■ It’s So Sweet 水瀬 拓未様 私は、自分の名前があまり好きではなかった。好きになれたのは、いや、好きでいられる時間が出来たのは、裕也のおかげだと思う。 裕也の声は、一言で言えばずるい。低いとか渋い、とかそういう表現の枠に収まりきらないほどいい声をしている。時に小さく囁き、時にくだらない冗談で私を笑わせる彼の声をあえて表現するなら、それは甘い、だろうか。 味わうことの出来ないそれに「甘い」なんて感じるのは、ちょっとおかしいかも知れない。けれどそれで囁かれると、私は確かに口の中はおろか、全身にとろみを帯びた甘さを感じて、時に立っていられなくなるほど、文字通り、骨抜きにされてしまう。 厄介な点といえば、彼は私の弱点が声であることを看破していて、事あるごとにそれを利用する、という点。もっとも、もともと裕也の声が好きで、暗にそういうふうに仕向けていたのは自分なのだから、自業自得といえばそれまでだ。 どんな物事にも、耐性というものはあると思う。ホラー映画だって飽きるほど見れば驚く部分もなくなっていくし、ジェットコースターだって繰り返し乗れば、どこで落ちるか分かるので余裕も出てくる。 しかし、裕也の声は私に飽きるということを教えてはくれない。 「…当たり前か」 相手は映画でもなければ遊園地の施設でもない。人間様だ。これ以上ないファジーな存在なんだから、それに慣れるなんて事、できはしないのかも知れない。 なにしろ、彼は生きている。日々、成長しているんだから。 …私も、成長しているはずなんだけど。 「…瀬菜」 耳元で声。ぐっすり眠っていたから、まだ起きるのは先だと思っていたのに。 「起きた?」 灯りをつけていない部屋はまっくらで、目を覚ました彼がどんな顔をしているのか見る術はない。ただ、さっきまで聞こえてきた寝息はもう聞こえなくて、その代わり、裕也のもそもそと体を動かす音が聞こえる。 「…俺、寝てたんだな。悪ぃ…せっかく二ヶ月ぶりなのに」 肌の触れ合う面積が増える。裕也が、自分から体を寄せているなによりの証拠。 ずっと仕事が忙しくて会えない日が続いて、こうして会えたのは実に二ヶ月ぶりだった。映画や遊園地など行き先をいろいろと提案した挙げ句、遠慮なくホテルに行きたいと告げたのは、私のほうからだ。 部屋を真っ暗にするのは、私たちのルール。初めての頃、見るのも見られるのも恥ずかしくて、私から灯りを消してほしいと頼んだ。一緒にお風呂に入ることにためらわなくなった今でも、寝るときは部屋は真っ暗にする。 互いを確認するために、目ではなく、口と耳と肌を使う。それはどこか原始的で、安らぎに満ち、それでいて淫らだと思う。 「ずっと起きてたのか? 瀬菜」 「うん」 頷いた私の頭を、彼が撫でた。腕枕をするのが好きな裕也が、それをねだる合図だと知っているので、なにも言わず頭を浮かせる。 「俺、どのくらい寝てた?」 「わかんないよ。時計、見えないし」 腕枕で、肌の触れ合う面積がさらに増える。声が、耳に届くだけでなく、体温すら振動させていくようでたまらなく心地いい。 「瀬菜」 「んっ…」 裕也の手がくっと腰のあたりに触れて、そのまま片腕だけで私を抱き寄せる。二人きり、闇の中で囁く彼の声は、名前だけでこんなにも甘い。子供のようにあっけなく抱き寄せられて、私は身も心もその腕の中におさまった。 見えないからこそ感じることが出来る、確かな手の大きさ。同時に囁く声。なにも見えないこの部屋の中では、彼の声で紡がれると、自分の名前ですら胸を振るわせる。 よじ登るように、裕也の手が私の体を撫であがってくる。寝るときはいつも裸だから、その手は胸の脇や鎖骨を遠慮なく通り過ぎて、耳をくすぐるように頬をとらえた。 「瀬菜…」 動作のたび、呼ばれる名前。けれど、一つとして同じ響きはない。少し濡れた声に引き寄せられるように唇が触れる。