赤いくつ
Written by : 愛良
番外編
「 白い扉 」


「どこ、見てるの?」
不意に間近で声が聞こえて、遠くへ飛んでいた意識が戻ってくる。
「時々、遠いところ見てる」
そう言われて私は苦笑した。
「そう?」
「うん。……何だか飛んでいってしまいそう」
彼女は吸い込まれる様な瞳でそう言った。
「まさか」
そう言いながら私は彼女の鋭い言葉に、少しだけぎくりとする。……飛んで行けたら。いつからかぼんやりしていると何故かそんな事を考えている自分がいる。……飛んでいく?どこへ?……私の想いはいつもここでリピートする。私は一体どこへ飛んで行きたがっているのだろう。
カーテンの隙間から青い空が見えた。あの空の下のどこかには、私の居場所があるのだろうか。こんなに穢れた私を受け入れてくれる場所なんてあるのだろうか。……いや、もしかしたら、この穢れを帳消しにしてくれる場所を探しているのかも知れない。……それとも、もっともっと堕ちてしまえる場所を。



 私は幼い頃から父が嫌いだった。地方の名士の家系に生まれ育った私は、同じく名士の家系で育ち、継いだ父の古くさい男女観が疎ましかった。女は男を立てるもの、女は家を守るもの、と口が酸っぱくなるくらい言っていた父は、その通り、貞淑で反論しない母を妻に娶った。そのくせ、あちこちに愛人がいたことを私は知っている。臆面もなく、男の甲斐性とか言っていた。そんな、愛人を囲いながら私には女らしさを身につける様にと煩い父。私はそんな父が大嫌いだった。
 それでも、大学に入る頃まで私は箱入り娘で何も知らない無知なまま育った。その頃はそれ程父を毛嫌いはしていなかった様に思う。男女の間の機微にも当然ながら疎かったし、勿論男の子とお付き合いすらしたことは無かった。お堅いお嬢様。……そう、同級生には思われていたらしいし、今では私もそう思う。

 大学二年の頃。とある男の子に出会った。同じ大学の、一学年下の、人なつこそうな男の子。たまたま取った教養の科目が同じで、何度と無く隣の席に座りあった。
 最初は偶然だと思っていた。いや、彼と何度も隣り合っていながら、私はそれに気づきもしなかった。だけど、回を重ねる毎に当然気付いて行く。あれ?と思った。次にどうして?と思った。
 前期の試験前。隣り合っていた彼が私に初めて声を掛けた。
「ね、ノート貸してくれない?」
それは切っ掛けを作るための文句だったと後から聞いた。真面目に毎回どの授業も出ているのに、不思議な事を言う人だと思いながら私はノートを貸した。返して貰う時に、
「お礼にお茶をおごるよ」
と彼は切り出した。にっこり微笑んだ彼の笑顔は人を惹きつける程可愛くなる。私だって当然彼のその笑顔に惹きつけられ、ときめいた。
「僕があなたを好きだって事、気付いてた?」
お茶を飲みながら、何気なく微笑んでさらりと言う彼。そう言うことに全く疎くて、好きだと言われたのも初めてだった私が舞い上がらない筈が無かった。
 それから彼が妙に気になって気になって仕方無かった。初恋だったのだと思う。気が付けばいつも彼の姿を探していた。目があって微笑まれると、胸がきゅんと締まって苦しくなった。その後は転がる様に彼と初めてのお付き合いが始まった。

 私は何も知らなかった。ただ、初めて好きな人が出来て、初めて男の子とお付き合い出来ることに舞い上がっていた。

「香織は綺麗だよ。とても清らかだし可愛らしい。……本当に僕なんかでいいの?」
 彼と男女の関係に至ったのは、結局付き合いはじめてから一年以上経ってからだった。
「……あなただから、いいの……」
私をとても大事にして時間を掛けて身体も心も開いてくれた人。私はそう思っていたし、だからこそ、大事な大事な初めてのコトは彼に委ねたいと強烈に思っていた。
「嬉しいよ、香織……とうとう念願が叶うんだね……」
彼は少し躊躇する様子を見せた後、私を貫いた。間近で見る彼の端正な顔立ちは、何故かどこか懐かしい様な感じがした。破瓜の痛みを経て私は硬い殻を一枚ずつ剥いでいく。彼はとても巧みだった。最初は痛みしか感じなかったその行為も、回を重ねる毎に快楽へと変わっていく。する度に新しい気持ちよさを身体に刻まれ、私は彼に、彼とのその行為に、のめり込んで行った。……ただ、私はまだ「イク」という感覚がよく分かっていなかった。
「焦らなくても、時が来たらイケる様になるよ」
彼は優しくそう言いながら、私の身体の隅々を触診するかの様に、触れては反応を確かめた。身体が徐々に彼に馴染みほぐれて行くにつれ、イケない自分に焦り始める。気持ちよさに包まれながら、手を伸ばした先に扉があって、そこを開ければエクスタシーに到達するのが分かっていながら、私はどうしてもその扉を開ける事が出来ない……そんな感じだった。それは途方もなく焦れったく、彼に申し訳ないと想いながらも、優しい彼を心底好きになっていた。こうして彼と私は繋がっていくのだと、その時は本当にそう思っていた。それがどんなおぞましい行為であったかも知らず。

