都会、と大抵の人が呼ぶ街の中枢よりわずかに外れた場所。雑踏の鼓動が閉められた薄いカーテン越し、雨音とともに聞こえてくる窓際。夕刻過ぎから降りだした雨はやむことを知らず、夜も更けた今の時刻でさえも降り止む気配はない。
　ちょっと古そうなマンションの、五階の一室。そこに、彼女はいた。
　ワンルームの部屋の中、窓際に置かれた小さなシングルベッドの上に足を崩してぺたんと座り。雨の降る外の気配を感じられる窓を見つめていた少女は、毛布を羽織ったままで小さな溜め息をつく。
　けれどその溜め息は、意外に響く雨音に掻き消されてしまった。少女の気持ちからしてみれば、今夜は自分の溜め息を聞いていたい気分だったのに。
　それが何より、いまの自分の存在を肯定してくれそうで。
「…はい。これでも飲んで、あったかくなって」
　と、その少女の側にいつのまにか、彼女よりも若干年上そうな女性が両手にひとつずつのカップを持って立っていた。
　ポニーテールの髪を解きかけの彼女は二十代前半、といった雰囲気で、活発でいて、どことなく親しみが沸く優しそうなタイプに見える。スタイルは平均的、といった感じでも着ているのがラフな部屋着なので、それはどこか色っぽく感じられた。
「すいません…」
　ありがとうございます。そう言おうとしたはずなのに、自分の口からは何故かその言葉が零れてきて、少女は自分でも戸惑いつつ、カップを受け取った。
　ちょっと大きくて持て余してしまうカップの中には美味しそうなココアが湯気をともない、甘い香りで少女の乾いていた喉を優しく誘っている。
「あの、それじゃ……いただきます…」
　少し濡れた長めのストレートの髪が綺麗な十代半ば、という感じの少女は、ベッドに腰掛けてきた女性に対して呟くように言い、そしてココアを口元に運んだ。
　やんわりと暖かくもまろやかな味が、喉を通して全身に伝わっていく。疲れていた体には甘い飲み物が嬉しくて、少女はカップから口を離すと大きく息をつき、深く呼吸をするようにココアの香りを全身に取り込んだ。
「…意外にいいとこのお嬢様なんでしょう。フンイキが、そんな感じする」
　自分は砂糖の少ないコーヒーを飲みながらポニーテールを完全に解いた女性は、どう見ても年下の少女を見守るような視線で見つめつつ、問い掛けるように呟く。
「あっ、あの…あたしは…」
「別に無理して喋らなくてもいいわよ。私はただの物好きで、雨に濡れてる貴方を助けただけだから。洋服が乾いたら、きちんと返してあげるしね」
　女性はどう反応すればいいのか迷っている少女に対してそう告げると、続けて。
「私の名前は里奈っていうのよ。だから、気にせずにそう呼んで」
　と、名前だけを明かす。
　彼女、里奈にしてみれば、べらべらと何から何まで喋るよりも、こうして名前だけを話してあとは明かさないほうが、少女にとっても負担になりにくいと考えたのだろう。
　そして、それは当たっていた。
「あたしの名前は………真奈美、です…」
　うつむき、そしてそれだけをようやく、といったふうに呟く少女。
　彼女は少し躊躇したものの、自分も名前だけは告白してくれた。



　少女、真奈美が里奈に見付けられたのは夜の小さな公園。かなりの量の雨が降りしきる中、遊ぶ人など誰もいないその公園の外灯の下のベンチに、思い詰めた、というよりも、どこか意識の消え失せている、と表現したほうが似合っている真奈美が座っていた。
　真奈美を見付けた里奈は、彼女は彼氏との約束でもすっぽかされたのか、それともふられたか、と何となく思ってしまう。
　とくにこれといって荷物を持っていなかったし、それに控えめとはいえ、お洒落な格好をしていたから。
　そして少しだけ立ち止まっていた里奈の自分を見つめる視線に気付いたのか、真奈美は里奈のほうへ振り向いた。里奈が、彼女の雨に濡れる事でより際立つ艶っぽい可愛らしさに少しだけ心を動かされたとき、真奈美はそれに拍車を掛けるように微笑んでくる。
