南波ちゃんの気持ち 2
七海様

「平沢、平沢南波! これっ」
 ポンと廊下で手渡されたリボンのかかった包み。顔をあげると、真っ黒に日焼けした女子ハンドボール部の宮田朋美が少し照れた笑顔で見下ろしていた。
「わ、ホントにくれるの?」
「野球部のみんなで食べなよ」
「ありがとぉ、義理でもやっぱ嬉しいって。これで後輩にでかい顔できるし、満瑠ちゃんにも馬鹿にされないですむや」
 小学校の時はただでかい女というイメージしかなかったが、中学校に入って2年続いて同じクラスで同じ委員をやらされた。さっぱりしてて話しやすくて、自然と仲良くなった。全国大会レベルの女子ハンドと弱小野球部では練習量も全然違うから、どうしても委員会の仕事はぼくに負担がかかる。だけど朋美はそれに甘えることなく、できることは一生懸命やってくれた。それが伝わってくるだけでぼくはよかったのだが、いつものお礼にバレンタインデーにチョコをくれるという話になって、嬉し恥ずかし今日のプレゼントとなったのだった。



「いやいや、なんのなんの。平沢、相変わらず満瑠ちゃんとお母さんだけか?」
「よ、よく知ってるなあ。静姉さんが来ない限りはそれだけかな」
「お兄さんの恋人が義理でくれるとかないの?」
「げ…。ないないない」
 一瞬とんでもないものを想像してしまったぼくは、首を振ってその妄想を弾き飛ばした。
 馨兄ちゃんの恋人が手作りチョコ…。絵的には、まだ馨兄ちゃんのが似合うような気がする。ぼくの兄の恋人は兄の先輩だ。年上の恋人なんて珍しくもないけど兄ちゃんは男子校出身、つまり馨兄ちゃんの恋人は男なのだった。
「なに全力で否定してんの。平沢って、兄貴と仲悪かったっけ?」
 下校する生徒の波の中を一緒にロッカーへと歩きながら、朋美が話しかけてくる。
 曖昧に笑ってごまかす。兄ちゃんは好きだ。恋人の慎二さんもいい人だ。だけどぼくは友だちに二人のことを話したことがなかった。



「あり?」
 ぼくはロッカーを開けたまま、目を瞬かせた。
「なに?」
 朋美が覗き込み、ぼくは一人じゃなかったことを後悔した。
「チョコじゃん、平沢」
 朋美が念を入れて止めを刺す。
「そうみたいだね」
 嬉しいような恥ずかしいような。誰からかすぐ調べたいんだけど、朋美の横でそんなガッついたとこ見せたくないし。
「もー、ちゃんと貰ってるじゃん。私のチョコなんかいらなかったんだ」
「そんな心当たりないって。あ…朋美、一緒に食べる?」
 やっぱ舞い上がってたんだと思う。ちょっと無理してイイカッコして、言った言葉に朋美が冷めた声を出した。
「平沢、あンたバカ?」
「え…」
 くるり、と背中を向けて、朋美が自分のロッカーへ向かう。
「朋美?」
 なんで、だって自分のはみんなで分けろって…。
 心の中がもやもやする。ぼくは乱暴に包みを取り出してカードを見た。
「…兄ちゃん」
 ガックリと力が抜けていく。
 そこには『かわいい南波くんへ  馨兄ちゃんより』と書かれた見覚えのある文字が踊っていた。