指で私の耳をいじりながら、裕也は腕枕していた手で私の顔をより抱き寄せた。 「…ぁふ…っ」 突然のそれに、吐息が零れる。息苦しいという理由よりも、いつもは穏やかな裕也の突然の行動に驚いたから、というほうが正しい。 「…んん…ぁ…」 絡まり合う舌にかまわず、彼の名前を呼ぼうとする。けれど、声は名前にならずに、あえぐ呼吸に混ざってしまった。 「…瀬菜」 けれど、ふとキスの合間に、裕也はちゃんと私の名前を口にする。わずか一瞬、濡れた唇から確かに発せられた声はこれ以上なく甘美だった。 「…んふぅ…っ」 もしも立っていたら、瞬間腰が抜けるんじゃないかと思うくらいの衝撃に襲われて、私の体は勝手に腰を中心にして震えた。のけぞるように体が跳ねたので、自分の意志と関係なく、キスを繰り返していた唇が離れてしまう。 唇の端が、舌から溢れた唾液で濡れた。自分の舌でそれを舐め取ろうとするよりも早く、裕也の指がそれを拭い、そのまま口の中に進入してくる。 「ほら、舐めて…瀬菜」 「んっ…」 きっと意地悪な笑みを浮かべているであろう裕也の顔が脳裏に浮かぶ。暗闇の中、寝起きの彼は普段からは想像出来ないほど悪戯な人に変わる時がある。 言わせたがりな上に、じらすのが好き。おまけに、声色を様々に変えてくる。高く小さな声で優しく囁いた次の瞬間、命令口調の低い声で呟く。私が声に弱いと知っている裕也は、外側からも、そして内側からも私を崩していってしまう。 「ほら瀬菜…」 「っ…!」 あいているもう片方の手で、裕也は私の胸を触る。慌ててその場所に自分の手を向かわせると、裕也は見事なまでに私の手を絡め取り、その手を私の胸にあてがった。自分の手を私の手のひらの上から胸に重ね、ゆっくりと動かしてくる。 「瀬菜は胸が好きだもんね…」 「ひあう…って…ぁっ…!」 寝起き早々いやらしさを発揮する裕也の言葉に反論しようと出した声は、見事なまでに口の中にある裕也の指に絡め取られた。閉じることの出来ない唇と、指にもてあそばれる舌は、発音する言葉をどこか卑猥なあえぎに変えてしまう。 自分の声が、自分が思っているよりもいやらしい気がして、胸の奥が熱くなる。少しずつ荒くなる呼吸も、けれど激しくなるほど喘ぎ声らしくなっていく。 「可愛いよ、瀬菜…」 耳元で裕也の声がする。少しだけ荒くなった息づかいが、耳を撫でてくすぐったい。脳に直接届くように、裕也の甘い声が鼓膜を震わせた。 わざと音を立てるように、耳元でキスをする裕也。音が吸い込まれるように、自分の体の中に入り込んできては、心地よさとなってとけ込んでいく。 「瀬菜…気持ちいい?」 裕也の声に、彼の指をしゃぶったまま頷く。その反応に満足したのか、裕也はご褒美と言わんばかりに、胸を愛撫していた手のひらの指で、乳首を擦るように撫でた。 「んんっ…!」 綿菓子を作るように、声を指で絡め取りながら、裕也は手を休めない。その囁きは止まることなく、私の体を溶かし、同化するように染みこんでいく。 たまらない心地よさ。全身を委ねて自由を奪われるほど、全身が解放されていく。 「ほら…指を指だと思わないで…瀬菜の大好きなものだと思って」 囁きはまるで魔法のように、私の意志を支配していく。裕也の声が自分の神経に溶け込んでいくたび、体は勝手にそれを求めて動き出す。 「ゆう…や…」 真っ暗な室内。彼はどんな表情で私を感じているのだろう。見ることの叶わぬ表情が、かえって私の体を熱くさせる。囁きを紡ぐ彼の唇のほうへ手を伸ばすと、その指が柔らかく受け止められ、そして濡れた。 「…食べて欲しいの? 瀬菜…」 言いながら、彼の舌先は私の指を舐め始める。耳元で指の舐められる音が響いて、その音だけでも淫らな気分を加速させるのに、 「…ほら、瀬菜のあそこを舐めるときは…いつもこんな音がするんだよ」 なんて裕也が囁くものだから、想像はたちまちそれと直結されて、下半身の奥の方が縮こまるように震えだした。