　それはとても綺麗な笑顔だったけれど、それ以上に、どこか淋しそうだった。例えるなら、捨てられた子猫が自分の現状を理解しないまま、道ゆく人を見上げては小さな鳴き声を響かせているような、そんな雰囲気で。
　だから里奈は、行く当てもない捨て猫を拾うような気持ちで、彼女に傘を差し掛け、静かに声をかけた。
　行くトコないなら、うちにくる…？
　始めびっくりした様子だったが、すこし経ち、少女は小さく、こくんと頷いた。



「ココア、美味しかった？」
　子供の頃は苦いとしか思わなかった液体を飲み干し、里奈が真奈美に問い掛ける。
「あ、はい。すごく…」
「そう」
　綺麗に飲み干されたカップを受け取り、里奈は嬉しそうに微笑んだ。今日初めて逢った名前しか知らない少女からとはいえ、誉められて決して悪い気はしない。
「お腹も空いてるんじゃない？　遠慮しないで、要望があったらいってよね」
　狭いワンルームの部屋の小さなキッチンの流しにとんとん、と二つのカップを置くと、里奈は背が低くて曲線が多く使われた可愛いデザインの冷蔵庫のドアを開ける。
　その中はきちんと整理されていて、自炊しているのが一目瞭然だった。
「…私はまだ夕食を食べてなかったから、遠慮なく」
　壁に掛けてある時計の長針は、もうすぐ十時を示す。里奈は冷蔵庫の中からごそごそと野菜などの材料を取り出すと、適当に選んだそれを流しの脇に置いた。
　側に掛けてあるエプロンを身につけ、そしてそこで一度、少女に振り向く里奈。
「リクエストある？　材料の条件さえあえば作ってあげれるけど」
「えっ…？　あ、あの…あたし、お腹は空いて…」
　そこまで言い掛けた時、真奈美のお腹の虫がきゅるる、と可愛く鳴いた。思わず頬を桜色に染め、真奈美は恥ずかしさとその頬を隠すためにうつむく。
「…真奈美ちゃん、リクエストは？　こう見えても、お姉さんは料理上手よ」
　悪いとは知りつつも、里奈はくすくすと笑いながら問い掛けた。真奈美はしばらく黙り込んでいたが、里奈の視線がいつまでも自分を見つめていることが判っていたので。
「あの、暖かいものなら何でもいいです…」
　おずおずと、遠慮がちに呟いた。
「そうそう。若い子は、素直なほうが可愛いわよ」
　里奈は軽く腕まくりしながら、遅くなった夕食の支度を始める。材料を選び、野菜などを包丁でリズムよく無駄なく切り、里奈は大きな鍋を棚の中から取り出した。
「ご飯炊いてる時間がないからパスタにしちゃうけど、苦手なのとかある？」
　手は動かし、真奈美に背中を向けたままで里奈が問い掛ける。
「いえ、とくに…」
「それは結構。食べ物の好き嫌いは、意外に美容の敵なのよ」
　真奈美が答えると、里奈は言いながら切り分けた野菜や鶏肉をてきぱきと鍋に入れて炒めていった。
　料理にいかに慣れているか、それは動作の素早さと無駄のなさで判る。その点で、里奈は充分に合格点といえた。二つある電熱式のコンロの片方で野菜などを炒めつつ、里奈はもう片方のコンロにも水を注いだ鍋を置く。
　鍋の中にひとつまみの塩と、そしてわずかにオリーブ油を零す。袋から取り出した長めのスパゲティーをぱきん、と二つに折り分けて鍋の中に入れると、沸騰してきたお湯の中で、それは踊り始めた。
「…っと、このぐらいかな」
　片手でエプロンを外しつつ、大体の準備を終えた里奈は壁に立て掛けてある小さな折畳みのテーブルを持ってくると、部屋の中央に設置した。
　ワンルームの部屋では、場所を上手に節約する事で住みやすくなる。その見本だ。
「ここで食べる？　それとも、そっち？」
　料理の準備をしている自分をずっと見つめていた真奈美に、里奈が声を掛ける。
「ベッドで食べたければそれでもいいわよ。行儀は良くないけど」
「あ、テーブルで食べます」
　羽織っている毛布をベッドの隅の方に置いて、真奈美はベッドから降りた。
