南波ちゃんの気持ち
七海様

 部活から帰って玄関を入ったら、満瑠ちゃんの声がした。
「え? なぁに? 満瑠ちゃん」
「はぁ? あぁ‥‥きゃはは、んー、違うのぉ、いま南波ちゃんが帰ってきてねぇ‥‥」
 なんだ電話か。ぼくはでっかい鞄をドン、と置いて靴を脱いだ。居間の親機で話しているらしい満瑠ちゃんの手が、ドアからひらひらとのぞいている。あれはつまり、お帰りってことなんだな、と相変わらずの満瑠ちゃんに可笑しくなる。



 誰と話してるんだろう。楽しそうな可愛い声。ぼくと満瑠ちゃんは双子だけど、あんな声はもうぼくには出せやしない。中2になってからはずーっと風邪引き状態。たぶん変声期‥‥でもホントに風邪を引いたまま突入したもんで、このまま声が変わるのかどうか少し不安。ただ喉の荒れが続いてるだけだったりして。母さんに聞いたら馨兄ちゃんの変声期って中学の終わりだったっていうんだもん。てゆーか、馨兄ちゃんの声って、ほとんど変わってないような気がする。



 そのまま自分の部屋に行って、着替えていると満瑠ちゃんが入ってきた。
「南波ちゃん、あのねぇっ」
「満瑠ちゃん、ノックくらいしろよ。せっかく部屋移ったのに、意味無いじゃんか」
 ぼくは慌ててズボンに足をつっこんで、チャックを閉める。
「なんでー? ここ元々馨お兄ちゃんの部屋でしょ。馨お兄ちゃんそんなこと言わなかったよ?」
「今はぼくの部屋なのっ。満瑠ちゃんだって‥‥。‥‥用事は?」
 口を尖らした満瑠ちゃんを見て、ぼくは言葉を呑み込んだ。こんな顔してる時の満瑠ちゃんを下手に刺激すると長くなるんだ。さすがに生まれる前からの付き合いだけに、そのへんはぼくだってよく心得ている。
「あ‥‥そうだっ、あのね、馨お兄ちゃんが夏休みに帰ってくる日がわかったの。美夜先輩が教えてくれたの」
「美夜先輩って‥‥」
 確か、慎二さんの。
「うん、馨お兄ちゃんの‥‥。帰ってきたらまた五人で遊ぼうねって電話をくれたの」
「ぼく‥‥夏休みは部活で忙しいから約束できないよ」
 きゅっと満瑠ちゃんが眉を寄せた。
「南波ちゃんっ、まだこだわってるの? 馨お兄ちゃんが好きなんだから応援してあげようって、そう言ったじゃない。馨お兄ちゃんを取られたからっていつまでもウジウジして、そんなの男らしくないよっ! もう約束しちゃったんだからね、いい?」
 ぼくが返事をしないでいると、満瑠ちゃんはドアを叩きつけるみたいにして出て行った。
 ちぇ。この前まで馨お兄ちゃんは誰にも渡さないって泣いてたくせに。
 ぼくはベッドに転がった。   



 ぼくらの兄である馨兄ちゃんは、美夜先輩のお兄さんの慎二さんと、東京で一緒に住んでいる。それも単なる同居じゃなくて、いわゆる同棲だ(と静香姉さんが言ってた)。
 つまり馨兄ちゃんと慎二さんは、「愛し合ってる」のだ。
 最初にそれを静香姉ちゃんから聞いた時、ぼくらが考えたことは、馨兄ちゃんを一番好きなのは誰が何と言おうとぼくらだ、ということだった。優しい馨兄ちゃんを、ぼくらはホントにすきだったのだ。(別に静香姉さんがコワイとゆーわけではないけど。あはは)
 男同士だからどうだとか、そんなことは思いつかなかった。いや、少しは思ったのかもしれないけど、最初に考えたのは「馨兄ちゃんは誰にも渡さないぞ」だった。たぶんそれは相手が女性でも同じだったと思う。
 本当にぼくらは馨兄ちゃんべったりだったよね。