「大事なお嬢さんとお付き合いしてるんだ……ご挨拶に行かないとね」
彼はそう言って私の父に会いたがった。私は父に彼を会わせたくはなかった。父の事だからきっと難癖付けるに違いない。それを聞いて彼がどう思うか。もしかしたらそのせいで嫌われてしまうかも知れない。……私はそれが怖かった。
「別に挨拶なんてしなくてもいいわ」
「そんな訳に行かないよ。御両親を安心させなきゃ」
彼は微笑みながらも有無を言わさない口調でいつもそう言った。彼がそんな風に強く言う理由はきっと、彼が母子家庭で育ったせいだろうと私は思っていた。彼は私の父にご挨拶を済ませたら自分の母に私を紹介すると言っていた。先を見越したお付き合いをしたいとずっと言ってくれていた。それに私が舞い上がらない訳がなかった。あまりに免疫が無さ過ぎたのだから。



 その時の父の表情を私は忘れられない。
彼を家に招いて父に紹介した。付き合っている人です、と紹介するまで彼は俯いていた。その顔を挙げた途端の父の驚愕の顔色。見る間に血の気が引いて青くなり、そして次の瞬間赤く染まった。
「お……前……」
私は父の顔色を見、そして隣に座っている彼の表情を慌てて見つめた。……何と言うのだろう。彼の表情は何とも言えず艶やかで悦びの色さえ浮かべていた様に思う。勝ち誇った様な、一種威風堂々としたその顔は、どこか家の中の普段の父にも似ていると一瞬思った。
「お前……お前……」
父はうわごとの様にその言葉を繰り返した。
「香織さんとお付き合いさせて頂いています」
彼は爽やかな表情でそう言った。その声は凛としていて、涼やかだった。
「………………っっ……ゆ、許さん……許さんぞ」
「お父さんっっ」
「香織、ダメだ、この男と付き合っちゃいかん」
「お父さんっ」
「絶対ダメだ。それだけはダメだ」
「どうして?……どうしてよ?」
「ダメだ。こいつだけはダメだ」
「そんな……彼に失礼よ。謝って!」
「その必要は無い!……お前、何を考えているんだ」
父がそう言ったのは彼に向かってだった。次の瞬間、彼は口の端を歪めて押し殺した様に喉の奥でクックック、と笑い始めた。
「な、何がおかしいっ」
「……さすがにあんたでも、姉弟で関係を持つことは許せないか……お父さん」
 私は混乱した。彼の言う「お父さん」と言う響きが。……それは、私の父を呼ぶための「香織さんのお父さん」と言うニュアンスではまるでなかったから。……それより、今何と言った?……姉弟?
「……お前っ……」
「あんたがしたこととどっちが許せない事だと思う?お父さん」
「貴様……」
彼の勝ち誇った様な笑い声が鼓膜を震わせる。
「あっはっはっはっは……香織は越えてはいけない一線越えたぜ?。あんたが大事に大事に育てた娘はね、知らないとは言え、人としてやっちゃいけないことをしたんだ。……さすがあんたの娘だよね。……ああ、僕もあんたの息子でしたねぇ、そう言えば」
ぐらり、と足元が揺れた様な気がした。目の前にいる彼はいつものあの優しい顔をした彼ではなかった。……こんな人知らない……私は、こんな狡猾な表情をした男なんて知らない。
 掴みかかり、殴ろうとした父をかわして、彼は私の手を引いた。そこから先は目に映る何もかもがスローだった。私は全て見ていたと思う。記憶にも残っている。けれど、意識が全てを遮断していた様な気がした。感情はまるで動かず、一切を拒絶している様だった。
「香織っっっっっっ」
父の、悲鳴にも似た声が背後から響いた。