　彼女の服装は、裾の長い黒のジャンパースカートと、アンダーに白のブラウス。もちろんこれは里奈が用意してくれた物なので、どちらもサイズが大きく、ちょっとぶかぶかしている真奈美の様子が可愛らしい。下着も胸のカップのサイズが合わなかったので、飾りっけのないキャミソールの揃いを里奈が選んでくれた。
　ちなみに着替えの時は、仕切りなどないワンルームの部屋の中で、里奈は真奈美に対して背中を向けて待っていてくれた。
「ひゃ…」
　フローリングの床に素足で触れたとたん、その感触の冷たさに、真奈美は思わず声を零す。すると、里奈がすぐにクッションを差し出してくれた。
「はい、そこに座って待っててね。今すぐ用意するから」
「すいません…」
　真奈美は呟き、クッションの上に足を崩して座る。大きめのクッションは、そんな体勢で座っても充分な余裕があった。
　そして間もなく、テーブルの上には二つのお皿とフォークが並ぶ。おそらくはトマトであろういい香りが、真奈美の空いているお腹を擽ってきた。
「飲み物は何にする？　例によって遠慮は無用だから」
　グラスを二つテーブルの上に置き、里奈が冷蔵庫の前から真奈美に問い掛ける。
「あの、なにがあるんですか…？」
「えっと……ごめんね、烏龍茶と缶紅茶ぐらい……かな、未成年が飲めるのは。私ってお酒好きだから、アルコール系なら各種いろいろとあるんだけど、ね」
　真奈美に対してちょっと苦笑しつつ、里奈が答えた。
「…で、何がいい？　私はそう云うトコに気にしないから、遠慮せず言って」
　里奈がそう付け足すと真奈美はちょっと迷っていた様子だったが、少し経ってから小さな声で。
「…じゃあ、何かオススメがあったら…」
　と、呟く。
「了解」
　真奈美の言葉を聞いた里奈は、嬉しそうに笑うと何も取り出さずに冷蔵庫を扉を閉め、そしてキッチンの下の棚から丁寧に一本のワインを取り出してきた。
「…これはホントに秘蔵の品よ。なんたって知り合いが来ても見つからないよう、保管を兼ねて隠しておくくらいだもの」
　里奈は真奈美にくすっと微笑み掛ける。
「あの、いいんですか…？　そんな大切なワイン…」
「いいのいいの。お酒っていうのはね、眺めるものじゃなくて飲むものなのよ」
　それから里奈は雰囲気がないからと、テーブルに出していた普通のグラスを片付け、口が狭くなっていて香りが楽しめるようになっているワイングラスを二つ用意。とっておきのワインのコルクを抜き、里奈は綺麗な液体をグラスに半分ほど注いだ。
「…じゃ、食べましょう」
　何度か飲んで残りも少なくなってきたワインもテーブルの上に置き、里奈はようやく、といった感じで自分もクッションの上に腰を降ろす。
「何か音楽欲しい？　私ってテレビをあんまり見なくて置いてないから、コンポは性能がいいやつがあるけど。洋楽も邦楽もある程度は揃ってるわよ」
　ベッドの側、部屋の隅に置かれた大きめのコンポを指差し、里奈が言う。
　と、真奈美は首を左右に振った。
「…今日は、雨音を聞いていたい気分なんです…。だから、音楽は…」
「いいわよ。…真奈美ちゃんに、任せる」
　真奈美の言葉を聞いて、里奈が呟く。
「ロマンチストなのね、真奈美ちゃんて」
「そんなんじゃないですけど……雨って、子供の頃から好きなんです…」
　からかう意志が微塵も感じられない里奈の口調に対し、真奈美はちょっと恥ずかしそうに呟いた。そんな表情を見て、里奈は彼女に気付かれないよう小さく微笑む。
　それは、じゃれてくる子猫を見ているような笑顔だった。
「それじゃ改めて、いただきましょっか」
「はい」
　里奈のどこか嬉しそうな声に誘われるように、真奈美もそう言ってからフォークを手にとった。ワンルームで一人暮らしの場合、自分の部屋では、飲み会ならばともかく、きちんとした食事となると二人以上の人数で過ごせることは意外と少ない。
　いくら手のこんだ料理を作っても、たくさんの人数で食べるという行為には勝てはしない。里奈の嬉しそうな声の原因は、そこにあるのかもしれなかった。