「南波ちゃーん、チョコ貰ったぁ?」
 玄関にドンと置いたカバンの音を聞きつけて、満瑠ちゃんが走ってきた。
「南波ちゃーん、チョコ貰ったぁ?」
「もう馨兄ちゃんっ! いつ帰ってきたのさ?」
 満瑠ちゃんのまねをしてカバンのそばに来た馨兄ちゃんが笑った。
「先輩が実家に召還されたからぼくも荷物取りに来たんだ。忙しくて今日しかなくて」
「バレンタインデーに?」
「あはは。受け取った? びっくりした?」
「脱力した…」
「なになに何の話〜?」 
 恨めしげに馨兄ちゃんを見るぼくを尻目に、満瑠ちゃんがカバンを開ける。
「あ…おい、満瑠ちゃん、人のカバン勝手に…」
「ぐぇ、Tシャツ汗でぐしゃぐしゃだ〜、気持ち悪ぅ」
 ぼくの制止なんか無視して、満瑠ちゃんがカバンの中身を引きずり出す。
「チョコみっけー。あれ、二つもある」
 バタバタしてて、朋美のチョコをみんなに分けてやりそこねたのを思い出した。
「だめだよ、満瑠ちゃん」
 取り上げると、馨兄ちゃんがぼくを見て笑った。
「なに?」
「南波もすみにおけないな。女の子からちゃんと貰ってるとは…」
「これは違うンだって」
「まさか…男子?」
 満瑠ちゃんが目を見張る。
「…まさかなぁ。片方は馨兄ちゃん、片方はお察しの通り義理チョコってこと」
「え〜、いいなぁ、馨お兄ちゃんからチョコ。満瑠ちゃんも欲しいぃ」
 なんかぼくは急にいじわるな気分になった。このチョコのせいで、朋美が。だいたい考えると満瑠ちゃんがプレゼントを貰う頻度とぼくが貰う頻度は、絶対に違うぞ。
「やんない。ぼくのだもん。…兄ちゃん、慎二先輩にはもう渡したの?」
「こ、子どもはそんな心配しなくていいの」
 馨兄ちゃんが真っ赤になる。んー、何を思い出してるんだか。
「んならこっちのチョコでいいから〜 チョコ〜 チョコ〜」
「満瑠ちゃんにはホワイトデーに先輩と二人で山ほど送ってあげるよ」
「やだー、いま食べたいぃ」
 ぼくはため息をつくと、満瑠ちゃんの目の前で朋美のチョコのリボンを解いて渡した。
「いいの?」
「今更『いいの?』っていうか? いいよ。野球部で分けていいってくれたんだし」
 自分のは分けて食べろって言ったくせに、馨兄ちゃんのを分けて食べようと言ったら怒りだした朋美の顔が浮かんだ。
「うわー、器用〜」
 プレゼントの包みを開けた満瑠ちゃんが驚いてぼくを見上げた。
 うちのマネージャーにだって、こんなのは作れないだろう。透明な容器の中に詰め込まれたボール型チョコの上に野球少年が立っている。うちのユニフォームを着て、ぼくと同じファーストミットをつけた、手作りのチョコレート人形。
「これが義理チョコ?」
 馨兄ちゃんが意味ありげに笑う。
「ホントだ、すごいや。アイツ案外凝るタイプなんだな」
「だれ?」
 ぼくは一瞬迷った。満瑠ちゃんがチョコを持ち上げる。
「朋ちゃん?」
 さすがに同学年にいるとそのへんの情報には詳しい。
「うん。いつも委員会の仕事やらせてるお詫びだって」
「ふーん。…わたし、あの子、好き」
 一語一語区切った不思議な抑揚で、満瑠ちゃんが言った。


