒はないんです。アルクェイドさん」
 わざと誇張して名前を呼ぶと、彼女は嬉しそうに笑った、ように見えた。テーブルの上で頬杖をついて、私の顔を覗き込むように見つめてくる。
「…それで、どうしたんですか? 今夜は。どうせ、兄さんの部屋に行かれるために忍び込んだんでしょう」
「うん、だけど珍しく妹がいたから。挨拶でもしようかと思って」
 頬杖をつくために少し身を乗り出す格好になった彼女と、わずかに距離が縮まる。その瞳に見つめられて、少し居竦まった。兄さんのことが念頭にあるためかいつも敵対意識しかもっていなかったけれど、間近で見る彼女の瞳はとても神秘的だった。
 耳に響く彼女の声、優しい気がする。
 ふわりと舞い降りたその姿を見たときに、毒気を抜かれてしまったのだろうか。もしかしたら酔っているのかもしれない。普段ならば怒鳴りつけ、一発で険悪なムードになるというのに。
 …でも。私はそれを望んでいるんだろうか。いつもそれが当たり前だったから、そうならないと何故か居心地が悪いような気がするだけで。
「挨拶、ですか?」
「そう、挨拶」
 彼女は、流し目をするように少しだけ視線を横に逸らした。見ようによっては、なにか考え事をするときの仕草に見えなくもない。
「何か良からぬことを企んでいるんじゃないでしょうね?」
「あ、ひどいな。妹までシエルみたいな事を言うんだ。企むならわざわざ挨拶しにきたりしないんだから」
 逸らした視線はそのまま、彼女は不機嫌な声で反論した。頬を膨らませるような、そんな子供じみた怒り方で、私は思わず小さく笑う。
「私にわざわざ挨拶をするから、企むなんて勘ぐられるんです」
 なんだろう。目の前に居るこの女性と、今まで一度たりともこんなに素直な気持ちで会話できたことなんてなかったのに。
 酔いが怒鳴る気力を萎えさせるほどに私を気だるくさせているんだろうか。諭すような口調で返事をしている私は、確かに今、彼女との会話を楽しんでいるような気がする。
「そもそも、夜這いなんて行為はそろそろお止めになったほうがよろしいんじゃないですか? 兄さんとの関係に絶対的な自信があるのなら、そんな姑息な手段を使わなくてもよろしいでしょう」
 言って、私は思わず笑ってしまった。その笑みはけして嘲笑などではなく、彼女に対してこんなことを呟いている自分におかしみを感じたからだ。初めて出会ったときから反発ばかりでまともに会話したことすらなかった彼女と、こんな綺麗な月夜に会話をしている自分がおかしかった。
「…だって、一緒にいたいじゃない」
 拗ねるような声だったかもしれない。そう思ったのは、それが今までの返事よりも一回り小声だったから。見れば彼女は、わずかに唇を尖らせている様子だった。
「妹はいいわよ、この屋敷にいる限りずっと一緒だもの。おまけに学校も一緒だし。…でも私は、志貴が時間を作ってくれない限り、私から会いにこなければ同じ時間を過ごすことが出来ないんだから」
 一応私、吸血鬼だし。そう彼女は付け足した。
 その言葉を聞いて、私は持ったままだったグラスをそっとテーブルに置いた。ことり、と底の厚いガラス製のグラスが音をたてる。
 そうか…。
 そんな呟きが、心の中で漏れた。
「別に…なにがしたいわけじゃないの。妙なことをすると志貴は怒るし、志貴に怒られたくて忍び込んでいるわけじゃないから。ただ、朝まで寝顔を眺められればいいの」
 寂しそうだった声色の底に、わずかに淡い喜びが見え隠れする。見れば、彼女は少し嬉しそうに笑っていた。それが私には照れ隠しをしているように見えて、何故か少しだけ胸が痛む。
 さっきの、そうか、という納得の声が、痛みを覚えた胸の奥で響いた。
「…楽しいんですね」
「うん。私、自分の寝顔って知らないけど、志貴のようだったらいいな、って思うよ。…たまにうなされてるみたいだけど、それも可愛い」
 自白したような呟きに、彼女は明るい声を返す。今夜に限っては彼女も楽しそうに見える。それは、私の勝手な思い込みなんだろうか。
 嬉しそうに兄さんのことを語る彼女に、私の心はまるで万華鏡のようにその気持ちを変化させた。そこにあるのは多分、嫉妬と羨望。
 同じ痛みを無意識に自覚しているから、こんな気持ちになる。
 いくら好きでも。いくらあの人を好きになっても。
「…兄さんの寝顔なんて、私でもそう拝めたものじゃないんですからね」
 皮肉と冗談を混ぜた言葉を投げてみる。それは意地悪じゃなくて好奇心。どんな反応をするのだろうかと、興味からやってくる出来心。