「…うん、急いで作ったにしてはなかなか。どう？　美味しいかな、真奈美ちゃん」
　トマトをベースにして色々な野菜で味を膨らませ、鶏肉で全体をまとめたソースは美味しく、何よりもパスタという素材に合っている。あらかじめ二つに折られているスパゲティーは口元に運びやすく、小分けすることでとても食べやすかった。
「あの、美味しいです」
　真奈美も微笑み、そしてそのグラスの中身の正体をすっかり忘れたまま口をつける。
「んっ…！」
　思わず驚いて、真奈美は赤のワインを吹き出しそうになった。それを見ていた里奈は、思わず、といった様子でくすくすと可笑しそうに笑う。
　その彼女の笑みの中には、グラスに注がれているのがワインだという事を忘れてしまうほどに真奈美がリラックスしていたのが嬉しい、という意味も含まれていた。
「その様子だとアルコールは初めてか…。最近の若い子にしては優等生なのね、真奈美ちゃんて。…私なんて、お酒の味を知ったのは中学上がった時だったけど」
　ちょっと悪戯っぽく微笑んで、里奈はワインのグラスに口を付ける。
「学校とかでもそう云うのって話題になるものね。いろんなことに興味があって、それを自分で試したい……ってお年頃」
　くすっと笑い、里奈はちょっとむせていた真奈美を見つめた。真奈美はその視線に気付くと、ちょっと恥ずかしそうに照れながら、それでももう一度ワインを飲む。
　今度は、驚きもしなければむせ返りもしなかった。
「美味しいでしょ？」
「……」
　無言のまま、けれど真奈美はしっかりと頷く。それを見た里奈は満足そうに自分も頷いたが、それから冗談っぽく笑った。
「初めてがこんな良いお酒だと、将来は酒豪か酒乱になっちゃうわよ、きっと」
「そう、ですか…？」
「多分ね。だって私がそうだもの」
　真奈美が少し心配そうに聞き返すと、里奈はおどけて頷く。それを見た真奈美が思わず声を出して笑うと、里奈も同じようにくすくすと微笑んだ。



「やっぱり寝ちゃったか…」
　買い物のため、部屋に真奈美を一人残してちょっと遠くのコンビニエンスストアまで出掛けていた里奈は、帰ってきてすぐ、自分のベッドに寄り掛かるようにして眠ってしまっている真奈美を見付けた。
　それは里奈にしてみれば、予想していた出来事だった。
　テレビがなく、変化のまるでないワンルーム。テーブルは片付けられ、部屋にはベッドとコンポと冷蔵庫と、衣服の収納されているチェストにごみ箱と数冊の雑誌に文庫本、そして留守番電話があるだけ。その他にはほとんど何もない部屋は、娯楽に慣れてしまっている若い少女が何十分と待っているには、あまりにも退屈な空間だった。
　それに里奈の感じていた真奈美の印象どおり、彼女はいくら当人の許可があっても他人の部屋の物を勝手にいじくれる性格ではないようで、何もかも、里奈が出掛けたときとそっくりそのままの配置で置かれている。
　そして真奈美は、お世話になった人の部屋から無断で逃げ出そう、なんて事は考え付かない性格らしい。
「お酒、初体験じゃしょうがないわよね。疲れてたみたいだったし…」
　わずかに雨に濡らされたハーフのコートを玄関側の収納式クロークの中にしまい、里奈は音をたてないように注意しながら、買ってきた物を冷蔵庫の中に簡単に閉まいこむ。
　買ってきたのは真奈美の飲めそうな飲料関係と、明日の朝に食べようかな、と思って選んできた何種類かのパンが主な物。あとは、たまに買う週刊誌が一冊。普段は帰りに寄って買うのだが、今夜は真奈美の事があったために今、買いに出掛けていた。
「…せっかく雨の中から拾ってあげたんだから、風邪はひかないでよね」
　小さく囁き、里奈は真奈美の体にそっと毛布を掛ける。わずかに真奈美が寝言を呟いたような気がしたが、里奈は気にしなかった。
