■ 冬咲花 〜 月姫Short Story2 〜 水瀬 拓未様 隠し事が露呈して初めて、人はようやくそれを隠していた本当の理由をしるのだろう。そして、それはその秘密を知られた相手によっても、変化してしまうのかもしれない。 私は、その存在そのものがある男の隠し事だった。そして、その男が死んだ後、私はその人とよく接するようになった。 新たな主人であり、理解者である彼女、遠野秋葉。 窓の外、仲良く走りまわるいくつかの影。子供の頃、窓の外は別世界であり、窓枠はあちらとこちらの境界線だった。その向こう側に存在する、自分と同じ年頃の子供たち。夏、それは空を覆う入道雲に重なって、白い幻のようだった。 けれど、その白い幻を見ていた時間は幻ではない。それが確かに存在していた証拠が、自分の記憶にも、体にも、そしてこの屋敷にも無数に刻み込まれている。 けしてはがされることのない記憶の爪跡。 それは、隠して生きていくことなど出来るはずもないぐらいに、大きくて、強い。 だから、私はたったひとつを隠すことに決めたのだ。 本当の自分という、たったひとつのものを。 兄である遠野志貴を屋敷に呼び戻す、という話を聞いたのは、夏がだいぶ過ぎ去った頃だったろうか。食後、紅茶を飲みながらだしぬけにそのことを言い出した彼女を見て、私はいくらか驚いてみせた。 内心、予想していなかったわけではない。彼女の遠野志貴という存在に対する気持ちは分かっていたし、父親が死去したことで障害がなくなった後、屋敷からゆっくりと、しかし確実に人減らしをしてきた理由の終点は、それ以外に思い当たらなかった。 「いつごろのご予定ですか?」 親戚縁者の反対をどのように押し込めたのか、そんな方法を聞いてもしかたがない。私が確認すべきことは、この屋敷に彼がいつ戻ってくるのか、それだけだ。 「来週を予定しています。有間の家にはもう話を通して、返事もいただいています。それで、兄さんには翡翠を付ける予定だけど…琥珀に異存はなくて?」 「主は秋葉さまですので、決定に従います。それに、秋葉さまの血の事もあります。私が秋葉さまから離れるわけにはいきません」 「…ええ」 ここ数日、妙に彼女が浮き足立っていた理由が腑に落ちる。と同時に、最近翡翠ちゃんがいつもよりも慌ただしくしていた訳に納得がいった。おそらく戻ってくる彼の部屋や身辺の用意があったのだろう。 「なにか、歓迎会のような催しはご用意されないんですか?」 「歓迎もなにも、兄さんは戻ってくるんです。それに、初日にそんなことをして妙な印象をもたれても困りますもの」 食後の紅茶を飲みつつ、彼女はわずかにため息をついた。そこに、期待と不安が入り交じっていることが分かる。 8年ぶりの再会。この8年という時間、彼女は遠野家という環境でずっと教育されてきた。その間、遠野志貴という人物は、その気配すら感じさせなかった。すっぽりと空白があって、その後、突然再会しようというのだ。いくら相手が兄だったとしても、相当な覚悟が必要だっただろう。 この8年間、彼女はなにかを求めるように急速に成長していった。未来の遠野家当主として、という義務感だけでは潰されてしまったであろうそれをこなし、自分からも進んで様々な知識や教養を身につけていった彼女。 いつかくるであろうこんな日のために、だったのかもしれない。兄である遠野志貴を呼び戻す時、親族に隙を見せないために彼女は完璧である必要があったのだ。 彼女を活かしている目的。それは、血のつながっていない兄、遠野志貴の存在。彼女はその人のためだけに、この8年間という時間を捧げてきた。 そしてその8年間、私はずっと想い出とあの目的だけを頼りに。 「あの、秋葉さま」 声をかけた。振り向いた彼女の、積み重ねられた時間に向かって。 「長かったですね」 独り言のように、そう呟いて。思い出しかけた記憶に、私は布をかぶせた。 「何を笑っているの?」 食後、紅茶を飲んでいる彼女から声をかけられて、自分が記憶の川をさかのぼっていたことに気づく。 