June Bride
みる様

 その日曜日の朝、カーテンをあけると、待ち望んでいた青空が広がっていた。
 6月の梅雨時にこんな天気に恵まれるなど滅多にない。
(こんないい天気なんだから、洗濯したかったなぁ…)
 目覚ましが鳴る前に目覚めた馨は、われながら所帯じみてると思いながらも、そのまま窓を開け放した。
 ベットの隣は早くももぬけのカラだった。
 台所からこぽこぽとコーヒーメーカーの沸く音がしている。
 昨日ずいぶん遅くまで寝つけないでいたようなのに、この調子ではきっといくらも寝ていないに違いない。
 それでもしかたない、と馨は思う。
 自分も慎二と同じ立場になったら、きっと同じような気持ちになるのだろうから。
 安心と、寂しさと。…そして戸惑いと。
 この日曜日は、特別だった。
 慎二の妹が、他の男のところに嫁ぐ日。



 食事の後片付けを終えて、あわだたしく身支度を整える馨とは裏腹に、慎二の支度は淡々としている。慣れた様子でヒゲをそり、シャツを着てネクタイをしめる。
 鏡でネクタイの具合を確かめているとき、ふと思いだしたように慎二は鏡の前を離れて机の引き出しを開けた。中から小さな小箱を取りだす。それは馨にも見覚えのある箱だった。
 スッキリとした、趣味の良い形のタイピン。大学を卒業して、サラリーマンになった慎二に、当時高校生だったにゃんがバイト代をはたいて買った誕生日プレゼントだった。
「もう持ってるかもしれないけど……いくつあっても別にこまらないよね?」
 照れたようにもじもじしながら、慎二が箱を開ける様子を見守っていたにゃん。
「ありがと、にゃん。すごくいいタイピンだね。僕にはもったいないくらいだ。これ、とっておきのときにつけるよ」
 眼鏡の奥の瞳を和らげて、ほんとに嬉しそうに慎二がそう答えた日のことを、馨はまるで自分のことのようによく覚えている。
 慎二に良く似て、ひかえめだけどよく気がきくにゃんを、馨も自分のもうひとりの妹のように可愛がっていた。
 馨が満瑠や南波をかわいがるのとはちがう、息の合った共犯者のような信頼関係が慎二とにゃんにはあった。それは主に慎二が馨と暮らすようになってから培われたものだったが、それは傍から見ていて羨ましくなるような、微温の兄妹愛だった。
 にゃんが時折ちらりと覗かせる可愛らしいやきもちも、二人を庇おうとする日頃の心配りを思えば、いくらでも許せてしまう範囲のもので。
 別に二度と会えなくなるわけではないけれど、やはり、どこか遠い存在になってしまうのだという淋しさは否めない。
 自分でさえそうなのだから、慎二はもっと淋しい、複雑な心持ちでいるに違いなかった。
 去年の秋に、にゃんと相手の男性と慎二と馨の4人で食事をした。
 穏やかで人あたりの良いところは慎二に似ていなくもなかったけれど、もっと幼い子供っぽさみたいな部分がみえかくれする青年だった。にゃんは「そこがかわいくていいの」と頬をあからめながら、こっそり馨に耳打ちした。
「にゃんが選んだなら、いいよ。幸せになれよ」
 帰り際にちょっとだけにゃんの髪を撫でて、慎二は眼鏡の奥の瞳を細めた。
 二人の部屋への帰り道、慎二は無口だった。
 言葉にならない、淋しさのようなものが肩口にはりついているような気がして、その夜、馨は慎二を胸に抱きしめて眠った。いつも慎二からもらっている安らぎが、少しでも伝わるよう祈りながら。慎二は素直に馨の腕の中に体をあずけたまま、浅い眠りについたようだった。
「馨、用意はできたかい?」
 いろいろな記憶に捕らわれながら、タイピンをつける慎二の仕草にみとれているうちに、支度する手が止まってしまっていたらしい。
「あ、もうちょっと…」
 慌ててネクタイと格闘しはじめた馨に、慎二はくすくす笑いながら手を伸ばした。
「馨はしめなれてないからね。ちょっとあご、上げてごらん」
 自分の胸元に視線を定めて器用に手を動かしている慎二をぼんやりと見つめる。こうして目の前にいても、いま慎二は自分以外の人のことを考えてる。突然、そんな考えが頭に浮かんできて、馨は、はじめてにゃんに嫉妬した。
 そして次の瞬間、そんな自分をつよく恥じて、そっと目をふせた。