　寝言とは云え、それは個人のプライバシーだから。無意識であるからこそ、聞かれたくないことでも零してしまう。それが寝言だと里奈はよく知っていた。
　壁の時計に目をやると、あと四十分ほどで時計の針は明日になろうとしている。普段ならばシャワーを浴びて寝衣に着替え、音楽を聞きつつ本でも読んでいる時刻。
「……うるさくしなきゃ大丈夫かな」
　里奈はちょっと思案してから、寝衣とバスタオルを静かに用意をした。そしてカゴの中に自分の着ていた洋服と下着を脱ぎ入れてから、ユニットバスの温度調節パネルのスイッチを入れる。パネルの小さなランプが付いたのを確認してから部屋の明かりを消して、里奈はユニットバスのドアを開けて中に入っていった。
　しばらくして、シャワーの音が聞こえてくる。その音に呼応されるみたいに、真奈美はかすかに寝返った。かけられた毛布が擦れ合って、そしてまた寝返る。
「…んっ…」
　寝言が零れて、真奈美は薄く目蓋を見開いた。照明の落とされた薄暗い室内には月明かりもなく、壁のパネルの緑色のランプだけが光っている。
「あ…れ…？」
　そして何気なくもう一度眠ろうとして、真奈美は目の前の状況が普段と違うことに気が付いた。物の配置よりも以前に、肌に触れる部屋の空気の雰囲気が違っている。
「……あ、そうか…。あたし…」
　呟き、真奈美は自分に掛けられている毛布をそっと払い除けた。シャワーの音がしていることからも、里奈が帰ってきている事は容易に判断できる。おそらくはいつのまにか眠ってしまった自分に、買い物から帰ってきた彼女が毛布を掛けてくれたのだろう。
　そう思い、薄暗い部屋のなかでは歩くのは危なそうだったので、照明のスイッチの場所もよく判らない真奈美は、ベッドに寄り掛かったまま、里奈が出てくるのを待った。
　じきにシャワーの音が消え、ちょっとしてから里奈が濡れた体にバスタオルを巻いただけ、という姿でユニットバスのドアを開けて現われる。髪の毛を片手に持ったタオルで少し乱雑に拭きつつ、里奈は部屋の明かりをぱちっ、と付けた。
「あ、起こしちゃった…？」
　里奈はマットで軽く足を拭くと、毛布を簡単にたたんで座り、自分の事を見ている真奈美の側に歩み寄る。素肌がまだ汗と水滴に濡れていてどことなく艶やかな里奈が自分に近寄ってくるので、真奈美は自分でも無意識に身構えてしまった。
「ごめんね。シャワーの音、うるさかったかな？」
「あっ、いえ…」
　真奈美の顔を覗き込むようにちょっと屈みながら里奈が問い掛けると、簡単に止められていたバスタオルが少しはだけ、彼女の胸の谷間が真奈美の瞳に映る。
　何故だか恥ずかしくなって、真奈美は思わずうつむくように顔を伏せた。
「ごめんなさい、あたし、眠っちゃってたみたいで…」
「いいのよ、そんなこと気にしないでも。部屋の中の物は好きに使っていいし、いじくってもいいって、買い物に出掛ける前に言っておいたでしょ？」
　里奈は言いながら軽く背伸びをして、ほとんど水分を含んで役に立たなくなった髪の毛を拭いているタオルを部屋着を脱ぎ入れたカゴのなかに放り投げる。
「…そうだ、真奈美ちゃんもシャワー浴びたら？　ユニットバスだけど気持ちいいよ」
「いえ、あたしは…」
「そう？　そう言うなら、無理強いしないけど……」
　言いつつ、里奈は全身を隠す役目をしていたバスタオルも外した。
「あっ…」
　いきなり目の前で全裸になられ、真奈美は一瞬だけ里奈の体を直視した後、まるで思い出すようにして彼女に対して背を向ける。
「あ、あのっ、ごめんなさいっ」
「…？　別に謝ることないじゃない、同じ女同士なんだから」
　里奈はさも可笑しそうにくすっと微笑むと、簡単に体を拭いてから、用意しておいた下着を指先で引っ掛けるようにして取った。その間も、真奈美はずっと里奈に対して背を向けている。
　里奈はてきぱきと寝衣を着ながら、先程からずっと微かに震えている真奈美の肩を見つめ、やっぱりこのぐらいの年頃の子は可愛いところだらけね、なんて心の中で呟いた。