「思い出していたんです、志貴さんをお迎えした頃の事」 隠すことでもなかったから、正直に笑ってしまった理由を彼女に告げた。 何故、あの記憶を思い出して笑っていたのかは分からないけれど、彼女が言うのであれば間違いはない。たぶん、本当に私は笑ってしまったんだろう。 「兄さんを迎える?」 「去年の十月頃、秋葉さまが夕食後におっしゃられたじゃありませんか。志貴さんをこの屋敷に呼び戻す、と。それがちょうど今日のように、紅茶を飲みながらだったので」 「ああ…」 思い出した、というふうに頷く彼女。それからその日のことを思い出しているのか、彼女の手がティーカップを持ったまま止まる。 そう、切っ掛けはささいな事。何故だか今夜に限って、彼女の紅茶を飲んでいる様子があの夜のことと重なって見えたせいで、私はそこにあの夜の出来事を思い出した。 過去のことを思い出して笑える日がくるなんてこと、あの頃の私ならば夢想すらしなかっただろう。人形は夢を見ないから、当然と言えば当然かもしれない。 あの頃の私は、目的という名前の糸で動く人形だった。 「あの時は歓迎会はしないって言っていたけれど、結局琥珀の提案ですることになったのだっけ。…でもめずらしい、琥珀の思い出し笑いなんて」 さすがというか、私の主である彼女も似たような感想をもったらしい。日常の出来事ならばともかく、自分の過去の記憶を思い出して笑うなんてことは、彼が戻ってくるまではありえなかったこと。 彼女の兄である遠野志貴がこの屋敷に戻ってから、もうすぐ一年が経とうとしていた。それは同時に、あの事件から一年が経つ、ということも意味している。 「もうすぐ一年になるのね…」 「はい」 持ったままだったカップを、音もなくそっとソーサーに戻す。それは流れるような動きで、そんな動作一つにまで彼女の受けてきた教養と躾が染みこんでいる。 何事か思案する横顔。以前ならばそこに隙はなく、その横顔には年齢からすればとても似つかわしくない威厳と気品が備わっていた。けれど今の彼女の横顔に緊張感はなく、年相応の少女のものに見える。 一年という時間で、こうも人は変わってしまうのだろうか。 いや、戻ってきた彼の存在は、彼女だけでなく屋敷の空気すら変えてしまったのだろう。私が思いだし笑いをしてしまうほどに。 「…そうね」 考えていたことがまとまったのだろう、彼女は自分を納得させるように短く呟いた。 「節目だもの。歓迎会ではないけれど、似たような機会をもうけるのも悪くないわ。一年前は急な事で準備もあまり出来なかったけれど、今回は準備もきちんとしましょう。…そうね、週末がいいかしら」 「はい、では早速」 何の節目か、なんの準備か。そんなことは問うまでもない。 頷いた私の顔を見て、彼女が微笑んだような気がした。けれど何も言わず、彼女はそのまま残っていた紅茶を飲み干し、席を立つ。 「後片づけをお願い。楽しいものにしましょうね、琥珀」 そう言い残し、彼女は自室へと戻っていく。 一人残された私は、彼女が微笑んだ理由を探し、そして思い当たる。たぶん、私はまた笑ってしまっていたんだろう。あの、一年前の歓迎会という名前の酒宴を思い出し、私の表情は無意識に緩んでしまったに違いない。 彼女はそれを見たからこそ、満足し、そして微笑んだのだ。 それは、とても楽しい時間だった。部屋のどこに視線を向けても笑顔がある、そんな空間。翡翠ちゃんと彼女から代わる代わるの酌を受けて、苦笑しながらもその度にグラスを空にする彼を見ていると、ココロがなにかで埋まっていくような気がして、私は不意に手を止めてその様子を眺めていた。 まず初めに、翡翠ちゃんが酔い潰れてソファーに横になった。去年の事を思えば、グラス三杯は立派だと思う。準備を手伝って貰うためにあらかじめ今夜のことを話したときから妙に意気込んでいたので、その成果なのだろう。精神力がどれほどアルコールに対する抵抗力を高めてくれるかは分からないけれど、頬を染めた寝顔はとても満足げで、それは今夜の翡翠ちゃんの気持ちそのものだったように思われた。