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 翌日学校に行くと、悪友の篠田が寄ってきた。
「平沢、いくつ貰った?」
 ぼくは、篠田の産毛なんだか髭なんだか分からないものを見つめた。こんな中途半端なもの、きれいに剃ってしまったらいいのに。
「チョコか?」
「うん。オレ2つ」
「ぼくはえーと、満瑠ちゃんと母さんと…4つか」
「ちぇ、負けかぁ。だけど今年はおかんだけじゃなくて宮田朋美からも貰ったんだぞ」
「え、お前も宮田から貰ったの?」
「お前もって、なんだお前もかあ」
 篠田ががっかりした声を出す。
 ぼくもちょっとショックかな。義理といいつつ少しは…なんて期待してたり。
「4つって、そしたら完璧負けてるじゃん。妹がいると強いよなあ。満瑠ちゃん可愛いし、あんな妹だったら欲しいな」
「満瑠ちゃんが可愛い? …お前だまされてるぞ」
「なんでー、あの可愛さなら多少の性格の悪さは許せるって。あ、ところで満瑠ちゃんは誰にあげたんだ?」
 性格の悪さ? わからんのならお前になんか満瑠ちゃんはやらん…。
 なんてことを思いつつ、初めて気づいた。そうか、満瑠ちゃんも誰かにチョコレートをあげてるかもしれないんだ。
「誰かに、かぁ。…ぼくと父さんと馨兄ちゃんと慎二さんにあげたのは確実なんだけど、他は聞いてないなあ」
「慎二さんって、姉さんのダンナ?」
 ぼくは顔がこわばるのを感じる。
「う。え…いや…兄ちゃんの…ル、ルームメイト?」
「何? そんなヤツにやらなくていいから、来年はぼくにくれるようにと満瑠ちゃんにお伝えください」
 ぼくは心ならずもコクコクと頷く。まただ…。馨兄ちゃんの昨日の嬉しそうな顔が目に浮かんで、ぼくは苦しくなった。兄ちゃんも慎二さんも好きなのに、どうしてぼくは二人のことを人に言えないんだろう。


「チョコ、どうだった?」
 昼休みの委員会。朋美が隣の席に座りながら、尋ねてきた。文化委員会は3年生を送る会を主催するから忙しいのだ。
「昨日時間なくてさ。今日みんなに分ける予定。でもすげー凝ってたな、びっくりした」
「見たんだ?」
 朋美が照れる。
「うん、マジ驚いたけど、あれをクラス中に配るって大変だったろ」
「あ…うん」
 朋美がでへへという感じで笑った。
「家で開けてさ、野球少年を満瑠ちゃんも少し食べたんだ、昨日。そんで、ケーキ焼くから朋ちゃんもおいでって言ってた。先生たち研究会だから、明日はクラブ禁止だろ?」
「え、だけど…」
「またどっかの高校に行って練習するの?」
 女子ハンドが、コートを使えない日に強い高校や大学と練習するのは知られていた。
「そうじゃなくて。…いいの?」
「満瑠ちゃん一人じゃなくて、ぼくも手伝うから大丈夫♪」
「なにーそれぇ」
 朋美が爆笑しかけ、委員の視線に気づいて肩を震わせた。
 笑う朋美、遠慮がちに聞き返す朋美。なんか、ちょっと可愛いぞ。



 慎二さんの用事は、就職のことだった。よく分からないけど、ご両親の思惑と慎二さんのとった行動が違っていたということらしい。説得するまでこちらに滞在するということで、馨兄ちゃんもその間はここにいるみたいだ。
 翌日、朋美を連れて、ぼくは帰宅した。
「あれ? お客さんかな。満瑠ちゃんまだみたいだね。ケーキは夕べ焼いたからいいんだけど。ちょっと待ってて」
 直接キッチンに入ろうと廊下側からドアを大きく開けたぼくは、一瞬固まった。
「な、南波…」
 バタバタッと空気が動き、馨兄ちゃんが上気した顔でぼくを見た。慎二さんは絞り袋を持って、わざとらしくケーキを見ている。
 いま…キスしてたよね? ぼくは3つ目のボタンまで外しているフラノのシャツを見た。
「お帰り、早かったね。…友だち?」
 息を整えて、馨兄ちゃんが言った。
「うん」
「さっきから馨が邪魔ばっかりするからクリームだらけになってしまって。ひさしぶりだね、南波くん。…彼女?」
「違います、朋美は彼女じゃない」
 固い声が出る。
 恋人同士なんだから、キスくらい当たり前なんだ。一緒に暮らしてるんだから、きっと、もっと…。カァッと身体が熱くなるのを感じた。テレビでちらっと見たセックスシーンが頭の中に浮かぶ。
「あ、あとでケーキ食べに来ます。朋美、ぼくの部屋にいこう。あがって」
 玄関の三和土に立ち尽くしていた朋美が、戸惑った顔をした。
「満瑠ちゃん帰ってくるまで、ぼくの部屋でマンガ読んでたらいいじゃん」
「だね。お邪魔しま〜す」
 ぼくの後をついて朋美が階段を昇る。