「…その様子だと、少なくとも家族構成にお姉さんはいないでしょう？」
　ほとんど着替えの終わった里奈は、あえてその事を告げないで真奈美に問い掛ける。
「えっ？　どうしてですか…？」
「だってそのぐらい年頃って、同年代の女の子の裸を見る機会はあっても、年上の裸となると温泉や銭湯とか行かないかぎりはなかなかないもの。さっきの照れ方からすると、真奈美ちゃんは年上の女性の裸を目の前で見たのって初めてでしょ？」
　里奈の言葉を聞いた真奈美は、里奈に背中を向けたままで小さく頷いた。
「あたし、一人っ子なんです…」
「そっか。じゃ、私と一緒ね。……あ、それと着替えはもう終わってるから、振り向い
ていいわよ、真奈美ちゃん」
　里奈は言って、冷蔵庫からさっき入れたばかりでまだ少し冷えていない甘い系の、いわゆる女性をターゲットにして売り出されている小さめの缶のお酒を取り出した。
「飲む？　さっきのワインじゃまだホロ酔いでしょ？　買ってきておいたんだけど」
「あ、あの………はい」
　真奈美がちょっとだけあって頷くと、里奈は満足そうに微笑んだ。
「そうそう、女の子は素直が可愛いのよ。多少ワガママでも」
　自分はビールの缶を取り出し、そして肘で小突くように冷蔵庫のドアを閉める。里奈はそれから普通のグラスを棚の中から取り出して、床の上に直接置いた。
「缶ビールはね、そのまま飲むよりこうしてグラスに注いだほうが美味しいの」
　ベッドを背にする真奈美のちょうど正面に座った里奈は、プシュ、という音を響かせてビールをグラスに注いでいく。
　真奈美は里奈から受け取った小さな可愛いデザインの缶を両手で持ったまま、その様子をじっと見ていた。
「ホントはね、グラスも冷蔵庫で冷やしておいたほうがいいんだけど…。…ん？　真奈美ちゃんも、ビールの方が良かった？」
　その視線に気付き、里奈が問い掛ける。
「いえ、そんな訳じゃなくて…」
　小さな缶を両手で包むようにして持っていた真奈美は、しばらく思案するようにうつむいてから、ゆっくりと顔をあげた。
「…どうして、今日逢ったばかりのあたしにここまでしてくれるんですか？」
　この部屋へと里奈に連れてきてもらってから、ずっと真奈美の胸の奥につかえていたもっとな疑問が、ようやく、といった感じで口から零れる。
　そんな彼女を見つめる里奈の瞳は、どこか冷たくて、淋しそうでもあった。
「……。理由なんて、いると思う…？」
　グラスのビールを半分ほど飲んだ里奈は、床にグラスをコン、と置いてから少し黙って間を開け、そう呟く。それは、今まで真奈美の聞いてきた里奈の言葉の中では、もっとも突き放すような口調をしていた。
「放っておけなかったから……じゃ、都合悪いかな？」
　里奈は自分の言葉で真奈美が幾らか傷ついたのが判ったので、改めてちょっと明るく言ってみる。真奈美は少しうつむいていたが、顔はあげず、そのまま話しだした。
「…あたし、確かに帰りたいと思う場所がなくて、それであの公園でずっと座ってて…。これからどうしようって考えて、それでも答えが全然見えなくて……そんな時に貴方に声を掛けてもらって…。驚いたけど……でも正直、とても嬉しかったんです…」
　真奈美の声が次第に震えていくのが手に取るように判っても、里奈は決して慌てない。
　慰めるだとか、フォローするとか。自分がそういう事をすることで、真奈美を今の状況よりもさらに追い詰めてしまう事を、里奈はよく知っていたから。
　だからただ黙って、里奈は必死に『何か』を話そうとしている真奈美を見守った。
「…部屋まで連れてきてもらって、濡れていた洋服と着替えのお世話をしてもらって…。それに食事やココアや……大切な赤ワインまでごちそうしてもらったのに、あたしには何もお返しできる事がないんだなって……それで…」
　とつとつと喋る真奈美の様子はまるで、悪戯を叱られて反省する子供のようだった。里奈は彼女に気付かれないよう、溜め息をつくように小さく微笑む。