去年の経験からあらかじめ用意しておいた毛布を翡翠ちゃんにかけた私は、テーブルの上の酒や料理の量が寂しくなってきたこともあって、空になった皿や酒瓶を手に取り、そのまま厨房へ向かった。 用意しておいた料理やアルコールは、まだ半分以上残っている。準備期間があったことで充分な量を作ることが出来たし、主催者である彼女も今夜のために心構えをしていたことだろう。翡翠ちゃんですら三倍だったのだから、彼女の本気とすると五倍ぐらいの量を覚悟しなければならないだろうし、実際、それに耐えうる量が用意してある。 いくつかの料理と、それから酒瓶を持って広間に戻った。すると、予想に反して彼の姿は見えず、彼女は彼が使っていた空のグラスをぼんやりと眺めていた。 「逃げられちゃったわ」 それが、戻ってきた私への第一声。隣の席、空のままのグラスを指ではじいた彼女は、まだ染まりかけ、といった具合の頬に手をあてている。 「医者とか病気のことを引き合いに出すのは卑怯だと思わない?」 その言葉で、彼がどのようにして彼女の酌から逃げたのか想像がついた。翡翠ちゃんが眠り、そして私が厨房に引き込むタイミングを見計らっていたのだろう。一対一ならば、という計算が働いたに違いない。 「せっかく兄さんのために用意した会だっていうのに……ねぇ、琥珀」 言いながら、しかし彼女は自分のグラスにウイスキーを注いだ。私が持ってきた新しい料理が、彼女の機嫌を戻すのに役立ったらしい。 「秋葉さまも、気合いを入れすぎたんじゃないですか?」 テーブルの上を整理しながら、空いたスペースに新しい料理を並べる。と、彼女は新しいグラスを用意して、そこにブランデーを注いだ。 「お湯で割った方がいいかしら」 それは明らかに私に対する問いかけで、一緒に飲みましょう、という誘いだった。私が答えないままでいると、それを肯定として、彼女はそこにお湯を注ぐ。さきほどまで彼が座っていた席に作ったばかりのお湯割りを置いて、彼女は目だけで飲みましょう、と私の着席を促した。 「…はい」 幾分遅れた返事をして、私はその席に腰掛ける。ソファーにはわずかに彼の温もりが残っていて、それが秋の夜、着物越しに私の肌を暖めた。 「私では志貴さんの代わりは務まりませんよ」 彼女が用意してくれたグラスを取り、言ってから一口飲む。私もいくらか酔いが回る程度には飲んでいたけれど、意識と理性が混濁するにはほど遠い。 「いいのよ、琥珀。…私はあなたと飲みたいの」 その声に横を見ると、ふと真顔になった彼女が微笑んでいた。その言葉には偽証も演技もなく、真意の込められた言葉に、私は若干だが照れてしまったように思う。 部屋は無音で、わずかに繰り返される翡翠ちゃんの寝息が聞き取れるほどに静かだった。 「琥珀。私が一年前、兄さんにしていた話。…聞いていたでしょう?」 「…はい」 「出来すぎたタイミングで戻ってくるんだもの。聞いてなければ出来ないわよ」 くすくすと、頬杖をついた姿勢で彼女は笑った。 一年前の歓迎会。そこで彼女は兄と二人きりで話す機会があった。今夜と同じように私がなくなってしまった料理やお酒を用意するために厨房に行っている間のことだ。 アルコールが入っていた、ということもあったのだろう。普段よりも素直に自分の心情を吐露することが出来た彼女は、自分の兄に対してひとつの話をしていた。 「初めから聞くつもりはありませんでした。でも、私はあの話の内容が耳に入ってしまったから、戻るタイミングを逸してしまったんですよ」 一年前の夜。分け隔てなく優しい人は、誰にでも優しいから同時に冷たいのだと、彼女は自分の兄に対して呟いていた。 その優しさは、一番になりたい人にとっては残酷だと。 「…秋葉さまは、志貴さんに何かを残そうとしてくれない、とおっしゃっていましたよね。無関心で、本当はとても孤独な人なんじゃないかと」 その会話は昨日の、ともすれば先ほどの出来事のように思い出せる。 