 部屋のドアをしめて、ぼくは困った。
 ぼくの部屋は、ベッドと机とロッカーで構成されている。いつも友だちが来ると勝手にベッドに転がってマンガ読んでたり、ラグに転がってマンガ読んでたり、机の椅子をキーキー言わせながらマンガ読んでたり。もしかして、女の子を部屋に入れるのって初めてだったりするんじゃ…。
 ヤ、ヤバイ。キスシーンが、セックスシーンが、妄想がー。
「平沢の部屋って片づいてる。わたし、男の子の部屋ってもっとグチャグチャかと思ってた。うちよりきれいかも」
「え。満瑠ちゃんの部屋はそんな感じだよ。満瑠ちゃんケチだから、おまけとか全部捨てないんだもん。もう、物が溢れてる」
「ケチじゃないよ。満瑠ちゃん、優しいんだよ。物は思い出も一緒に持ってるから」
 ベッドの下からマンガ倉庫を引き出そうとしていたぼくは、驚いて朋美を見つめた。
「そんなこと、考えてるんだ?」
「うん。小学校の時にさ、ティッシュくれたの覚えてる?」
「ぼくが?」
「わたし、今でも持ってる。2年生の時かな、公園で転んで泣いてたの。そしたら平沢が『血が出てる』って、お兄さんにティッシュ貰って拭いてくれたんだ。そして家に着くまでに血が出るといけないからって、袋ごとくれた」
「全然、覚えてない」
「だろうね。平沢ってそういうヤツだもん」
 朋美がベッドに腰を掛けてマンガ倉庫を覗き込んだ。
「あ、これ読みたかったんだ」
 いきなり伸ばされる手。制服のスカートが揺れる。
「なんだよ、そういうヤツって」
「無自覚に優しい」
「はぁ?」
 そんな小学校の低学年の時のことで文句を言われたって困る。だいたい女って、優しい男が好きなんじゃないの? ってゆーか、スカートから出てる膝っ小僧が、思考を停止させてるって。
「満瑠ちゃん、まだかな。ケーキ、どんなの?」
「チョコレートケーキ。アプリコットジャム挟んでんだ。チョコでコーティングしたかったんだけど、生チョコクリームでかざりつけを…」
 ボンッと、喉元にキスされてる馨兄ちゃんのうっとりした顔が浮かぶ。『またクリームがついちゃったじゃないか』といいながら兄ちゃんを舐める慎二さん…。いまごろキッチンで二人で。うわぁ、ダメダメ。
「なに赤くなってんの?」
「い、いや、暑くない?」
「暑くなーい。気持ちいーい」
 朋美がそのまま後ろに倒れ、ベッドに転がった。
 しゃがんでいるぼくに見えるのは、乱れたスカートの裾。
「…朋美。…誘ってる?」
 声がちゃんと出ないよぉ。
 ケラケラと朋美が笑い、ゴロンと横になってぼくを見た。
「ホモじゃなさそうだね、平沢」
「…たぶん」
 ぼくが今ドキドキしてるみたいに、兄ちゃんは男を見てドキドキするんだろうか。
「それってどうやって確かめるの?」
 ぼくは立ち上がって、朋美を見下ろした。
 朋美が起き上がり、ぼくを挑戦的な目で見た。
「キスしてみたら?」
 頭の中は真っ白だった。朋美を好きだとか、そういうことは悪いけど何も考えてなかった。ただ、朋美の紅い唇がぼくを引きつける。肩に手を置くと、朋美が目を閉じた。心臓が張り裂けそう。ぼくはゆっくりと顔を近づける。