「私だって、出来ることなら子供の頃の志貴と遊んでみたかったよ」
 答えて彼女は笑った。なんだか私の企みを見抜かれていたような気がして思わず苦笑する。そんな私の苦笑いを見て、彼女はよりいっそう笑ったように見えた。勝ち誇るでもなく、嘲笑するでもなく。
 ああ、気づかれてしまったんだな、と思う。でも後悔はなかった。
 奇妙な感覚。それはきっと、同じ人を好きだという意識の同調。
「いい風」
 不意に呟いた彼女から少し遅れて、木々がざざっと大きく揺れた。それから吹いてきた風が、彼女の髪を揺らし、そして私の髪も揺らす。
 月明かりを反射する髪が、私の目の前で揺れた。淡い光を反射する髪と対照的に、私の黒髪はその光を吸い込もうとしているように見える。でも私はそんな自分の黒髪が好きだった。
「妹の。綺麗だよね」
 一瞬何のことだか分からずに、思わず私は押し黙ってしまう。その顔が彼女からするとさぞ面白かったのだろう、くすりと小さく微笑んでから、彼女はすっと手を伸ばして私の髪の毛を捉えた。
 華奢な指。それが吸血鬼のものであると忘れてしまうほどに細い指が、私の黒髪に絡んだ。奇妙な光景。でも、嫌な気分ではなかった。
「あ、の…」
 言いかけて言葉が淀む。気恥ずかしいという気持ちが、言おうとした言葉を喉で止めた。兄さんの前でいつも繰り返しているそれを、まさかこの人の前で感じることになるなんて。
「ん…?」
 私の髪をいじるのが気に入ったのか、片方の手で彼女は私の髪を丁寧にいじっている。純粋に楽しんでいるのが、その目からも分かる。洒落や悪戯なんかではない証拠に、その手から髪を通って伝わってくる振動はとても優しかった。
 髪に神経が通っていたなら、いまあの人が繰り返している行為はきっと愛撫と呼ばれるものに等しい。
「大和撫子」
「えっ…?」
 彼女の声で聞くにはあまりにも不似合いな気がして、私は思わず聞き返した。ずっと触っている私の髪を見つめていた彼女は、目を上げて、ちょっと思い出すような仕草を見せる。
「…前にね、志貴がそんなこといってたの。どんな意味かは聞くの忘れちゃったんだけど、少しは見習え、とか言ってた。妹の髪をいじってたら、なんか急にその言葉を思いだしちゃった。…なんでだろうね」
 ふふっ、という笑い声が形の良い唇から零れた。
 女だらけの学校に通って、寄宿舎で百人単位の女子と寝食を共にしていた事もある。女性というものを見慣れているつもりでいた私でも、それが唇なんだということを意識した途端、なんだか急にどぎまぎしてしまった。
 同じ屋根の下で暮らす琥珀、翡翠。彼女たちだって、綺麗だと思う。けれどその綺麗という感想そのものが、この人には当てはまらない。
 いま感じている気持ちはきっと、無垢なものを目の前にしたときの気持ちと似ている。それがあまりに無防備にそこにあるものだから、それを自分がどうしたいか、どうすればいいか、それが分からない。
 だからこんなにもどぎまぎしてしまう。
 そして、この穏やかな気持ち。会えばつい口喧嘩してしまうこの人に、今夜だけは素直で居られる自分を、なぜか私は嫌いじゃない。
 その理由。
「あの…」
 無意識に出てきた声はたぶん呼びかけようとした声で、少しうわずってしまった。
「あ、ごめんごめん」
 それを聞いた彼女は、髪を触られることに対しての私が拒否反応を示したと解釈したらしい。伸びていた手がすっと畏縮するように引っ込むと、さっきまでそこで撫でられていた私の髪が、風もないのにふわっと舞った。
「いえ、あの…別に嫌じゃありませんでしたから…」
 言って、私はグラスに手を伸ばす。喉が渇いた、というよりもそれは照れ隠しのための行動だった。なにかを手にもっていたほうが落ち着くような気がして、咄嗟にグラスへ手を伸ばす。
 慌てていたのかグラスまでの距離を見誤って、伸ばした指がグラスに当たって鈍い、キン、というガラス特有の音を出した。
 バランスを崩したグラスが倒れ、中身がテーブルの上に広がっていく。
「あっ…」
 零れたそれを拭こうにも、生憎とテーブルの上には倒れたグラスしかない。残りのものはさっき、すべて琥珀が片付けてしまった。
「…あ」
 不意に聞こえたその声に、私は目線を上げる。見れば、頬杖をついていた彼女の白い服が、零れたそれを吸って染まっていた。
「あ、あの、えっとその…っ」
「大丈夫だよ、妹。このぐらい」
 慌てる私と対照的に、彼女は自分の服の様子を簡単に確かめただけだった。