肩どころか全身がすくむように、一瞬ぎゅっと強張る。 坂道を転がるボールのように、一度それと意識したものを止めることは難しい。その音を聞き、それを淫らだと判断した私の感覚は、耳元で繰り返される指への愛撫に、なにも出来ずに崩れ落ちていく。 「…ゆぅや…もっと…」 わずかに残っていた恥ずかしいという感情も、それと一緒に押し流された。自分から裕也に体を寄せ、ねだるように囁く。空気が震える。 なんとなく分かる。彼が、わずかに微笑んだことが。 「いいよ、瀬菜…声を聞かせて」 ずっとくわえていた裕也の指が、あっさりと出ていってしまう。物足りなさを感じた刹那、裕也は耳元で舌を使ってくちゅくちゅという音を出し始めた。 耳元に唇を寄せたまま、彼の両手が全身を撫でていく。その動作ひとつひとつが、私の体に目に見えぬ跡を残していった。 耳元で繰り返される音のキスは裕也の指先の動きと同調して、まるで全身を舌で愛撫されているような感覚を、耳から体中に染みこませていく。 「…あっ…ふぅ…ぁ」 裕也の指がなくなったぶん声が溢れる。彼のキスがくすぐったいよりも熱く、だんだんと荒くなり始めた息遣いの生々しい鼓動が、なによりも私を感じさせた。 もっと色っぽい声が聞きたくて、自分から裕也の下半身に手を伸ばす。指でそっと引っかけるように、固くなったそれをきゅっと握った。 「んっ…」 驚きと気持ちよさ半々の感覚だったらしく、裕也はたまらず声をあげる。一瞬びくんと震えた腰の動きが可愛らしい。初めての頃は触るのですらおっかなびっくりだったのに、今ではそれに触れることがこんなにも自分をどきどきさせる。 正確には、それを愛撫しているときの裕也の反応が、私を夢中にさせてしまう。 「…せっ…な」 熱を帯びた声で、それでも名前を呼んでくれる裕也。それから彼は、どこかねだるように私のほうに体を寄せてくる。 「あっ…ぅん」 胸の先を濡らす感覚に、思わず声が漏れる。それがさっきまで自分がくわえていた裕也の指なんだと気づいたとき、彼のもう片方の指が私の下半身を捕らえていた。 「瀬菜」 部屋を出た後、やってくるエレベータを待つ間、不意に裕也は私の名前を呼ぶと、立ち止まった私の頭を撫でた。 「…今日はありがとう、瀬菜」 「うん、私も楽しかった」 つねに私の名前を呼びながら話しかける。そんな裕也に頷くて、私たちはやってきたエレベーターに乗り込んだ。 昔、私がまだ自分の名前をあまり好きではなかった頃。告白してきた裕也は、 「瀬菜はいい名前だって。俺が自分の名前が好きだと思わせてやるから」 そう言って、私の彼氏になった。 以来、彼はどんな時でもかかさずに私の名前を口にする。彼の声で繰り返されているうち、私はいつのまにか、その名前で呼ばれることが嫌ではなくなっていた。 喫茶店で砂糖を入れるときも、夜遅い電話のときも。そして、絶え間ない愛撫の最中でさえ、裕也は私の名前を呼ぶことを忘れない。 彼が紡ぐと、十数年嫌っていた自分の名前も、どこかいとしいと思えた。 それは、彼が私を呼ぶときにだけ使う魔法の呪文のようなものだから。 「瀬菜、お腹空いてる?」 「うん」 どんどんと降りていくエレベーター。そのドアが開く直前、彼はキスをした。 「…今日も可愛かったよ、瀬菜」 頬を合わせるように耳元に唇を寄せて、そっと囁く。返す言葉が思いつかず、私は重なる頬をくいっと、押し返すようにして頷いた。 恥ずかしい言葉を照れもなく口にする。憎らしいほどに好きな声。やっぱりずるいと、そう思いながら、私は彼の後に続いてエレベーターを降りた。 <2002.12.13 UP>
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