8年間思い続けてきた相手との再会、そして現実。思い続けてきたが故に膨らみすぎてしまった気持ちと、どこかで危惧していたことが目の前にある畏怖のような感覚。 それは、私の中の気持ちに似ていた。 「どうして、あそこで声をかけたの?」 「怖かったんじゃないでしょうか。あの先の言葉を聞いてしまうのが」 たとえ一番になれなくても、好いていてくれるならばいい。一番に想える相手がいないのならば、それでもかまわない。 けど、今はもう。 彼女がそう言いかけたとき、私はたまらず声をかけた。その後、彼女は私の持ってきた酒をグラスに注ぎ足し、あの言葉は結局、途切れたまま終わった。 「…私ね、感謝しているのよ。琥珀には」 手に持ったグラスを揺らしながら、彼女はその中で波打つ液体を眺めている。こちらに視線を向けず、彼女は酒をつぎ足すように、言葉も継ぎ足していく。 「あの時、もしあのままあの先を口に出していたら。私はあとできっと後悔していたと思う。だから、あそこで琥珀が戻ってきてくれたことには、ずっと感謝していたの」 優しい声。それは主と侍女、という関係のものではなく、同年代の女性へ向けての言葉のように思われた。 「…どうして、急にそんなことをおっしゃられるんですか」 素直に礼だけを言えばいいのに。普段ならばそうしているはずなのに。今夜の私の口からは、そんな質問が出ていった。 それを聞いて、彼女はいささか微笑んだように思う。彼女も私が礼だけ述べるような気がしていたんだろうか。そこで途切れるはずの会話は、まだ続いていく。 「私、8年間いろいろな事を考えていた。一番強かったのはたぶん恐怖だったと思う。忘れられていたらどうしよう、変わっていたらどうしよう。過ぎ去っていく時間は、とても長いようで一瞬のようでもあった。そんな曖昧な時間という概念が、ただでさえ希薄な兄妹という関係を削り尽くすようで怖かった。あの人をこの家に呼び戻す口実は、彼がこの家の長男である、という父親が残していた虚実しかないんですもの。あの人が戻る気はない、と言ったらそこで何もかもが終わってしまう」 去年の夜と同じように、彼女は独り言のように呟きを並べていく。私はいつのまにかお湯割りの温もりを逃さないように、グラスを両手で包むように持っていた。 「…だから、兄さんが有間の家から戻ってくる、と聞いたときには、正直どうして良いのか分からなかった。戻ってこないかもしれない、という不安の方が大きかった分、戻ってくると期待していた気持ちが自分の中でうまく動き始めなかった。再会の日が近づくにつれて、私はその不完全燃焼した気持ちの上に新しい自分を作ろうと模索し始めた。だって、私が8年間育ててきた自分は、遠野家当主としての遠野秋葉であって、遠野志貴の妹だったころの遠野秋葉ではなかったから。私は必死になって、心の中をひっくりかえして探したわ。遠野秋葉が、まだ遠野志貴の妹だったころの記憶」 ああ、その記憶なら私も覚えている。あの窓の向こうに見えた、白い幻。いつも仲良さそうに遊んでいる影。走っていく男の子を追いかけて走る女の子。本気で走れば逃げられるのに、立ち止まり振り返っては、男の子は女の子が追いつくのを待っている。 そんな振り返る視線に、ある日偶然、私は見つかってしまった。 「でも、子供の頃の記憶を思い出してみても強くなったのは自分の兄さんに対する気持ちばかりだった。今更、屋敷に帰ってきた兄さんの後ろをついて歩く、なんて事出来るわけがないもの」 その光景を想像したのか、彼女が笑った。つられるように想像し、そして私も笑ってしまう。怒るでもなく困るでもない彼の表情が、容易に思い浮かべられた。 「…だから兄さんが戻ってきてから数日、私は遠野家当主として兄さんと接していた。たとえ妹として見られていたとしても、兄さんの側にいられるのならばそれでもいいと思えたから」 そこまで言って、彼女はようやく揺らしていたグラスの中身を飲み干す。