 満瑠ちゃんはもう覚えてないんだろうな。
 馨兄ちゃんがいなくて雷が鳴っていた夜のこと。満瑠ちゃん、雷が怖くて、雷より大きな声で泣いてた。いつもだったら馨兄ちゃんが上手にお話をしてくれるのに。
 ぼくだって怖かったけど、満瑠ちゃん女の子だし、一生懸命頑張ったんだ。馨兄ちゃんの真似して、『ほら、ピカピカしてきれいだよ』『見てごらん、数数えてみよう』って。
 そしたら満瑠ちゃん、よけい泣き出しちゃって、『南波ちゃんなんかじゃダメなのっ、馨お兄ちゃんがいい。怖いよう、馨お兄ちゃん』って言ったんだ。
 ぼく、あれすごく傷ついたんだぞ。だからもうぼくも一緒に泣いちゃって、お母さんが帰って来た時には雷はとっくに鳴りやんでたけど、ぼくらすごい顔してたんだよね。



 それでぼく、あの次の日、慎二さんに会いに行ったんだ。



 チャイムを鳴らすと、すぐに慎二さんが出てきて、慌てた顔をした。
「あ、あれ? 馨の‥‥南波くん?」
「に‥‥兄来てませんか」
「え‥‥さっき帰りました。夕べはひどい雨だったね。お兄さん、傘持ってなくて。連絡していたと思うけど。お迎えにきてくれたのかな」
「だって‥‥。慎二さん、兄を返してください」
「だからもう。?‥‥南波くん?」
 支離滅裂な言葉だったけど、ぼくは真剣だった。またすぐに東京に帰っちゃうと聞いてたし、慎二さんが東京にいるなら、馨兄ちゃんだって、東京にいっちゃうかもしれない。そうなったら、もしそうなったら。
「お兄ちゃん、お客さん?」
 ぼくは優しい声に驚いてそっちを見た。妹なのかな。満瑠ちゃんより上? 中学生くらいかな。
「南波くんだよ、にゃん。馨の」
「部屋で話したら? ジュース飲むでしょ?」
 にこっと笑った顔にホッとして、ぼくは頷いた。
 慎二さんは困った顔をしていた。
 けど、十数分後、ぼくは慎二さんの部屋でジュースを飲んでいた。
 慎二さんの部屋は、CDが壁になっていた。それとLDより大きなジャケットも飾ってあった。ぼくが読むようなマンガはなくって、本がいっぱいで、馨兄ちゃんの部屋とは違ってた。
「何か好きな曲とかある? 気に入ったのがあったら貸してあげるよ」
 ぼくが流行りの曲を言うと、慎二さんはまた困った顔をした。
「妹なら持ってるかな。にゃん〜」
「いいです」
 慎二さんがぼくの声に座り直した。
「お菓子、もっといらない? 今日は満瑠ちゃんはいないんだね」
「満瑠ちゃんが、泣くんです」
「え?」
「馨兄ちゃんがいないと、満瑠ちゃんが泣くんです。ぼく、お母さんからも静香姉ちゃんからも、女の子は大切にしなさいって言われてるんです。満瑠ちゃん泣くと、ぼく困るんです」
「それは‥‥困るね」
「ぼくじゃダメなんです。馨兄ちゃんじゃないと。ぼくじゃ代わりになれないの。だからぼく」
 ぼくはなんだか哀しくて悔しくて、涙が溢れてきていた。
「慎二さんは、泣かないでしょう? 大人だから」
「お兄さんがいなくても、ってことかな?」
 ぼくは頷いた。
「うーん、どうだろう。‥‥泣く、かもしれない」
「大人なのに?」
「大人でも泣くんだよ。‥‥我慢するから気づかないけどね」
「じゃ‥‥我慢して。馨兄ちゃんは満瑠ちゃんのために返して」
「南波くん‥‥」
「その代わりに、ぼくが大きくなったら恋人になってあげるから」
「南波くんが恋人になってくれるの?」
 汗がでるような話だけど、当時のぼくとしてはそれは一生懸命考えてきた結論だった。あんまり似てないかもしんないけど、うちの兄弟では男はぼくしかいないし。
「えーと‥‥。あのね、南波くん」
 慎二さんは難しい顔をして言った。いま思えば、あれは吹き出したいのを我慢してたのかもしれない。まさか泣いてる子を笑うわけにいかないものね。
「すごく嬉しいんだけど、ぼくはお兄さんが‥‥」
「やっぱりーっっ、みんな馨兄ちゃんがいいんだ。ぼくじゃダメなんだーっ」
 ぼくはもうダーダーで泣いていた。
「違うよ、そうじゃない。南波くんが厭なんじゃなくて、それは代えられないんだよ」
「ぼく、馨兄ちゃんみたくなれるように頑張るよ? 恋人ってどんなことするのか、静香姉ちゃんから聞くから大丈夫だよ? 待たせないように、ちゃんと早く大きくなるから」
 慎二さんは微笑んだ。
「‥‥南波くんは、きっといい男になるね。でもね、どんな素敵な人がかわりに来てくれると言っても、ぼくは馨がいいんだ。満瑠ちゃんだってね、馨を返すかわりに南波くんと美夜を交換してって言ったら、承知しないと思うよ」
「そう、かな‥‥」
 なんか一瞬、美夜さんならオッケイってゆー満瑠ちゃんの声が聞こえたような気がしたけど、ぼくはそれをねじ伏せた。
「そうだよ。南波くんは南波くんで、誰にも代えられないんだ。役割は代えることができてもね、その人自身とは代えられない。誰も南波くんの代わりにはなれないんだよ」
 そのとき慎二さんは大人なんだと思った。たぶん馨兄ちゃんよりも。そして兄ちゃんのいっぱいいる友だちの中で、一番冷たそうに見えるこの人を、何で兄ちゃんが選んだのか判ったと思った。汗をかきながらぼくに一生懸命説明してくれる慎二さんは、第一印象とは全然違ってた。
「きっとね、きっと、南波くんに好きな人ができたらもっとよくわかるようになるよ。大切な人とできた繋がりは、簡単に切ったり付け替えたりできるようなものじゃないんだ」
 慎二さんの手が静かにぼくの頭をなでている。
 ぼくは肩から力が抜けるのを感じていた。すごく楽に息ができる。大好きな馨兄ちゃん、何でもできる優しいにーちゃ。あの時感じてたのはプレッシャーだったんだと思う。中学受験とか、いろいろな中で、馨兄ちゃんみたくなりたいのになれない自分。もうずっと、ずっと、ぼくは大好きな馨兄ちゃんにコンプレックスを持っていたのだ。