 気が付くと、私は彼の部屋にいた。いつもは甘い囁きや淫靡な笑い声を繰り返すベッドの上に。
「……弱い女だな。……こんな事で心閉ざしてまだお綺麗なままでいたいのか?」
彼のねっとりと絡みつく様な声が聞こえる。
 ―コレハ、誰ノ声……?―
「俺とあんたは異母姉弟なんだよ……見たか?あの親父の顔……」
狂気めいた含み笑いを喉の奥から漏らす彼。
ぐい、と私の脚元に割って入る。
「ほら、お前の好きな弟のちんぽだぞ……え?何回コレに貫かれた?オネエサン?」
その声は遠くから響いてきた。
―私ニ弟ナンテイナイ……―
そう思わなければ、多分私は壊れていたと思う。心の中で呪文の様にくり返す。これは何かの間違い……
「んぁ……っ」
肉を割って入ってくる彼のモノを迎え入れた瞬間、私の心は決まった。……彼は弟じゃない。彼は違う。
「ぁぁぁっ、ああんっ……んぁ……」
馴らされた身体が勝手に反応する。ぴったりと窪みに密着する彼の形が内側から分かる。肉襞がやわやわと彼を締め付け、摩擦の度にひくひくと収縮する。
「あ、ああんっ、ああっ……ひぁぁんっ……ぁぁ〜〜〜」
「淫乱だなぁ……快楽に溺れて忘れようってか?……弱いよ。あんたすげぇ弱い女だなぁ……なぁ?姉さん?」
ぐいぐいと貫く彼のモノは、いつもよりも堅く強張っていた。痛いくらいに奥を擦り上げ、執拗に私を責め続ける。
「ぁっ……いいっ……ひぁぁ……いいのぉ……」
「俺の……っ……お袋は……っ……あんたの親父にっ……んっ……犯られたんだぜ……っ……うっ……無理矢理な……」
「ぁんん〜〜……ひぁぁぁ、すごっ……ああああっ」
「そのくせ……お袋が……っ……うっ……身籠もったら……はぁっ……あの野郎、認知どころか……うっ……他の男の子供だろうとか言いやがって……」
「んぁ……ぁぁんっ……はぅんっ……凄い……凄いぃ〜……壊れちゃう……あぁっ」
「果てに……あの野郎、お袋の悪評を町中に触れ込みやがって……こんな小さな町で、そんなこと言われてみろよ。お袋がどんな思いしたか、お前分かるか?……え、大事に大事に育てられやがって……」
「ああああっ、やっ……ぁ……あああああっ、イク、いっちゃう、いっちゃううううう〜〜」
「お前の膣に出してヤルからな……孕めよ……俺の子、孕めよ……うぅ……どんな顔するだろうな、あの男……」

 彼の声はもう全く聞こえていなかった。私は快楽に溺れることで耳と心に栓をした。押し流されていく快感の波に身を委ね、辿り着く白い扉に手を伸ばす。今まで遠くの方で微かに見えていた扉。目前に迫っている。甘い声で扉を開けろと囁く声がどこかから聞こえてくる。躊躇する間もなく、腕は勝手に動き、その扉を押し開ける。ぱぁぁぁっと白く発光する光が脳内に射し込んで私の思考全てを奪う。清冽な、痛い、白。私の体中を灼き尽くす様な。
「ああああああ、いぐっ、いぐぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ」
 訳の分からない私の言葉さえ、白い光に遮られて私の耳まで届かない。体中が灼け爛れた様に熱くなり、光の洪水が脳を溶かし出す。

 ……その日、初めて私はエクスタシーに達した。



 彼は昼夜問わず私を抱いた。部屋からは出しては貰えなかった。ベッドヘッドに手錠を掛けられ、自由を奪われた。私は彼の部屋で裸で過ごした。

 正常ならば。その行為が禁忌であることは明白の事だし、私も拒絶したのかも知れない。けれど、多分どこかが歪んでいた。どこかが異常だった。……私も彼も。
 彼が弟であると言う彼の主張を私は完全に受け入れる事が出来なかった。……けれど、身体のどこかが既に受け入れている様な不思議な感覚もあった。背徳であればあるほど、いけない行為であればあるほど、身体はその甘美な罪に溺れていくものなのかも知れない。
 身体は彼を求めていた。抱かれる度に悦びに震え、あの白い扉を押し開いた。
「あんたは弱いよ、姉さん……」
彼は私を抱く度にそう言った。現実を受け入れきれない私を責めている様だった。
 彼の母は、狭い町に広がった悪い噂の為にまともに職に就けず、言い寄ってくる身体目当ての男から金を貰って細々と生活していたらしい。幼い頃、学校から帰宅すると男の下で喘ぐ母を何度も目撃したと彼は言っていた。男の下で狂喜の声を挙げながら喘ぎ狂う女は、もう母ではなかった、と彼は何度も呟く様に言っていた。弱い女だったから、と。本能に赴く事が唯一の拠り所だったのかも知れないと。……彼はそう言いながら、それでも男の下で裸体を仰け反らす母に女を見ていたのかも知れない、とふと思う。彼が母親の事を話す時、その表情は憎悪と愛情の両極に満ちたとても複雑な顔をしていたから。