空になったグラスが差し出されたので、私は何も言わず、そこに自分と同じお湯割りを作った。 「一緒に暮らしたい、というのが妹である遠野秋葉の望み。そして、それを叶えるために必要だったのが遠野家当主である遠野秋葉という存在。たとえ一番でなくても好いてくれているのならば、と呟いたのは妹である私。でもあの夜、琥珀が戻ってきたときに話していた遠野秋葉は、そのどちらでもなかった。…たぶんあれは、本当の私」 作りたてのお湯割りを受け取って、彼女はわずかに目を細めた。 「8年間という時間が、きっと私に気づかせてしまった。妹という自分が希薄になり、遠野家当主としての時間が増える中で、兄さんのことを思い出すたび、想うたびに強くなっていった気持ち。恐怖と隣り合わせの気持ちを暖め続けたのは、結局、妹としての私でもなければ遠野家当主としての私でもない、ただの遠野秋葉だった」 わずかに上気し始めた頬と相まって、年頃よりも幼く見える横顔がそこにあった。それがきっと遠野家当主としての生活を続ける中で、埋もれていった等身大の彼女。 彼女の言葉を借りれば、ただの遠野秋葉なんだろう。 「私も……きっとそうですよ」 だから、そんな彼女に私は呟いた。 「あの夜、秋葉さまの言葉を聞きたくないと思ったのは、秋葉さまに仕える侍女の私ではなく、ただの琥珀だったんじゃないか、と思います」 あの夜、兄に向かい告白しようとしていた彼女の言葉の続きが、私には分かってしまった。だから聞きたくなくて、私は戻ってきたふりをして声をかけて会話を止めた。 「羨ましかったんです、たぶん。秋葉さまの口から、志貴さんに伝わってしまうのが。8年間、遠野秋葉という少女が遠野家という檻の中で生きていくことが出来た目的。その目的が目の前で成し遂げられるのが、たぶん、あの頃の私には耐えられなかった」 この家にやってきて、初めて優しい目を向けてくれたのが遠野志貴。けれど彼は結局、私をあの檻から出してくれる事なく、この屋敷から去って行ってしまった。彼がいなくなると、窓の外の白い幻も見えなくなった。もう二度とあんな幻を見ることもないと、そう思った矢先、彼と同じ目を向ける人がいた。それが、彼の妹である遠野秋葉。 彼女は、自分の父親が行っている行為を知ると、遠野志貴ですら開けることが出来なかった檻を開いてくれた。けれど、その頃の私はすでに壊れていて、中身の空っぽな人形だった。遠野槙久が繰り返す行為から逃れるために、壊れるしかなかった自分。私はせっかく開かれた檻から出ることが出来なかった。人形は、歩くことが出来ない。 けれど、彼女はこの空っぽな人形に洋服を着せようとした。 「秋葉さま。私に自由をくださったのはあなたです。あなたはあの冷たい檻を開けただけでなく、空っぽだった私の中身を探そうとしてくれた。薬学の知識を学ぶことを勧めてくれたのも、自分付きの侍女として私を指名してくださったのも秋葉さまです」 それは明らかに、遠野槙久と私を引き離すためのものだった。自分の父親が行っていたことへの償い、負い目、罪の意識。そういうものがあったのだろう、彼女は私のことを想い、なるべく自分の側にいられるように気を遣ってくれた。 けれど、私はそれすらも利用し、遠野家の人間を殺そうとした。私という人形に似合いそうな操り糸はそれしか見つからなくて、私はそれを目的に生きていった。空っぽだった人形が、人間の真似事をし始める。途中までは巧くいったそれも、結局、成し遂げられることなく一年前に終わった。 「自分を殺そうとしていた相手とこうして一緒にお酒を飲もうとするなんて、きっと秋葉さまと志貴さんぐらいなものですよ」 その言葉に、彼女は苦笑したものの反論はしなかった。私の計画を知りつつ、ずっと騙され続けてきた彼女には、いまさらこんな皮肉は通じないのかもしれない。 嘘を言い続けてきた人と、それを知りつつ騙され続けてきた人。そのどちらが愚かだとか、彼女は気にしない。ただ自分がそうしたかったのだからと、そう言うだろう。 本当に殺したかったんだろうか。