　その笑顔は、しょうがないな…、という表情をしていた。
「…真奈美ちゃんさ、子猫…って拾ったことある？」
「えっ…？」
　話題をいきなりにすり替えられ、真奈美は驚いて顔をあげる。その頬が少しだけ濡れているのを見付けた里奈は、それに気付かないふりをして、もう一度問い掛けた。
「だからね、子猫を拾ったことある？　って聞いたの」
　里奈の問いに、真奈美は小さく、黙って首を左右に振る。
「じゃあ、子猫を飼ってた事は？」
　里奈の再度の問い掛けに対する真奈美の答えも、先程のものと同じだった。と、里奈はくすりと微笑み、そして右手を伸ばして真奈美の髪を撫でる。
「…私にとっての今日の真奈美ちゃんは、子猫みたいなものなのよ」
「あたしが、子猫…？」
「そう」
　真奈美が半信半疑、といったふうに首を傾げつつ聞き返すと、里奈は大きく頷いた。
「…ただ、洋服を着ていて人間の言葉を喋れる、っていう違いだけ。あとは、可愛い子猫と真奈美ちゃんは大差ないの。拾ってきた子猫に食事をあげたりするのは、当然の義務だもの」
　言いつつ、里奈は真奈美の髪から離れた右手でグラスを持ち、そこに残っているビールをゆっくりと飲み干す。空になったグラスを目の前に持ってきて、里奈はそのグラス越しに真奈美を見つめた。
　微かに湾曲された真奈美の姿が、グラス越しの里奈の瞳に映る。
「…昔話になっちゃうけど、私ね、もうずっと前の頃に公園で子猫を拾ったことがあったのよ。…そうね、今の真奈美ちゃんよりか何年も前。小学校の……低学年だった頃」
　自分の顔を見つめられて話すよりは、真奈美の気持ちが楽になる。里奈はそう思って立ち上がると、部屋の明かりを消してから、真奈美の正面から彼女の右隣に座りなおし、そのまま背もたれの代わりに後のベッドへと寄り掛かった。
　里奈が背伸びするように見上げると、そこには見慣れた白い天井がある。里奈はそれを見つめつつ、少しおぼろげだった子供の頃の記憶の輪郭を思い出しながら話し始めた。
「…今日みたいに雨の降る寒い日にね、学校帰りの道の脇にある砂場と滑り台しかない小さな公園の、外灯の下にあるベンチの下。よほど用心深く下を見て歩いてないと見つからないような場所に、雨に濡れてぐにゃぐにゃになった段ボールの箱があったの。小学生の頃は背が低いじゃない？　それに傘をさして下を見て歩いてたから見付けられたような感じで。…その段ボールにはたまたま、あるお菓子の名前が書いてあってね、私って当時から食い意地だけはあったから、すぐにその段ボールの所まで駆け寄っていったのよ」
　当時の自分の行動が可笑しいのか、里奈は言いながらもちょっと笑った。
　そんな里奈の横顔を見つめていた真奈美は自分もベッドに寄り掛かり、そして、まだ降り続く雨音の中で語られる里奈の話に、耳を傾ける。
「…それで、当然のようにその濡れた箱を開けるでしょう？　…そうしたら、その中には寒そうに身を寄せ合っている二匹のチャトラ模様の子猫と、山盛りのにぼしが入ってたのよ。…私はその二匹の子猫に一目惚れしちゃってね、それで自分の着ている洋服が昨日買ってもらったばかりと云うことも忘れて、その子猫を雨で濡れてる段ボールごと抱えて必死になって家まで走って帰ったの。…そしたら、母親はなんて言ってきたと思う？」
「…どこで拾ってきたの？　ですか…？」
　真奈美が自信なく答えると、里奈は小さく笑って頷く。
「そう、まさにその通り。すっごい剣幕で、今すぐそんな子猫捨ててきなさいっ！　ってね。…でも、母親の命令とは云え、箱を開けると不安そうな表情でミィミィ鳴いてる子猫がいる訳じゃない？　それをこんな寒い雨の日にもう一度捨ててくる、なんて事が出来なくてね、結局は庭の物置の中で飼うことにしちゃったの。もちろん、親には内緒で。オスとメスが一匹ずつだったから、チャトラ模様からとってメスがチャーちゃんでオスが虎之助。いかにも子供らしいセンスでしょ」
