黄 昏
 

「……それじゃ、これで終わります。皆さん、ご苦労様でした」
 議長をつとめている3年生の委員の声とともに、長引いた委員会の会議がようやく閉会した。会議室のあちこちから、解放感にみちた声があがる。
「あーあ、しんどかったぁ〜」
 梓の隣に座っていたA組の三橋千賀子が、椅子に背をもたれかけさせたまま、大きく伸びをした。
「ほんと、こんなに遅くなったのなんて文化祭前以来よね」
 梓の言葉に、千賀子は肩をもみながら、うんうんとうなずいている。
「まったく…終わったら部室に顔だそうと思ってたのに、この時間じゃもう終わっちゃってるだろうなぁ。まあ、ちょっとだけ覗いてみるか」
「三橋さんて、何部だったっけ?」
「文芸部よ。マイナーもいいとこでしょ」
 にこりとわらって軽く肩をすくめると、千賀子は景気よく立ち上がった。
「さーて、皆が帰っちゃわないうちに、行くとするかっ。そういえば、長島さんはなんかクラブやってないの? このまま帰り?」
「うん、そう。帰宅部なの」
 つられて梓も立ち上がって、会議机の上のプリントと筆箱を片づけはじめた。
 千賀子とは委員会でしか顔をあわせることはないが、それでもなんとなく気があって、いつのまにか委員会への行き帰りなど、どちらからともなく一緒に行動するようになっていた。
 5時を回って人気の少なくなった廊下に千賀子のはきはきした声が響く。
「まったく、男ってほんとにダメよね。聞いてよ、こないだもさぁ…」
 面倒見のよい千賀子が文芸部の仲間のことを顔をしかめつつ愚痴りはじめる。梓はくすくす笑いながら相槌をうつばかりだ。でも、千賀子の話を聞くのはいつも楽しくて、まったく飽きない。いつのまにか、こうして話を聞くのを心待ちにしている自分がいた。
 自分のことを話すのは、あまり得意ではない。生真面目すぎる性分のせいか、まわりに友達も少ないから、梓に話せることなどあまりなかった。千賀子といて落ち着くのは、彼女が人好きのするあけっぴろげな雰囲気をもっているからだと思う。
 渡り廊下を挟んだ教室までの道のりは、いつもあっという間。
 ほんの少し名残惜しく思いながら、梓は千賀子の顔をみつめた。
「………あ、じゃあ、私3階だから。また次の委員会でね!」
 梓のD組は2階だが、千賀子のA組は3階だった。階段の手すりに片手をかけたまま、千賀子は人懐っこくわらって、ひらひらと手を振った。
「うん、また来月ね」
 梓も控えめに手をあげると、千賀子は軽やかな足取りで階段を昇っていってしまった。
 部活に顔を出すと行っていたから、ホントは飛んでいきたかったのかもしれない。つき合わせて悪いことをしちゃったかな、と梓は今更のように気づいて、思わず小さくため息をついた。



 教室のドアをあけると、夕暮れの教室は人気の無いままひっそりと静まり返っていた。
 黄金色にそまった教室は、見慣れた昼間のそれとは違って、どこか懐かしく感傷的な気持ちを呼び起こす。
 きちんと並べられた机の間をぬって、前から3列目の自分の机へと歩いていく。狭い机のをすりぬけていくうち、はずみで腰が机にあたってしまって、静かな教室にかたん、と余韻を残す音が響いた。
 机の横にかけてあった鞄をとりあげてプリントと筆箱をしまいこむ。かちり、と鞄の金具を締めてから、ふと梓は顔をあげた。
 窓ガラスの向こうに広がる黄昏の空に目を奪われる。

 帰りたい。

 ふいにそんな言葉が胸をついた。
 これから自転車で自分の家に帰ろうとしているのに、そう思うのはおかしいかもしれない。
 黄昏時の、魂まで染め上げてしまうようなオレンジ色の光のなかにいると、どうしようもないやるせなさに襲われて自分を持て余してしまう。
 自分の居場所はここではない。
 そんな気持ちに囚われて、いてもたってもいられないような気がするのだ。
 そこでなら、まわりとうまく噛みあわないこんな居心地の悪さから抜け出すことができるかもしれない。いつもは日常に無理やり溶かし込んでしまっている違和感が、この黄昏の一瞬だけ姿をあらわして梓を迷わせる。
 教室を出ると、リノリウムの廊下にきゅ、きゅ、と自分の足音だけが響く。
 でも梓はこんな寂しさが嫌いではない。
 帰りたいのは、これから帰る自分のあの見慣れた部屋のことではなくて、どこかもっと他の場所。
 まだ知らない、けれど大切な、慕わしい、自分の帰るべきところ。それが今も、どこかで自分を待っている。そう考えると胸の奥が暖かく、ほんの少しだけせつなくなる。
 ゆっくりと自転車のペダルを漕いで、夕焼けのオレンジ色の町を泳いでいく。見慣れた道にならぶ見慣れた町並み。夕食の匂いを含んだまま頬を撫でていく柔らかな風。
 こんなにも帰りたいと願う、まだ見ぬそこにいつか帰ることができるのだろうか。 
 わかってる。
 こんな淡いとらえどころのない郷愁などは、家の玄関をあけて馴染んだ階段をのぼっていけばたちどころに消えてしまう。昼でも夜でもない狭間の時に惑わされた儚い物思いにすぎない。
 でも、この気持ちが、いつか自分を動かしてどこかへ攫っていってしまう。梓はそんな気がしてならない。
 まだ、影も形も見えない未来の自分がいるその場所。
 たった一つの、自分だけのその場所を探すために、きっと誰もが歩いていくに違いないのだから。

「ただいまぁ」

 玄関を開けていつものように声をかけた。
 おかえりー、という台所からの遠い応えとともに夕食のいい香りが漂ってきて梓のお腹をぐぅ、と鳴らした。
 自分の家。
 迎えてくれる人。
 振り向けば、空はすでに淡いロゼワインを思わせる色に姿を変えている。
 いつも同じように変わりなく過ぎていく毎日だけど、いつかきっと今日を懐かしく思い出す日がくる。
 梓は大きく息を吐き出して物思いをふりはらうと、後ろ手に玄関の扉を閉めた。
<2001.10.27 UP>