今でもたまに考える。憎いとか嫌いだとか、そんな感情は初めだけで、子供だった私にはそう思えば思うほど辛いだけだった。なによりも悲しくて、その悲しさの中にいるのがもっと悲しくて。だから人形になってしまえばいいと、自分の中を空っぽにした。けれど人形は、ずっと人形のままではいられなかった。不意に手に入れた自由。人形が人間らしく振る舞うためには理由という糸が必要で、私に見つけることが出来たのは、遠野家の一族を殺す、という糸だけだった。 けれど、その糸は遠野志貴という人によって断ち切られた。そして、動けなくなるはずだった私は、今もこうしてこの屋敷で働いている。 人形のはずだった私は、糸が切れた今でも動いている。 「…私、琥珀がいてくれて良かったと思っているのよ」 考え事の渦の中にいると、不意に彼女の声が聞こえた。 「兄さんが有間の家に預けられた後、この屋敷の中で遠野家とまったく関わりのない人物はあなたと翡翠しかいかなった。誰も彼もが私を遠野槙久の長女だと、次期当主だという肩書きや記号でしか見ていなかった中で、私を私として見てくれたのは琥珀と翡翠、あなたたちだけだった」 半分ほどに減ったお湯割りの入ったグラスをテーブルに置いて、彼女はこちらを向いた。視線が、同じ高さで交差する。 その瞳は、けして酔っているものではなく、しっかりとした色をもっていて。 「ずっと誤解をしているようだから改めて言っておくけど。あなたを私が自分の侍女にしている理由はね、あなたが感応能力を持っているからでもなければ、あなたをお父様から引き離したかったからでもないの。ただ純粋に、心安まる相手があなただったからよ」 照れるわけでもなく、真顔で。彼女はそう言って見つめてきた。こんな事を真顔で言われるのは初めでだから、思わず返答に窮する。 「好きだからあなたを選んだ。そう言っているのよ、琥珀」 「でも…私は秋葉さまのことを遠野家の当主として接してきたつもりです」 精一杯の返事。けれど彼女はおかしそうに笑う。 「どこの世界に、面と向かって主人のことをザルだなんて言う召使いがいますか。一年前の歓迎会で言われたこと、これでも気にしているのよ」 言葉と裏腹に、彼女は微笑んだままで私を見つめている。 「私に接する人が見るのは、まず肩書き。遠野家当主、という肩書きよ。それはどこに行こうと変わることはない。9年前の事故で兄さんがいなくなってからずっと、私は遠野秋葉である前に、次期遠野家当主として扱われてきた。ほとんどの人が、遠野秋葉と付き合いたい訳じゃない。次期遠野家当主と付き合いたいだけ。お父様ですら、期待していたのは遠野秋葉ではなく、私の中の血だった。でも琥珀と翡翠は、私を遠野秋葉として扱っていてくれてた」 私を見つめたまま、言葉が続く。遠野秋葉としての、言葉。 「お父様が亡くなったとき、私、あなたたちにここを辞めてもいい、って話したことがあったでしょう? こんな屋敷にいたくないだろうから、って。でも、あなたたちは何も言わずに残ってくれた」 「それは違います、だって私は」 「私を殺すために残った、って言うんでしょう? でもそれだって、理由はどうあれ私のために残ってくれたってことになるんじゃないかしら」 「なっ…」 思わず絶句した。彼女は今、笑顔でものすごいことを言ってる。 「兄さんと暮らすことになって、この屋敷から学校に通うようになって。毎朝あなたに見送られて、毎晩あなたに出迎えられて。血が騒ぎだす夜には、ずっと付き添ってくれたし、時には血を飲ませてくれた。それは確かにあなたの計画通りだったのかもしれない。でもね、そこには私の意志があったの。私はあなたが好きだった。もちろん、今でもよ」 何も言えず、何も出来ず。私はただ言葉を聞き、見つめているしかなかった。気づけば両手で持っていたグラスが、すっかり冷たくなっている。 「…私は、秋葉さまにそのように思っていただけるような存在ではありません」 冷えたグラスが、私の心から微かに浮かび上がる感情を吸い込んでいく。