■ 美少年幽霊奇譚 第 1 章
やまね たかゆき様


 生まれて初めて、幽霊を見た。


 七月下旬のある日のこと。夕方に降った通り雨のせいか湿度が高くて、気温の割に蒸し暑く感じる夜だった。
 バイトの帰りだから、午後九時を過ぎた頃だろうか。
 私は、小さな公園の中を歩いていた。この公園を横切るのが、地下鉄駅からアパートへ帰る近道なのだ。
 途中で、ベンチに一人の男の子が座っているのに気がついた。
 多分、中学生くらいだと思う。
 格好いいというか可愛いというか、すごくきれいな顔立ちをした子だった。
 やや長めの、茶色い髪。
 精悍さと、少年のあどけなさを合わせ持った目。
 Tシャツと色褪せたジーンズというラフな服装にも関わらず、あか抜けた雰囲気を漂わせている。
 思わず、足が止まった。
 つい、見とれてしまった。
 どこかで見たことあるような顔だったけれど、それがどこだったかは思い出せない。あるいは私の思い違いかもしれない。
 近所の中学生の夜遊びだろうか。ここで、友達とか彼女と待ち合わせでもしてるのだろうか。
 普通に考えれば、そうだろう。
 だけど。
 私はそこで、奇妙なことに気づいてしまった。
 ベンチがあるのは街灯の下なのに。
 地面には、ベンチが漆黒の影を落としているのに。
 その男の子の足元には、影がなかった。
 しかも。
 私の目には男の子の姿がはっきり映っているのに、その後ろにベンチの背もたれが、ぼんやりと透けて見えている。
 これって、まさか……。
 蒸し暑い夜なのに、一瞬、ぞくりと寒気を感じた。
「あ……」
 それまで俯き加減だった男の子が、不意に顔を上げた。
 目が合ってしまった。
 私の身体がビクッと震える。
 男の子はわずかに目を見開くと、口元に笑みを浮かべた。
 立ち上がって、近づいてくる。
 脚は動いていないように見えるのに、すぅっと音もなく近づいてくる。
 逃げ出したかった。なのに、脚が思うように動かない。
 よろめきながら、一歩だけ後ろに下がった。
 男の子が目の前で止まる。
 ほんの数十センチ。手を伸ばせば届く距離なのに、体温や息づかいといった人の気配がまるで感じられなかった。
「おねーさん、オレのことが見えるんだ?」
「み……見えない見えない!」
 思わず、首をぶんぶんと左右に振った。
「わっ、私っ、なんにも見えてないよっ!」
「……へぇ」
 男の子の口元がほころぶ。
「声も聞こえるんだ」
「き、聞こえてない聞こえてないぃっ!」
 男の子は右手を上げて、私の顔に触れてきた。
 私は悲鳴を上げようとして。
 だけど、その前に気を失ってしまった。





「こんなところで寝てると、風邪ひくぞ」
 意識が戻って、最初に聞いた言葉がそれ。
 目を開けて、台詞の主を確認して。
 また失神しそうになったけれど、かろうじて踏みとどまった。
 私は、公園の中で倒れていた。
 頭を上げると、あの男の子が傍らに座っている。
「女が気軽に外で気絶するのは、どうかと思うぞ。変質者とかが通りかかったらどうすんだよ?」
「ゆ、ゆ、幽霊よりはマシよっ!」
 あまりにも気安い、普通の男の子みたいな物言いに、思わず言い返してしまった。
 言ってしまった後で、しまったと思う。
 幽霊相手に会話してしまうなんて。
 しかも言い返したりして、怒らせたら大変なことになるかもしれない。
「普通、幽霊は痴漢行為を働いたりしないぜ? 助け起こしてやろうと思ったけど、触ることもできないんだもんな」
 私の方へ腕を伸ばしてくる。
 だけどその手は、なんの抵抗もなく私の身体をすり抜けてしまった。その一瞬、微妙な暖かみを感じたような気がしただけだ。
「や……や……やっぱり、幽霊……」
「だったらどうする?」
 幽霊の男の子はニヤッと笑う。不気味というよりは、悪戯っ子のような笑顔だった。
「ど、ど、どうしよう?」
 どうしよう。
 幽霊と接近遭遇してしまうなんて。
 生まれてから二十年近く、心霊現象とはまったく無縁な生活を送ってきて、こんな場合の心の準備がまるでできていなかった。
「とりあえず、家に帰ったら? 公園で寝るのが趣味ってわけじゃないんなら」
「……そ、そうね」
 幽霊の助言に従うってのもどうかなぁ……と、立ち上がってから気がついた。だけど今は、ここを離れるのが先決。
 アパートへ向かって早足で歩き出して……。
「……いやぁぁっ! ついてくるぅっ!」
 肩の後ろあたりにふわふわと浮かんでいる幽霊を見て、すぐに全力ダッシュに切り替えた。
 アパートまでの道のりを普段の五分の一以下のタイムで走破し、部屋へ飛び込む。
 後ろ手に扉を閉めて、大きく息をついて。
「おかえり」
 目の前に浮かんでいる幽霊の姿に、力尽きてそのまま玄関に座り込んだ。
 部屋にまでついてくるなんて、ひょっとして私、取り憑かれてしまったのだろうか。
「ど……ど、どうして私につきまとうの?」
「だって、オレのことが見えるの、おねーさんだけなんだもん」
「好きで見えてるわけじゃないわよ!」
 本当にどうしよう。
 部屋に、十字架やニンニクはあっただろうか。
 料理用のガーリックパウダーとかでも効果はあるのだろうか。
 いやいや、それは西洋の吸血鬼の場合だ。国産の幽霊が相手では事情が違う。
 お経なんて知らないし、もちろん、お札なんて部屋に常備しているはずがない。
 あと、魔除けに効果があるのはなんだったっけ。
 ヨモギ? タラの木? 聖水?
