馨君の気持ち
ANNA様

「あー、もういい加減にしてくれよっ。兄ちゃんなんか女の子とつきあったことないくせにっ! 普通の兄ちゃんだったら、色々アドバイスして貰えるのに、兄ちゃんこそ女の子のことなんにも知らないじゃないか!」
 南波の台詞が頭の中に響き渡る。
 手にしたチョコレートクリームの袋が、足元に転がり落ちるのも気が付かないまま、僕は凍り付いていた。
「普通の兄ち…」
 あたりの空気の温度さえもが、下がった様に感じる。
 頭の中で南波の言った言葉だけが、繰り返し響いてる感じだった。
「南波くん、彼女に悪いと思ってるなら、追いかけてみたら? まだそのへんにいるかもしれないし、探しておいで」
 先輩の話す言葉がぼんやりと聞こえた。
 そんな風に思われてたんだ…。
 そう思ったら…、僕は膝から崩れ落ちる様にその場に座りこんでしまっていた。
「馨お兄ちゃん!」
「馨!」
 先輩と満瑠の呼ぶ声が聞こえては来るけれど、僕はその言葉を聞いてはいなかった。
 南波が出て行ったのも知らない。
 『そんな風に思われてたのか…。』
 『僕は普通の兄ちゃんじゃないんだね…。』
 ただ、頭の中でその言葉だけを繰り返していた。
 両親にはもちろん打ち明けてはいなかったけど、こっそりと兄弟が応援してくれているとばかり思っていたよ。
 それって、僕の一人よがりだったんだね…。



 今回の帰省は予定外で突然決まった。
 先輩にくっついて帰ってきたのだけれど、目的は先輩の今後についての家族会議。
 正月に帰って来た時、先輩は御家族と就職先の事についてもめていて、先輩のご両親は息子が故郷に帰ってくるとばかり思っていたらしく、先輩が東京で就職すると言ったところ、猛反対を受けたそうだ。
 先輩の方は勝手に公務員試験を受けてしまっていて、しっかり地方公務員にへの道を歩んでいた。
「安定しているからね。」
と言って笑っていたけれど、本当の所は、僕が卒業するまでのあと2年を共に過ごす為の手段だって事を、僕だけが知っている。
「ずっと一緒に暮らそうって言っただろう?」
 夕食のテーブルで向かい合って座っている時の、先輩の照れ臭そうな言葉が嬉しかった。
 先輩と一緒に暮らす為には、学校を辞めてしまおうとまで考え、学生課の掲示板に張ってある就職相談や、企業の説明会の張り紙を見ては、ため息をついていた。
 御家族の方には悪いけど、2年間も離れ離れで暮らすなんて事は、考えられなくなっていたから…、先輩がそう打ち明けてくれた時は思わず泣き出していた。
 なにが有っても一緒にいたいから…、世の中の全ての人が反対しても、この人についていくんだって、心に決めたんだ。
 だから……。大丈夫。
 僕には先輩が付いているから、大丈夫。



「南波ちゃんの言う、普通のお兄ちゃんって何よ?どんなお兄ちゃんだって馨お兄ちゃんには及ばないもん、そんな事言う南波ちゃんなんて、よそんちの子になっちゃえ!」
 ふと、我に返ると満瑠が泣きながら怒ってる。
 この世にたった一人でも、僕らの関係を認めてくれる人がいる…。
 ありがと、兄ちゃん満瑠の言葉でちょっと元気が出てきたよ。
 満瑠が一番反対しそうだったんだけどね。
 そっと泣いている満瑠の頭を抱えて、なでてやる。
 先輩が僕と満瑠の身体ごと抱きしめる、しばらく3人でそうしているうちにようやく落ち着いてきた。
「…、もう、大丈夫。ケーキ作っちゃおう。」
 鼻を啜りながら、二人に声をかける。
 先輩が床に落ちてしまったクリームの袋を取り上げて、微笑んだ。
「そうだね。」
 満瑠が涙で腫れぼったくなった目を拭きながら言った。
 あ〜あ、トレーナーの袖が涙とクリームで汚れているよ。
「美味しく出来たって、南波ちゃんには食べさせてあげないんだから!」
 満瑠の気持ちはとっても嬉しい。でも、兄弟げんかは良くないよ。