それは必要のない物だとずっと昔に忘れ去っていた気持ちが、今夜はなんでこんなにも。 なんでこんなにも、私を悲しくさせるんだろう。 痛くて、悲しくて、全部が嫌で。人形になってしまえばいいと、私は自分の体を人形だと思いこんだ。作り物の体に、赤い液体を通すチューブ。良くできた細工の心臓。だんだんと人形になる自分が、必要がないと置いてきてしまったもの。 笑うことが、一番簡単だった。きっと憧れていたから、笑うことに憧れていたから、すぐにそれを真似する事が出来た。人間のふりをしなくてはいけなくなった人形の私が一番はじめに覚えた人間らしい仕草は、どんなときでも笑っていること。 なのに、どうして今夜はこんなにも。 「…どうして、急にそんなことをおっしゃられるんですか」 沈黙がなんだかとてもつらくて、震える声でかろうじて呟く。 「さっき兄さんに逃げられたとき、一年前の歓迎会のことを思い出して。あのとき琥珀が会話に割って入ってくれたことに感謝をしている事を、まだ伝えていないことに気がついた。お礼を言いたくて、だから琥珀とお酒を飲みたくなったの。そうしたら、次から次に伝えたいことが溢れてきた。それだけよ」 しっかりとした声で、彼女はそう言った。いつの間にか、私は自分の手元ばかりを見ている。冷たくなってしまったお湯割りを、ずっと包んでいる両手。 冷たいという感覚を、ちゃんと感じている両手。 「これからもよろしくお願いします、琥珀」 「…はい」 僅かに改まった口調で、ちょっとおかしそうに笑う彼女。それに、私は頷いた。 いつからだろう。あれだけ何も感じなかったこの屋敷を、だんだんと好きになり始めている私。空っぽだった自分の中に、置き去りにしてきた感情が降り積もる。 好きという気持ち。嬉しいという気持ち。恥ずかしいという気持ち。 そして、それを忘れていたことを私は今、こんなにも悲しいと感じている。 「…私、隠していたことがあるんですよ」 だから思い切って、私は顔を上げた。何かが零れて、手を濡らす。かまわず彼女の方に向き直り、ぼやけた視界の中でその人を見つめた。 隠していたのは、誰でもない自分自身。私は、こんな感情が自分の中にあるだなんてことを、ずっと知らないで過ごしてきた。 隠していた気持ち。 「私、秋葉さまのこと……好きでした」 そう言った私に、彼女は柔らかく、それが当たり前であるかのように微笑んだ。体中が震え出すのが、どうしてもこらえきれない。そんな震える私の体を、彼女の腕がそっと包み込む。わずかに抱き寄せるようにして、私はその腕の中に収まった。 人から抱きしめられるなんて、ちゃんと抱きしめられるなんて、そんな感覚はずっと忘れていたから、私はどうしたら良いのか分からずにいて。 だから最後に、声を出して泣いてしまった。 涙なんて、ずっと忘れていた。怖くて、悲しくて、痛くて。叫び声と一緒に涙を流していた頃のことを、人形だった私は置き去りにしてきた。 心が軋む。彼女の気持ちに触れた心が、まるで悲鳴をあげるように震えている。どうやって応えればいいのか、それが分からなくて軋む。 笑えない。あんな作り物の笑顔じゃ、きっと足りない。分からなくて、どんな顔をすればいいのか、どんな琥珀でいればいいのか分からなくて。 私はずっと、彼女の腕の温もりの中で泣いていた。 「…これは、二人の秘密にしましょうね」 いくらか時間が経って。ようやく嗚咽の収まった私の耳元に、彼女はそう呟いた。 「明日からは、今夜のことを隠し事にするといいわ」 少しだけ悪戯っぽく。けれど、あの笑顔のままで、彼女が見つめている。 「……はい」 頷くのが精一杯で、その声はきっと声にならなかった。でも、伝わったと信じたい。だから、明日からまた動き出す日常の中で、私はもっと。 もっと、彼女の側にいたいと思った。 <2002.10.01 UP>
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