 何日そう言う軟禁生活を続けたか分からない。あの父がここを見つけられないのが私は不思議だった。多分、町の名士なんて言いながら既にその力は弱く薄れていたんだと思う。……昔の名にしがみついていた父も滑稽だった。何も知らずのうのうと暮らしていた自分も滑稽だった。……そして、憎しみを持たなくては生きて行けなかった彼さえも。徐々に滑稽だと私は感じ始めていた。

 突然、その生活に終止符が打たれたのは、彼の母親が自殺を図ったと言う話が入ってきた時だった。
 父とは無関係に。今現在愛人関係を結んでいた男から捨てられたのが原因だったと言う。彼女は何度と無く自殺を繰り返していたそうだ。父に犯された後も、子供が生まれた後も、その後男に抱かれ捨てられては何度と無く。……私は彼女のその気持ちが何となく分かる様な気がした。
「……もうお遊びは終わりだ、姉さん。あんたは解放だよ。……最後までお綺麗なままだったな」
最後に見せた彼のその笑っている様な表情を私は忘れられない。
「……謝らないから」
そう言って彼は私の前から姿を消した。大学も辞め、アパートも引き払い、収容された母親と共に、そこを引き払ってどこかへ姿をくらませた。

 結局私は妊娠などしなかった。解放された後、父のいる実家へ帰る気にもなれず、私は町をふらついた。繁華街で声を掛けてくる男が一晩の宿を提供してくれる。帰らなくても充分日を過ごせた。

 彼は私をお綺麗なままだと言った。……とんでも無い話だったと思う。私は最初から薄汚れていた。あの父の血を受け継いでいる段階で。清らかさとは無縁だったのだと思う。……何も知らないウブさを清らかと言うのなら、私は既に色んな事を知ってしまっていた。父の犯した罪。彼の犯した罪。そして私が今ここに在ることの罪、それから、快楽と言う名の逃げ場。
 宿を提供してくれる男達の身体の下で、私は一時全てを忘れた。気持ちよさに身を震わせながら、息苦しい浅い呼吸の中で、彼の事も父の事も忘れようとした。快楽にすがりついてあの扉を開ければ全ては帳消しになる様な、そんな気がした。
 ……けれど、すぐに否応もなく思い知らされる。身体に違和感を残して。
その男達のモノは彼のモノではないと言うことを。身体にかかる息は彼のものではないと言うことを。卑猥に囁く声も、呪文の様に刻み込む唇の感触も。
……彼のものじゃない……

 今になって思えば、私は弟だと言う彼の事を愛していたのかも知れない。それが一体どういう形なのか言葉で説明することは難しいけれど。体中に、そして心に強烈に刻まれた彼の面影は、どうやっても消し去ることが出来なかった。……そして、思い知らされた。灼け焦がれる様なあの快楽を欲して身体が疼いても、それを鎮めてくれる手はもう無い。劣情にまみれてただ貪り合う様な、そんな激しい感情と快楽はもう味わえない。……彼、だからこそ。弟だと言う彼だからこそ、その行為は甘美であり淫靡であり、深い奈落へ落ちていきそうな位狂おしい快楽を味わえたのだと。
 ……私はもう、きっと二度とあの白い扉を開ける事は出来ない。
 

 狭い町で男を漁ったところで、その町は小さすぎた。すぐに父の手の者に見つかり、連れ戻された。
「……お前はこの男と結婚するんだ。いいな」
連れ戻された夜に父はそれだけを言って、写真と経歴書を差し出した。
 父の会社の部下である男。この町から恐らく出たことも無い様な、誠実なだけが取り得そうな、優しそうな男。どちらかと言うと、風貌は良い方ではなかったし歳も私とは随分離れていておじさんに見えた。
 父が、どんな思惑から私を結婚させようと思ったのか。そんなことは私は知らない。ただ、私がどう感じたか。それだけで、嫌悪感はあるものの父としてそれなりに仕方がないかと思っていた血の繋がりが、途方もなく穢らわしく、憎悪にも似た想いが膨れあがってきた。
「……嫌です」
「反抗は許さない。お前はこの男と結婚する。私がそう決めた」
父は私の目を見ずにそう言った。反論は許さない口調だったけれど、負い目を感じているのは一目瞭然だった。
「……私が……彼の子を宿していてもですか……?」
父は一瞬ぎょっとした顔をしたが、既にそれも考慮の内に入れていたのかも知れない。
「……この男との間に出来た子だと言う事にすればいい」
「……そんな無茶な……」
「お前が、自分の異母兄弟との間に子を成したなんて知れてみろ。いい笑い者だ」
「自業自得でしょう!?」
「うるさいっ……とにかくお前はこの男と結婚すればいいんだ」
父はそう言ったかと思うと、これ以上話すことは無い、とでも言う様にその部屋から出ていった。最後まで、私の目を見ようともしなかった。