 いずれにしても、女子大生の部屋に常備してあるようなものではない。
 ああもう、誰か助けて。
「そんなに怯えなくたっていいじゃん」
 真っ青になって座り込んでいる私を見下ろして、幽霊が馬鹿にしたように言う。
「別に、悪さするわけじゃなし」
「……しないの?」
「して欲しいわけ?」
 ぶんぶんぶん。
 私は力いっぱい首を振った。
「オレは人畜無害なただの霊体だって。気にすんなよ」
「そんなこと言ったって……」
 一人暮らしのアパートの部屋に幽霊が漂っている光景を、気にするなという方が無理がある。
 だけど相手が幽霊では、力づくで追い出すなんてできるはずもないし、もちろん一一○番に電話したって無駄。
 精神の安寧のためには、人畜無害という言葉を信じる他はなさそうだ。その言葉が嘘で、向こうに悪意があったとしても、どっちみち私には何もできないのだから。
 相手が見目よい美少年であることが、唯一の救いだろうか。これが怪談の『お岩さん』みたいな外見だったら、ただ傍にいるだけでも失神ものだ。
「……ねえ、君、名前は?」
 言葉が通じるのが幸いと、私はこの幽霊の素性を調べることにした。とにかく相手のことがわからなければ、今後の対策も立てようがない。
「人に名前を聞く時は、まず自分から名乗るのが礼儀だろ?」
「う……」
 年下の――少なくとも外見は年下の――幽霊に礼儀を諭されるなんて、人としてどうなんだろう。
「せ、瀬川里子よ」
 肩を落として、自己紹介する。
「十九歳、北海道大学の二年生。……これでいい?」
「女子大生?」
 幽霊はかすかに眉を上げて、意外そうな表情を浮かべた。
「ふぅん、女子大生ねぇ……見えねーな。女子大生って、もっとお洒落で色っぽいもんだと思ってた」
「わ、悪かったわね!」
 確かに私の顔はあまり化粧っ気もないし、髪型も服装も地味な方だ。このあたりは性格だから仕方がないが、自分でも気にしていることを指摘されて、少しむっとしてしまう。
「それより、君は?」
「あー……」
 幽霊は、少し口ごもった。
「……柏崎、ユウキ。十三歳の中二」
「ユウキ? どんな字を書くの?」
「夕方の夕に、樹木の樹」
「ふぅん、格好いい名前だね」
 自分が「里子」なんて地味な名前のせいだろうか、格好いい名前に憧れてしまう。
「中学生? 家はどこ? こんな時間まで出歩いて、ご両親が心配しない?」
「……バカ?」
「なによ……あ!」
 そうだった。目の前にいるのは家出少年ではない、幽霊なのだ。既に死んでいる人間に「両親が心配」もなにもあったものではない。
 こうして話していると妙に人間くささを感じてしまうために、うっかりしてしまった。
「で、家はどこ? どうしてあんなところにいたの? 最近このあたりで男の子が死んだなんて、聞いたことないんだけど」
「詮索好きな女だな」
 矢継ぎ早の質問に対し、夕樹くんはうるさそうに言った。
「なによ、気になるのは当然でしょ。幽霊に遭うなんて、初めてのことなんだから」
「だからって、細かいことまでうるせーんだよ。そーゆーのはもううんざりだ」
「いろいろ訊かれるのが嫌なら、出ていったら? いちいち追いかけてまでは質問しないわ」
「……」
 怒ったのだろうか。無言で私を睨みつける。
 だけど本来、怒ってもいいのは私の方のはずだ。
「……家は東京だよ」
 しばらくの沈黙の後、ぽつりとそれだけを答えた。意外な答えだった。
「東京って……どうしてこんなところに? ここ、札幌よ。それとも、旅行に来ている時に事故にでも遭ったの?」
「いいや」
 夕樹くんは首を振った。
「霊体には、物理的な距離なんか関係ねーんだよ。少なくともオレの場合はね。基本的に、行きたいと思った場所に行くことができる。試したことはないけど、多分、その気になれば外国だって簡単に行ける」
「ふぅん……で、なんでこんなところにいるの?」
「……」
 返事はなかった。この質問には答える気がないようだ。
 さて、この後はどうしよう。
 訊きたいことはいくらでもあるけれど、どうやら夕樹くんは、あまり自分のことを詮索されたくないらしい。他人のプライバシーをいろいろと訊ねるのは、あまりいいことでもない。