「でも、その…人様の洋服を汚しておいてそのままにするなんてことは」
 自分が立ち上がっていることに気づいたのは、そう言ったあとだ。よほど慌てていたのか、いつのまにか彼女の目線が自分を見上げていることに気づいて、それで自分が立ち上がっていることを知った。
「…今夜はやけに優しいね、妹」
 にこり、と微笑んだ。人から笑顔を見せられることには、たぶん慣れていたはずなのに、私は不覚にもその笑顔に言葉を詰まらされる。
 さっきからずっと感じている感覚。
「あの…代えの服を。いま、部屋を用意させますから」
「大丈夫。…今夜は帰るわね、妹。なんだか調子狂っちゃった」
 目線が並ぶ。彼女も腰掛けていた椅子から立ち上がっていた。彼女のことだから、この月夜では地面を軽く蹴りだせば、この場から溶けるように一瞬で消え去ってしまうのだろう。
 背中を向けた彼女に、私の足が一歩踏み込む。
「あの…アルクェイドさん」
 呼び止める。彼女はなに? と顔だけで振り返り、首を傾げた。
 なにか伝えたいことがあったわけではない。ただなんとなく、今夜、この瞬間をもう少しだけ味わっていたかった。
 これから先思い出せば、私は今夜のことをきっと恋しいと思うから。
「あの…」
 口篭もる私に、彼女が顔だけでなく全身をこちらに向ける。
「…昨日」
 呟いた彼女が月明かりの下、淡く光を帯びたように見えた。
「志貴がね、寝言で言ってたよ。妹の名前」
 そう告げて、また笑う。
「…羨ましかった」
 さっきから感じていた胸の奥のそれが、その言葉でぽろりと零れた。
 そう。認めたくないけれど、似ている。彼女と私は似ているんだ。
 吸血鬼でありながら人を好きになったこの人と、妹でありながら兄を好きになった私は、心のどこかで叶わない恋だということを理解しながら、それでもその好きという気持ちを暖め続けている。
 そして、その好きになった人は同じ人。
「…また寝言で志貴が、妹の名前を言ったらどうしようかな、って。今夜はそんなことばっかり考えながらここまできたの。…そしたら妹が見えたから、声をかけた」
 笑顔、だった。でも私には泣いているように見えて、胸が苦しくなった。なんで今夜はこんなにも彼女の考えていることが分かってしまうんだろう。
 分からなければ、知らなければこんなふうに想わないのに。知ってしまったら、もう後戻り出来なくなってしまう。
 彼女がどれほど兄さんのことを好きなのか。素直な気持ちが、まるでシンクロしたかのように私の心に流れ込んでくる。
「正直、今夜はそれがちょっと怖かった。だから、志貴の部屋に遊びに行こうかどうしようか悩んでたの。…でも良かった」
「あ、の…」
 声をかけたくて口を開くけれど、言葉が思いつかない。口を薄く開いたまま動けない私を見て、あの人はふっと笑った。
「今日、志貴がどうして妹のこと好きなのかちょっと分かった気がする。自分の妹だから好きなんだって思ってたけど、ちょっと違う」
 それは私も同じだ。
 兄さんがどうしてこの人を好きなのかなんて、考えもしなかった。ただ会えば頭ごなしに否定するばかりで、なにも知ろうとしないで。
「ね? もっと妹のことを知れば、仲良くなれるかな」
 ふっと伸びた手が、私の頭の上に置かれた。そのまま、その指で梳くように私の髪の毛を撫でる。
「私は…」
 そこまで口にして、言葉が続かなかった。
 正直、仲良くするとかしないとか、そんな次元で彼女のことを捕らえたことがなかった。私にとって、目の前の彼女は。
 彼女は…。
「…また明日ね、妹。もっとも、またあなたがこうしていたら、だけど」
 わずか、ほんの一瞬だけ目線を逸らした彼女は、最後にそう言い残して風になった。たん、という地面を蹴る音が聞こえた次の瞬間には、目の前に立っていたはずの吸血鬼の姿はなく、支えを失った私の髪は、落ち葉のように頼りなく揺れている。
「…秋葉さま」
 いつから居たのだろう、暗闇の中から薬と水の入ったグラスを持った琥珀が現れて、私を見て微笑んでいた。去り際、彼女の視線が動いた訳が、琥珀がやってくることに気づいたからなんだと分かる。
 咳払いをするように口元に手をあて、わずかにうつむいて気持ちを落ち着けてから顔をあげた。そんなこと、琥珀にどれだけの効果があるかは分からないけれど、少なくとも自分の気持ちの整理にはなる。
「ごめんね、琥珀。お酒を零してしまって、その…後片付けをお願いできるかしら」
「はい。…それであの、これはどうしましょう?」