　里奈が可笑しそうに笑ったので、真奈美もつられて微笑んだ。それから軽く呼吸をすることで一拍の間をおいてから、里奈はまた話を続ける。
「…でも、そんな子供の浅知恵なんて親が気付かない訳ないでしょ？　こっそり台所に忍び込んで牛乳とかを拝借する、なんて事を毎日やってたからすぐにバレるの。…でもね、うちの両親は優しくて、ずっと知らないふりをしてくれてた。…それで、そんな微妙な間合いの取り合いが二週間ぐらい続いた頃だったかな。朝、チャーちゃんと虎之助にミルクをあげにいってみると、虎之助の方が冷たくなって動かなくなってた」
「…！」
　真奈美の息を呑む音が聞こえてきたので、里奈は気遣って少し間をあける。
「…私ったらそれで気が動転しちゃって、親に隠れて飼ってることも忘れて母親に泣き付いたの。どうしよう、虎之助が動かなくなっちゃった、って…。母親は泣いてる私を慰めたあと、冷たい虎之助と、不思議と虎之助に寄り添って離れようとしないチャーちゃんの二匹、それに私を、ちょっと遠くの動物病院まで連れていってくれた…。子供の頃の記憶だから病名とかは覚えてないけど、なんでもチャーちゃんと虎之助の二匹は、生れ付きに体の弱い子猫だったんだって…。だから捨てられたんだろう、って獣医さんが言ってたのだけは、不思議とよく覚えてる…」
「……」
　里奈に何か言おうとするけれど、言葉を見付けられない真奈美。
　そんな彼女に気付いているのか、里奈はそこで呼吸をするように、小さく笑った。
「……そのあと、結局チャーちゃんも虎之助を追うように冷たくなってね、二匹は保健所の車に乗せられて行っちゃったの。私はその車をずっと見送って、二匹はいつ戻ってくるの？　って言って母親を困らせてた…」
　そこで言葉を区切ると、里奈は大きく背伸びをした。そして寄り掛かっていたベッドから離れ、真奈美に顔を覗き込む。
「…私が真奈美ちゃんを拾ってきたのは、放っておけなかった、っていうのが本当に本当の理由よ。…でもね、後悔したくない、っていうのも理由のひとつなの」
　いきなりに薄暗い中で目の前に迫ってきた里奈の綺麗な瞳に見つめられ、真奈美は一瞬だけれど言葉を失った。
　吸い込まれそうな瞳が、そこにある。
「どうしてあの公園にいたとか、そんなことは関係ないの。ただあの時に声を掛けておけばよかった、って部屋に戻ってきてから後悔したくなかっただけ」
　里奈は言いながら立ち上がると、明かりのない部屋の中、チェストからほとんど手探りに近い状態でなにやら取り出した。
「…さ、もう寝ましょう。これ、貸してあげるから」
　里奈が真奈美に差し出したのは、赤地に白と黄色のタータンチェックが入っている一着のパジャマだった。
「それね、緊急用のやつなの。私の部屋って酔っちゃった知り合いの駆け込み寺になることが多くて、それでいつの頃からかそのようなパジャマが常備されているのよ」
　くすっと笑い、里奈はまだ開いていないお酒の缶を持っている真奈美を見下ろす。
「…それから、一度受け取ったものはちゃんと飲みましょうね」
　里奈からちょっと意地悪な口調でそう言われ、真奈美は慌てて持っていた缶を開けるとその中身を一気に飲み干す。初心者が一気に飲むにはちょっときつかったらしく、真奈美はちょっとむせ、しゃっくりをしながら、それでもなんとか立ち上がった。
　その頬が明らかに火照っている様子が、薄暗い中でも見て取れる。
「…シャワー、浴びてくる？　さっきみたいに着替えるときは背中向けててあげるし
タオルとかも用意しておくから」
「…はい」
　今度は素直に、真奈美は里奈に対して頷いてみせた。



　ユニットバスに入ってシャワーを浴びていると、少し冷たいシャワーの水滴が火照ってしまった頬に気持ち良く。真奈美はしばらく壁に寄り掛かると、目蓋を閉じていた。
　胸の奥のなにかが、里奈の言葉によって柔らかくなるのを感じながら。