「わあ! にゃんちゃんきれーい!」
 控室の扉を開けると、満瑠のそんな大きな声が二人を出迎えた。
「あ、おにーちゃん! みてみて、にゃんちゃんすごいキレイ!」
 いつもよりはしゃいだ様子の満瑠が飛んできて、馨の手を引っ張る。
 部屋の一番奥で椅子にすわり、髪をきちんと結い上げて、シンプルだけど贅沢な素材のドレスに身をつつんだにゃんは、大輪の花のように鮮やかで美しかった。
「ほんとだ。すごいキレイだ。おめでとう、にゃんちゃん」
「ありがとう。今日は忙しい中、わざわざきてくれてありがとうね、馨さん」
 馨をみあげて、にゃんがにっこりと微笑んだ。
 はじめて出会ったときはまだ中学生だったのに、今、目の前にいるにゃんは、まぎれもない一人前の女性だった。その事実に小さな感動を覚えて、馨は一瞬言葉を失った。
「おにいちゃん」
 にゃんの涼やかな声が、慎二を呼んだ。
「…うん、綺麗だよ。にゃん」
 照れたように、慎二が早口で答える。
「うん…ありがと」
 目を潤ませてうつむく様子と語尾ににじんだ空気を読み取った馨は、さりげなく満瑠と南波を連れて席を外すことにした。
 ちょうど良く満瑠がもじもじしながら袖をひっぱり、
「おにーちゃん、ここお手洗いどこかなぁ?」
 身をかがめた馨の耳元で声をひそめた。
「あ、フロアの奥にあるはずだよ。僕も行っておきたいから、一緒に行こう」
 満瑠にそう答えてから、慎二には手で“ちょっと出てきます”と合図した。
 馨と満瑠が外にいこうとすると、いっちょ前にスーツを着た南波もその後を追いかけてくる。どうやら続々と集まって来る親戚は、別に用意された控室の方に集まっているようだ。
 それまでずっとごった返していた花嫁控室は、その瞬間まるで奇跡のようににゃんと慎二のふたりきりになった。
「そのタイピン、つけてくれたんだね」
 目ざとく胸もとのタイピンをみつけて、にゃんはくすんと笑った。
「とっておきのときにつける約束だったからね」
「もう忘れちゃってるのかと思ってた。うれしい」
 にゃんはすぐ横に立っている慎二の腕に、こつん、頭をぶつけ、そのままそっと目を閉じた。
「ずっとおにいちゃんのお嫁さんになるつもりだったのに………おにいちゃんをおいて、他の人のところにお嫁にいっちゃうことになっちゃった。ごめんね」
 冗談でも装わないと言えなかったに違いない。にゃんのいままでの気持ちを託したその言葉に、慎二はあいているほうの手で、華奢な肩をかるくぽんぽん、と叩いてやった。
「僕を置いてくんだから、幸せにならないと許さないぞ」
 慎二の腕に体重をあずけたままで、にゃんはくすりと笑った。
「お兄ちゃんも、馨さんと幸せになってね」
「うん」
 しばしの沈黙のあと、手袋につつまれたにゃんの手が、子どもの頃よくそうしていたように、慎二の掌の中にすべりこんできた。
「…ねえ、おにいちゃん。わたし、ずっと慎二おにいちゃんの妹だよね?」
「あたりまえだろ」
「名前が変わっちゃっても、兄妹だよね」
「うん」
 きゅ、と繋いだ手が、強く握られる。最後にこうして手を繋いだのは、いったいいつのことだったか。
「だからなにも心配いらないよ、にゃん。僕は、ずっとにゃんの味方だから」
 言葉にならないにゃんの不安が少しでも溶けるよう、慎二はにゃんの手を強く握りしめた。
「なんかあったら、いつでもおいで」
「うん。…信じてる」
 つい、とにゃんは顔をあげて、ふわりと笑顔になった。見違えるくらい綺麗になったけれど、でも子どもの頃とちっともかわらない無防備な笑顔。
「おにいちゃん、にゃんには嘘ついたことないもんね」
「ああ」
 慎二はもう一度その手を握りかえしてから、そっと掌を開いた。にゃんの手が、するりと抜けていく。
 あと1時間もしないうちに、この薬指には指輪が輝くことになる。
 そしてその後、にゃんは、20年間慎二と暮らした家ではない、新しい家へと帰ってゆく。
 それでも。
 何もかわらない。
 離れていても、何をしても、にゃんは慎二にとって、大事な大事な、たったひとりのかわいい妹だ。
「夫婦げんかで追い出されないように頑張れよ」
 めずらしく不器用な冗談を言う慎二に、にゃんはふいに涙がでそうになった。
 でも、今日だけは絶対泣きたくなかった。
 笑顔の自分を覚えていて欲しかった。
 だから、にじみかけた涙を無理やりひっこめて
「おにいちゃんこそ、馨さんと喧嘩して泣きついてこないようにね」
といらずらっぽく笑ってみせた。
「そうだな」
 思いがけなくやり返されて、慎二は苦笑するしかなかった。