 3人で立つ台所には甘い匂いが充満し、いつもならキャンキャンと先輩にくってかかる満瑠が、彼女なりに気を使っているのか、大人しく先輩の指導の元デコレーションに取り組んでいるのが、なんだか可笑しい。
「あっ、崩れちゃう。」
「なるべく一定の力で絞ってごらん。」
「馨お兄ちゃん、笑ってないでちゃんとイチゴのヘタ取ってよね。」
「はいはい、ちゃんと取ってますって、味見する?」
「うん、味見する。あ〜ん。」
 悪戦苦闘の末、ちょっとデコレーションが崩れた感じはするけど、立派なチョコレートケーキが出来上がった。
 味見と称して、余った材料でお茶にして、台所侵入禁止にしてあったぽちにもお裾分けをして、家族サービスが待っているから帰らなくちゃいけないと言う、先輩を途中まで送って行った。
 児童公園の角の所で先輩と別れ、公園の中を覗いてみた。既に暗くなった公園の砂場の所の街燈がちかちかと切れそうに瞬いている。
 小さい時には、双子を連れて良く来た公園だ。
 砂場の脇に有るコンクリート製の熊にまたがって、男の子も女の子も関係無しに、転がりまわっていたあの頃を思い出す。
「お兄ちゃ、待ってよぉ〜。」
 こっそり抜け出して、友達と遊ぼうとすると必ずついてきた、可愛い双子の弟と妹。
 僕が戻ってくるまで、泣きながらずっと待ってた可愛い双子。
 ごめんね、兄ちゃんお前達よりずーっと大切な人、見つけちゃったんだ。
 この人だけは、いくらお前達が泣いても諦めたりは出来ないんだ。
「兄ちゃん?」
 ぼんやり砂場を見ていると、目の前に南波が立っていた。 
「ちゃんと彼女に謝ってきた?」
「うん。」
 南波が隣に有るリスに座った。
 僕は、誰に聞かせるでもなく話し出す。
 先輩はそろそろ就職の時期だが、一緒にいるために東京で就職するのを許してもらいに帰ってきたこと、南波にそう思われるのは辛いけど、自分は慎二が好きな事。
 二人とも親子兄弟の縁を切られても一緒にいようねと話し合った事。
 南波には理解できないかもしれないけれど、僕の本当の気持ちを知っていて欲しかった。
「こんな兄ちゃんでごめんね。でも、先輩が好きなんだ。」
 ひとしきり話しをした後、項垂れた南波を促して家路についた。
 玄関の前で、南波が僕のコートの裾を引っ張った。
「何、満瑠が恐いのかい?兄ちゃんが一緒に謝ってあげるよ。」
「……兄ちゃん、ごめんね。」
「あんな事言ってごめん、僕は兄ちゃん達が嫌いなんじゃないんだ。」
「兄ちゃん大好きだよ。」
 小さく南波が呟いた。
「わかってるよ、南波は大切な僕の弟だからね。」
 南波を抱える様にして、玄関の戸を開けると満瑠が待ち構えていた。
 靴下のまま玄関に降りて、南波の頬に手形が付くくらいの強烈なビンタが炸裂した。
「反省した?」
「うん。」
「ちゃんと朋ちゃんに謝った?」
「うん。」
「ちゃんと馨お兄ちゃんに謝った?」
「うん。」
「…さっさと上がりなよ。冷えちゃうじゃない。」
 聞くだけ聞いてすっきりしたのか、満瑠は居間へ戻って行った。
「また、兄弟げんか?いいかげんにしなさいね。」
 と母さんが呆れた口調で食事の準備をはじめていて、僕達は苦笑いするしかなかった。
 夕食後、南波にはケーキ食べる資格が無いと、満瑠がにらむので南波は恨めしそうに小さくなっていた。
 それでも、朋ちゃんと仲直りした事で、ようやくケーキに有りつく事が出来たようだ。



「みるちゃんのそれ、大きくない?」
 南波がケーキを指差す。
「え、そんな事無いよぉ。」
「大きいよ。」
「同じだよ。」
「太るぞぉ。」
「良いもん!美味しいから。」
 くすくす…、変わらないね。お前達。
「でも…、太っちゃうかなぁ…」
 満瑠の手が止まる。
「女の子は少しぐらいぽっちゃりしてた方が、可愛いと思うよ。」
「そうだよね。」
 賛同を得たとばかりに、大きな口でケーキを頬張る。
 僕もケーキを口にしながら、美味しそうにケーキを食べる二人を見ていた。
 双子達も少しずつ大人になって行く様だ。
<2000.02.08 UP>