「ただいまー、朋ちゃん来てるぅ?」
 ドアの開閉音とともに、みるちゃんの元気な声がした。唇まであと数ミリってとこ。朋美のまぶたがピクリと動き、ぼくは慌てて朋美から離れた。
「来てるよ。満瑠ちゃん遅すぎー」
 朋美がゆっくり立ち上がり、スカートをポンポンと叩いて言った。
「帰る」
「へ?」
 そのまま顔も見ずにドアを開け、階段を駆け降りていく。
「待てよ朋美っ」
「え、どうしたの朋ちゃん」
「ごめん満瑠ちゃん、用事思い出したから。今日は帰るね」
「朋美、待てってば、どうして…」
 バタン、と玄関が閉まった。
 な、なんなんだ? いったい。
「南波ちゃん?」
 呆然とするぼくに、満瑠ちゃんのコワイ目。
「朋ちゃんに何したの?」
「何って…」
 ぼくはぐっと詰まった。
 馨兄ちゃんもいつのまにか出てきている。
「女の子に何したんだ、南波」
「…」
「だいたい南波は女の子の気持ちがわかってなさすぎるよ。あの子、『義理チョコ』の子だろう?」
「そうなの。だから満瑠ちゃんはね…」
「うん、どう見たってあれは義理チョコじゃないからね。それなのに南波ときたら、目の前で『彼女じゃないです』って言い切るし」
 だってだってだって、あれは義理チョコってくれたんだし、さっきは兄ちゃんのキスを目撃して自分が何を言ったかなんて記憶にないし、そしたら朋美がキスしてっていうから。
 なんで、ぼくが全部悪いわけ???
「南波?」
「南波ちゃん、いったい何をしたのよ」
 二人に責められて、ぼくは進退極まった。
「あー、もういい加減にしてくれよっ。兄ちゃんなんか女の子とつきあったことないくせにっ! 普通の兄ちゃんだったら、色々アドバイスして貰えるのに、兄ちゃんこそ女の子のことなんにも知らないじゃないか!」
「普通の兄ち…」



 空気が凍った。
 ぼく、いま、何を言った?



「南波くん、彼女に悪いと思ってるなら、追いかけてみたら? まだそのへんにいるかもしれないし、探しておいで」
 少し離れたところでぼくらを見ていた慎二さんが、ゆったりと言った。
 ぼくは、それを合図に家を飛び出した。


 追いかけて、つかまえて、そしてどうしたらいい?
 傷つけた心はどうやって手当てすればいい?
 ぼくは兄ちゃんの痛みに心の一部を痺れさせたまま、朋美を探した。
 義理チョコじゃないってことは、朋美はぼくを好きだってこと?
 じゃあ、ぼくは? ぼくは朋美が好きなのかな。
 確かにぼくは好きだけど、それは朋美のいう好きとはきっと違う。朋美は馨兄ちゃんが慎二さんを好きなように、ぼくのことを好きなんだろうな。キスしても当然なくらい。でもぼくはそうじゃないのに『言われたから』キスしようとしたんだ。
 駅のエスカレーターを駆けのぼり、ぼくは売店でガムを買う朋美を見つけた。
「朋美…」
 朋美がびっくりして振り向き、困った顔をした。
「ほら、無自覚に優しいじゃん、やっぱ」
「え?」
「なに? 謝らなくていいよ。わたしが勝手に踊って、勝手に自己嫌悪に落ち込んだだけなんだから」
 ぼくはいつもどおりの朋美に少し安心した。今はLove未満だけど、きっと最高のLikeだ。ぼくは頷いた。
「じゃ、謝らない。ただ…あ、あの陰で話そう」
 ぼくらは通行の邪魔にならない場所に移動した。
「ただ?」
 朋美が話を促す。
「うん。ぼくの事情を話しておこうと思って」
 大丈夫、彼女なら話せる。たぶんぼくより信頼できる。
「朋美、ぼくの兄ちゃん知ってるよね?」
「さっき…あ、帰ってきてたね。遠くの大学に行ってるんだよね。小学校の先輩だし、うちお姉ちゃんいるし、知ってる」
「そっか。…あのね」
 どう話せばいいんだろう。今まで誰にも話してこなかったぼく。話せなかったぼく。言わないことで守ってきたんだろうか? それとも裏切ってきたんだろうか?
 さっきのはぼくの本音?
 ぼくは息を吐き出した。新しい空気を吸うために。