 いろいろと考えて。
 だけどこれといった名案も浮かばなくて。
「……もう寝る」
 私は、早々に寝てしまうことにした。
「もう? まだ早いじゃん」
 確かに。
 夏休み中の大学生が寝るにはまだまだ早い時刻だけど、今日はなんだかすごく疲れてしまった。
 精神的疲労、というものだろう。それに目が覚めて朝になれば、この幽霊も消えているんじゃあ……なんて淡い期待もある。
 シャワーも浴びず、パジャマにも着替えず、私は這うようにしてベッドにもぐり込んだ。
 だけど……。
「で、なんで夕樹くんはそこにいるの?」
 ベッドの上五十センチのところに男の子の幽霊がふわふわと浮かんでいるというのに、その下で眠るのはかなり難しい。
 ただしその理由が「幽霊がいるから」なのか、「部屋に男の子がいるから」なのか、その判断は微妙なところだ。
 できれば出ていって欲しい。それが無理なら、せめて見えないところにいて欲しい。ベッドの真上というのは、精神衛生上あまりにもよろしくない。
「……夕樹くんがそこにいると、落ち着けないんだけど」
「いいじゃん。オレだけじゃないんだし」
「え?」
「だから、オレの他にもいるって言ってんの」
「え……えぇっ?」
 何がいるのか、と訊く勇気はなかった。主語が「ゴキブリ」や「ネズミ」でないことは訊かなくてもわかる。わかりたくなかったけれど。
 いるの?
 ここは確かに安アパートだけど、周辺の相場よりも特に安いというわけではないし、一年以上住んでいて、変なことは何もなかったのに。
「もっと、ぐっちゃぐちゃの見栄えの悪い連中もいるのに、オレみたいな二枚目を追い出そうっていうのがわかんねーな。あ、それともオレが格好よすぎて緊張するのか?」
 夕樹くんは軽いノリで笑っている。「ぐっちゃぐちゃの見栄えの悪い連中」については、詳しく訊きたくなかった。確かに、死因によってはそんなこともあるだろう。むしろ、夕樹くんみたいにきれいな姿の方が少数派なのかもしれない。
 私は頭から布団をかぶって、丸まってガタガタ震えていた。
「どうしてもって言うんなら、オレは出てくけど?」
「い……いて、いていいからっ!」
 半分泣きながら応える。
 万が一、その「ぐっちゃぐちゃ」が見えてしまったら……なんて考えると、怖くて一人ではいられない。夕樹くんでもいないよりはマシだ。少なくとも、外見は格好いい。
「ね……他の人たちに、出ていってもらえないかな?」
 同じ幽霊の夕樹くんなら、話をつけてもらえないだろうか。
「ん? ああ。……とゆーわけだから、お前ら出てけよ」
 私の目には誰もいないように見える部屋の隅に向かって、夕樹くんが言う。私は、間違っても何か見てしまわないように、ぎゅっと目を閉じていた。
「……もういいぜ。他の連中はいねーよ」
 ぽんと、肩を叩かれたような気がした。
 恐る恐る、目を開ける。
 ……と。
「なんでっ! そんなところにいるのぉっ?」
 すぐ目の前に、夕樹くんの顔があった。二十センチと離れていない。まるで添い寝でもしているような体勢で横になった夕樹くんは、ベッドの上ぎりぎりのところに浮いていた。
「だって、そういう意味なんだろ? 他の連中を追い出して、二人でお楽しみ……と。里子って顔に似合わず積極的だな」
「な、なにバカなこといってるのよっ!」
 まだ中学生で、それも幽霊のくせに。
 だけど、真っ赤になって怒鳴った後で気づいた。
 この、夕樹くんの笑み。
 からかわれたんだ。
 異性に慣れていない年上の女性をからかう、マセた男の子って構図。
「里子ってば、単純」
 けらけらと笑っている。
「う、うるさいわねっ! 純真って言ってよ!」
 怒りと恥ずかしさで頭に血が昇って、六つも年下の子に名前を呼び捨てにされたことを注意する余裕もなかった。
 だから、気づいたのはずっと後になってからだった。
 あの「他の人たち」のことも、夕樹くんが私をからかっただけなんだって。


 その夜は、美少年の幽霊に添い寝されるという二重に不慣れな状況のために、私はいつまでも寝付けなかった