「ね、あんたAVとか興味無い?」
髪の毛を後ろで束ねた男が私に声を掛ける。取り敢えずコインロッカーに荷物を入れて、私はこの先どうしたものかと駅前の噴水傍で腰を下ろしていた所だった。
「うわ、あんた可愛いね〜……絶対イイ線行くよ。どう?」
昼間でもどこからこれだけ湧いてくるのだと思うくらい雑多な人混み。機械的に右、左と動く人々の足をぼんやり眺めていた所だった。都会なら女一人どうやってでも食べていけると思った。身を落とせばいい。男の慰み物になればいい。身体の疼きを少しでも慰めて貰えて、なおかつ私一人食べて行ける程度のお金も手に入る。……落ちてしまえばいい。どこまでも、深く底を這い回ってしまえばいい。
 私はぼんやりとその男の顔を見上げた。特に派手でもなく、飄々とした感じの男だと思った。
「どう?話聞いてくれないかな?」
どうせアテなど無いのだから、彼についていったって構わないじゃないかと思った。もし何かあったとしても、それならそれで仕方がない。危険な目に遭ったって、レイプされたって、だったらそれはそれで仕方ない。……私は多分、どこか投げやりになっていたのかも知れない。
 罪をどうやって償うのか、私は知らない。ただ、自分を貶めてみすぼらしい自分を自嘲する事しか方法は無い様な気がした。
「いいよ……」
そう答えた私に男は驚いた表情を隠さなかった。……その男が、圭ちゃんだった。



「あ、ほら……また遠いトコ見てる」
未来が少しだけ口を尖らせてそう言う。
……随分と表情が増えてきたな、とぼんやりと思う。
最初見た時は大人びた瞳をした少女だと思った。どこか疲れている様な目をした子だと思った。昏い目をして、夜を見る綺麗な子。……そんな印象が拭いきれなかった。
……あの時の私も、そんな顔をしていたんだろうか。
「んっ?……あ、ごめぇん。ちょっとぼんやりしてた」
そう言うと、いつも一瞬だけ未来の瞳の奥が揺れる。不安に感じているのが手に取る様に分かる。けれどいつも
「そっか」
と、にこやかに返事する。
感情の起伏を押し殺す事に長けた子。……情けないけれど、私はそんな彼女の我慢に依存する。……彼女の不安を取り除いてあげられるほど私は出来た人間では無い。自分の感情さえ持て余し、少しでも隙があれば暗い隅っこに踞って自分を責めることで安堵する様な、そんなどうしようもない女なのだから。
「あ、ねえ未来ちゃん、この服あげるよ。……もうちょっと成長したら、きっと似合う様になるから」
衣替えの季節。私は白いワンピースを未来にあてがう。前身が半分にすっぱり分かれていてボタンで留めるシンプルなタイプのそれに、私は結局一度も袖を通さなかった。真っ白な色。私には到底似合わない色。穢れの無い色。その色を身に纏えば、私は嫌でも自分が穢れていることを思い知らされてしまう。……憧れの色。
「……ん……いい。私、その色似合わないから。……あ、その代わりこっち頂戴」
未来は少し色の剥げた赤いハイヒールを指差した。
「え、そんなの古いよ」
「いいの。……これがいい。……これ、頂戴」
未来はその赤いハイヒールを欲しがる理由を何も言わなかった。私も何も聞かなかった。それは暗黙の了解の様に、会話の隙間に落とし込まれて行った。
「そんなんで良ければ」
「わ、やった」
無邪気を装いながら、無邪気に憧れながら、私達は無邪気に時を過ごす。……まるでそうしなければならないとでも言う様に、私達は精一杯無邪気さを演じ、しがみつきながら、きゃっきゃと笑いさざめく。

きっと、この刹那の幸せはいつまでも続かない。そんな予感に身を委ねながら、私達はいつまでも笑い続けた。窓の外、青い空に浮かぶ雲が、二度と開けられない扉の様に手の届かない場所で漂い続けていた。







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