慎二君の気持ち
ANNA様

 ぺロリと湿った舌が頬をくすぐった。
「…ん、馨…、くすぐったいって。」
 僕はいつものように、すぐ脇で寝ている身体を抱き寄せた。
 …ん?……毛深い…。
 馨はもっとつるつるのお肌だったはず…。
 いぶかしげにそっと目を開くと、そこには長々と寝ている黒いお座敷犬の姿が有った。
「…お前か、廣敷2号…。」
 そうだ、実家にいるんだった。
「お兄ちゃん、ご飯だよ〜。」
 にゃんの呼ぶ声に、黒犬が「わんっ」と返事をした。



 全国的にバレンタインの季節である。
 チョコレート屋の陰謀説も有るが、好きな人に好きだと言える大変都合の良い日でも有る。
 だと言うのに、僕は一人寂しく納戸と化した感じのする自分の部屋にいる。
 去年の今ごろは馨の為に、ザッハトルテに挑戦したと言うのに、今年は腕を振るう機会すらない。
 次男がどこで就職しても良いだろうに、家族の面々は僕が地元に帰ってくるとばかり思っていたらしい。
 妹と兄は内心、戻ってこないんじゃないかと思っていたらしく、反対こそしなかったが、父母の意見に対しては何の協力にもならなかった。
「同居が嫌なら、御近所にアパート借りても良いのよ。」「彼女がいるのなら一緒に連れていらっしゃい。」って言われてもねぇ…。
 本当に連れて来た日には、父さんも母さんも兄さんも卒倒しないかなぁ。
 だって、僕が連れてくるのは彼女じゃない、正真正銘男性だよ。男の嫁さん。
 家にいても気詰まりなので、後輩の妹にケーキ作りを教えに行くからと、馨の家に向かった。
 馨の妹の目を盗んで、さも偶然を装って馨に触れる。
 馨の声に、表情に、こんなにも馨に飢えていた自分に気付いて、改めて離れてなんて暮らせないと実感した。
 馨の妹の満瑠ちゃんの目が、時々こちらを牽制してる。
 満瑠ちゃんの瞳がぎらっと光った様な気が…。
 ふと馨が普段言っていた台詞が甦った。
「うちの女性陣は強いですよ〜。一番恐いのは怒らせた姉さんだけど、満瑠も怒ると凄いんです。」
「もう、僕も南波もひたすら謝って、嵐の過ぎ去るのを待つだけなんですよ。」
 そうは言われても、明るいブルーのトレーナーの上から、妹さんのものらしい可愛いエプロンをつけた馨は、目の毒だった。
 彼女が飼い犬をかまっている隙に、そっと馨に口付けた。
 うん、大丈夫。満瑠ちゃんには気付かれていない。もしも、見られたりしたら、しばらく表を歩けないほど引っかかれそうだけど…。 
 今日の予定はチョコレートケーキの作成だ。ココア生地のスポンジに、チョコレートクリームとイチゴで飾り付けるシンプルなケーキ。
 以前から料理は好きだったが、馨と暮らすようになってからは、彼の好きなお菓子類も作るようになっていた。
 学生時代はまだ同居の理由が有るが、社会人になってもこのままの生活を送るためには、周りを納得させるだけの理由が必要になってくるだろう。
 今回の帰省で、親との事や馨との将来に備えて、調理師の免許でもとっておこうかな、と考え始めている。
 歳をとったら、脱サラして自分たちの店を持つのも悪くないかな。
 そんな事を考えながらメレンゲを泡立てていた。
 時々ちらちらと馨の動きを追っては、満瑠ちゃんににらまれてたりして…。
 甘い匂いの中で、なかなかスリルたっぷりな逢瀬を過ごしていた。


 
 スポンジが焼ける間くらい、構ってあげなきゃいじけちゃうからと、満瑠ちゃんが飼い犬の様子を見に、居間に消えた。
「あれ? お客さんかな。満瑠ちゃんまだみたいだね。ケーキは夕べ焼いたからいいんだけど。ちょっと待ってて」
 残念ながら、まだ焼きあがっていないんだよ。どうやら、南波君がGFを連れて帰って来たらしい。
 泣いてお兄ちゃんの代わりに恋人になる、って言ってたおちびさんが、もうそんなお年頃か、成長したもんだね。
 そっと、馨に目配せして抱きしめて、口付けた。
 と、いきなりキッチンのドアが勢い良く開いた。
「な、南波…」
 馨が真っ赤な顔で南波君の方を見た。
 僕は慌ててケーキを作る振りをした。
「お帰り、早かったね。…友だち?」
 焦ったような口調で、馨が南波君に尋ねる。
「うん」
 やばい…。自制できなかった…。
 僕も焦ってしまい、言い訳を口にしてしまう。
「さっきから馨が邪魔ばっかりするからクリームだらけになってしまって。ひさしぶりだね、南波君。…彼女?」
「違います、朋美は彼女じゃない」
 南波君が冷たい声で答えた。
 キッチンの中に一瞬シーンとした空気が流れた。
「あ、あとでケーキ食べに来ます。朋美、ぼくの部屋にいこう。あがって」
玄関にいた彼女に、南波君戸惑った顔をした。
「満瑠ちゃん帰ってくるまで、ぼくの部屋でマンガ読んでたらいいじゃん」
「だね。お邪魔しま〜す」
後には、焦って真っ赤になった僕達が取り残されていた。
 見つかったのが満瑠ちゃんでなくて良かったと、ほっと胸をなでおろした。



 馨が南波君の台詞で崩れ落ち、いつものように「馨!」と呼び捨てにして駈け寄った時、僕の心の中は馨は大丈夫だろうかと言う心配と、こんな想いをさせてしまってすまないという気持ちが交差していた。
 僕の我が侭で馨を縛りつけているんじゃないかって……。
 馨もそのうちに家族に打ち明けられなくて、悩むんじゃないかって……。
 泣き崩れた馨と満瑠ちゃんをただ抱きしめるしか出来なかった。
 ケーキが出来上がり、表面上は和やかに、味見と称したお茶会が終わり、僕は早々にお暇することにした。
 駅への道を馨と歩く、お互い何も言わないけれど、さっきの言葉が気にかかっている。
「馨…、何が有ってもお前と一緒にいるから…。」
 児童公園の角の所で、ようやくそう口に出来た。
 馨は何も言わずに、ぎゅっと手を握り締めてくれた。
 馨とわかれて一人歩く夕暮れの帰り道。
 僕は馨とずっと一緒にいるために、何か技術を身につけようと考え始めていた。



 そして、先輩は調理師免許を取るのであった。(爆)
<2000.02.16 UP>