「今日ね、朋美を家に呼んだらいいって言ったのは、満瑠ちゃんと兄ちゃんだったんだ」
「それって、平沢の意思で呼んだんじゃないっていう意味?」
「え、違う、そういう意味じゃなくて…」
 困った、どう言えばいいんだ。
「義理チョコでも、嬉しかったんだ、ホントに」
「他に誰かから貰ってたじゃん。本命チョコ?」
「あれ、兄ちゃんがふざけて入れてたヤツ」
「え〜っ?」
 疑わしそうな声をあげた朋美が、ぼくの情けない顔を見て、吹き出した。
「なんだ…じゃ、わたし、焦ることなかったんだ」
「焦る?」
 朋美が少し照れたように笑う。
 見たことのない女っぽい表情がまぶしくて、ぼくは目をそらした。
「…さっき、朋美が帰っちゃって、兄ちゃんに『女心がわかってない』って言われた」
「うん、そのとおり」
 朋美の笑いが深くなる。
「それで、ぼくは…」
 さあ、鍵を外せ。
 馨兄ちゃん、ぼくは兄ちゃんのこと、好きだよ。ホントだよ。
「ぼくは兄ちゃんにひどいことを言った。すごく腹が立って、女のこと何もしらないくせに偉そうにいうなって言い返した。恋愛のこと相談できる兄ちゃんが欲しかったって言った」
 身体の外で息を吸い込む音がする。
「ぼくは…ぼくの…。ぼくの兄ちゃん、同性愛者なんだ」
 塞き止められていた言葉が、どっと溢れだす。
「さっき一緒にいた人が恋人。…ぼく、兄ちゃんのこと、恥ずかしいなんて思ってない。馨兄ちゃんじゃない兄ちゃんが欲しかったとも思ったことない。ちゃんと好きな人見つけてて、すごいと思う。だけど…だけど、ぼくはそれを人に言えないんだ」
 受け取って、朋美。ぼくの精一杯の真実。聞いて、馨兄ちゃん。ぼくの精一杯。



「…ありがと」
 朋美がつぶやいた。
「じゃ、わたしも平沢にひどいこと言ったんだね。ごめん」
「ぼくのしたことに比べれば、そんなの。…兄ちゃん、凍ってた。ぼく、なんて謝ったらいいか」
「そのまま大好きだって伝える以外ないんじゃないかな。いま、わたしに言ったみたいに」
 朋美は一度言葉を切った。そしてぼくを見た。
「義理チョコじゃないよ。本気だよ」
 ぼくは頷いた。
「ボールチョコはみんなにあげたけど、人形は平沢のつもりで作ったんだ」
 ぼくが口を開きかけると、朋美が慌てて言った。
「あ、言わなくていい。ちゃんと分かってるから。お兄さんの話してくれただけで、いい。誤解しないで欲しいけど、変な言い方だけど、すごく…嬉しかった」
「朋美…」
「また、明日ね。今日は帰る。平沢も頑張ってお兄さんに伝えなよ。ケーキは残念だけど、ホワイトデー期待してるし」
 朋美がでへへと笑った。



 話せば受け止めてくれる人がいて、触れ合える人がいる。兄ちゃんのこと話せないのは、引け目を感じてるからじゃない。誤解されるのが嫌だからだ。誤解されても平気なくらい強くなりたい。みんなを守れるくらい強くなりたい。ぼくはみんな大好きなんだ。



 好き、とか、愛してる、とか、いっぱい。
 馨兄ちゃんに伝えよう。ちゃんと思ってることを、伝えよう。
「でも、その前に満瑠ちゃんだな…」
 ぼくは家に向かいながら怒ってる満瑠ちゃんを思い浮かべ、その猫パンチの味を想像した。