「先輩? 南波がお邪魔してるって‥‥」
 ドタバタと廊下を走る音がしたと思うと、馨兄ちゃんが飛び込んできた。
「うわ、にーちゃ‥‥」
 ぼくは慌てて涙をぬぐって立ち上がった。
「南波っ、途中で家に電話いれたら、にゃんちゃんから電話が入ったっていうから。どうして先輩のとこに来てるの? ちゃんと9時までに帰って一緒にテレビ見るって約束しただろう?」
「馨、顔見た途端にそんなふうに言われたら、何も話せないよ」
「だって、先輩」
 慎二さんがすごく優しい顔して笑った。
「大丈夫だよ。馨が思ってるほど南波くんって子どもじゃないよ。ちゃんと人のこと思いやれる男の子だよね」
 後半はぼくに向けて。なんだかぼくは恥ずかしくなった。
「馨があんまり早く帰っちゃって寂しかったのだけど、ちゃんともう一度連れてきてくれたしね」
「せ、先輩‥‥」
 慎二さんに見つめられて、馨兄ちゃんの頬が赤く染まる。
 ぼくは初めて見るそんな兄ちゃんに、胸がドキドキした。きっとこれが恋人ってことなんだと思った。ぼくらがいくら見たって、兄ちゃんはあんな顔したことない。ぼくらが一番兄ちゃんを知ってると思ってたけど、そうじゃないかもしれない。
「馨兄ちゃん、帰ろう」
「え‥‥あぁ。うん、満瑠ちゃんが怒ってたよ。南波がひとりでどこかに行ったって」
「怒ってた?」
「嘘。心配してた」
 馨兄ちゃんがいつもの顔で笑った。



 あれから、いろんなことあったよね。
 満瑠ちゃんと一緒になって、いっぱい二人の邪魔したっけ。今では満瑠ちゃんも認めちゃって、5人で出掛けようなんて言ってるけどさ。
 でも、ホントは少し慎二さんと会うのが恥ずかしい。何も知らなかったとはいっても、すごいこと言ってるんだもの。



 恋人、か。
 そーだな‥‥いつか‥‥



 慎二さん、ぼく、いい男に近づいてきたかなあ?
<1999.07.18 UP>