 これ、というのは琥珀が持ってきた薬と水のことのようだ。手にもったそれを控えめに私に差し出してくる。私は最低限首を左右に振って、それがいらないという意思表示をした。
 アルコールの酔いは、もうとっくに覚めている。もしも今、私の顔が赤いとしたらその原因は別にある。
「はい」
 勘のいい琥珀は、そのやりとりだけで私の心境を察してくれたらしい。気が利くというのは給仕をするものにとって必要な才能だとは思うけれども、琥珀の超能力じみたそれにはたまに恐縮してしまう。
 これが月夜ではなく夕暮れであれば、この頬の染まりなんていくらでも誤魔化しようがあっただろうに。
 後片付けを琥珀に任せ、屋敷の中に戻る。必要最低限の灯りだけになった廊下を歩き、それから私は自室ではなく兄さんの部屋の前に向かった。
 一枚の板の扉。私はそのノブに手をかけることなく、そのまま、そのドアに額を預けるようにして寄りかかった。
 この一枚のドアの向こう側に寝ている人が、この世で最初に人を好きになる気持ちを教えてくれたのだ。
 恋焦がれる気持ち。それを耐える術。八年間待ちつづけ、想い続け。それでも変わらずにいた恋心。
「兄さん…」
 羨望と嫉妬。そして同調。あの女性から流れ込んでくる気持ちのきざはしをのぼりつめれば、それはやはり、同じ場所にたどりつく。
 好きだという気持ちに胸を張り、照れることなくその気持ちを表現する。足りない部分すら魅力にしてしまう行動力の根底には、ただ純粋に、その男性のことを大切だと自覚している気持ちがあるのかもしれない。
 兄さんがあの人のことを好きな理由。あの人が兄さんを好きな理由。理屈じゃなく、感覚でそれに触れてしまった。
 自分には出来ないこと。そうなりたいと願い、そうしたいと想う。けれどかなえることが出来ずに眠ったままの気持ち。それを輝かせてくれる相手との間に生まれる感情をもしも恋だと呼ぶのなら、私はこの月夜に、生まれて二度目の恋をしたことになる。
「…」
 兄さんは私の知らない間に、あの人にもこんな気持ちを教えてしまったのだろうか。あの人はそれの名前を恋だとは知らないかもしれない。けれど、だからこそ彼女はあんなにもまっすぐで居られる。
 だからこそ、私に微笑むことが出来るのだ。
 この淡い気持ち、たまらなく不安になる想い。
 それをあなたも感じているんでしょう?
 あの神秘的な瞳は、そう私に優しく問い掛けている気がした。
 好きな人の寝言にすら一喜一憂する、そんな大海に浮かぶ小船のように不安定な揺らぎ。彼女もそれを感じている。
 感じているから、知っているから。
「…おやすみなさい、兄さん」
 ドアにそっと手を触れる。そこにぬくもりはないけれど、このドアの向こうで大切な人が眠っているということが、今はなにより大切だった。
 明日の朝になれば、また会える。それでいい。それがとても羨ましいことなんだと、彼女は寂しそうに笑っていた。
 真っ暗だった部屋に戻ってきて、寝間着に着替える。脳裏に浮かぶ顔は、兄さんではなく、彼女のものだった。
 ゆっくりとベッドに横になると、ほんのりとした心地よさが体の底から染み出してくる。同じ屋根の下で眠りにつく。それは、八年間待ち望んできた事。朝になれば、翡翠に起こされたあの人は眠そうな顔を私に感づかれないようにしながら居間へとやってくる。
 きっとそれは目がくらむほどに幸せな日常。


 また明日ね、妹。


 ふとその声を思い出し、私は小さく笑った。明日の夜もまた綺麗な月が私をその場所へ誘うのならば、今度はグラスを二つ用意して中庭であの人のことを待つのも面白いかもしれない。
 兄さんはどんな顔をするだろう。彼女と私がお酒を一緒に飲んだ話をしたら、きっと絶句するに違いない。
「…ふふっ」
 想像して思わず笑ってしまう。なによりもこんなことを考える自分におかしみを覚えた。
 同じ人を好きになったら、その人は恋敵なんだとどこかで決め付けていた自分の考えを、今夜だけはちょっと忘れてみる。
 同じ痛み。ある人を好きになったからこそ、そんな感情で切なくなっている気持ちを、私以外の人が知っていること。
「私も…」
 どうして兄さんがあなたのことを好きなのか、少しだけ分かった気がします。そう言ったら彼女は、どんな顔で笑うのだろうか。
「…あ」
 そうか。
 その顔はたぶん、今夜の私と同じなんだろう。
 だからきっとその笑顔を見て私は尋ねてしまう。
 あなたのことをもっとよく知れば、あなたと仲良くなれるでしょうか。
 そう、笑いながら。
<2001.10.28 UP>