「おにーちゃん、南波ちゃん、おまたせ〜」
 ててててて、と小走りで満瑠が駈けてきた。
 リボンのバレッタでサイドをあげ、ロングフレアとボレロのツーピースで、いつもよりは少し大人びて見えた。
「ねーねー、後ろ、おかしくない?」
 馨と南波の前で、くるんとスカートの裾が翻る。
 ふわりとたちのぼった甘い香りに気づいて、馨はちょっとどきっとした。
 よく見ると、うっすら化粧もしているらしい。
 考えてみたら、満瑠も18なのだ。馨が慎二と暮らし始めた年と同じ。
 …ということは、いつ、馨が今日の慎二の立場になってもおかしくはない。
「あ、満瑠ちゃん、後ろのリボンがちょっと変」
 南波が手を伸ばして、ワンピースのリボンを結び直してあげる。
 そういう南波もまだスーツに着られてはいるものの、満瑠と並んで立っている様子はもう青年と呼んで差し支えない。
「あとはおかしいとこ、ない?」
 そういって、馨を見上げる表情は、10年前と全然かわらないのだけれど。
「全然おかしくないよ。よく似あってる。新しく買ったの?」
「うん、おねえちゃんと買いに行ったの。今日のお化粧もおねえちゃんがしてくれたんだよ」
「静香姉さんに?…そうかぁ、めちゃくちゃにされなくてよかったね、満瑠」
 馨がウィンクすると、満瑠と南波はその理由に思い当たってキャラキャラと笑いだした。
「やだぁ、おにーちゃんたら!」
「今のは、姉さんにはナイショだよ」
「うん、ナイショね、ナイショ!」
「……おっと、そろそろ時間だ」
 馨は腕時計に目をやって、まだくすくす笑っている二人の肩を抱いて会場ヘと促した。
これが、虫のいい願いだとわかっていても。
 満瑠や南波にはほんとに幸せになって欲しいと思っていても。
 二人が自分の手を離れてしまうその日が、できるだけ遠くであることを願いながら。



 厳かで華やかなパイプオルガンの音が、教会の高い天井を満たした。
 みんなが見守る中、白い長いヴェールを引きながら、父親に手を取られてゆっくりと歩いてゆく。
 その姿を見守る、あらゆる気持ちがないまぜになった慎二の表情を、馨は決して忘れないだろう。
 自分をもふくめた家族から離れて、新しい絆を培っていこうとしている妹を見送る、限りなく愛おしげな眼差し。
 伴奏がやみ、静まりかえった教会で、誓いの言葉が交わされる。
 指輪がお互いの指におさまり、ステンドグラスから光が溢れる中、二人の影が一瞬だけ重なる。
 手をとりあって教会を出る新郎新婦に、たくさんの祝福の言葉とライスシャワーが降りそそぐ。
 階段を降りきったところで、にゃんが振り向いて投げた白い花のブーケが、きれいな弧をえがいて馨の手の中に落ちてきた。
 取りそこねた女の子達の「あ〜!」という叫び声のなか、にゃんは「手がすべっちゃった!」と笑って馨にウィンクした。
「……まいったな」
 次に幸せな花嫁になることを約束する、祝福のブーケ。
 慎二と馨が顔を見合わせて、思わず苦笑していると、
「そのブーケねぇ」
 となりに立っていた満瑠が、身をのりだしてこっそりささやいた。
「どうしても、おにーちゃんにあげたいって、にゃんちゃん言ってたんだよ」
「え?」
 驚いた顔のふたりに、満瑠が何故か得意げに口の端をつりあげる。
「だめだったら満瑠が取って、おにーちゃんにあげるって約束してたの」
「満瑠ちゃん!」
 南波が隣から慌てて満瑠の口を塞いだが、まったく間に合わない。
「それ秘密にしといて、って言われてたじゃんか」
「だってぇ、ちゃんとおにーちゃん取ったんだからいいじゃないー」
「しょうがないなぁ、満瑠ちゃんは」
 あきれた口調の南波に、満瑠はぷい、と唇をとがらせた。
「なによぅ。にゃんちゃん『絶対馨さんとおにいちゃんと、二人で幸せになってもらいたい』って言ってたんだもん。黙ってるなんて絶対変だよぉ」
「…それはそうかも」
 呆然と満瑠と南波のやりとりを聞いていた慎二は大きく息を吐いて、空を仰いだ。
 真っ青な、雲ひとつない青空。
 互いに願っているのは、全く同じこと。
 ずっとずっと幸せであるように。
 どんな泣いても苦しんでも、最後にみせてくれるのがとびきりの笑顔であることを祈って。
「………最後の最後に、してやられたなぁ」
 慎二がつぶやくと、馨がえ?と顔をあげた。
 それには答えずに馨の肩を抱き、遠くからこちらを見て笑っているにゃんにむかって、大きく手を振った。
<1999.07.07 UP>