■ レインタクト 第1幕<1>[改定版]
水瀬 拓未様


 遅咲きだった桜が、まだ少し残る季節。学園付属の学生寮である【鈴蘭】から外を見ると、まだ小雨がぱらついていた。仕方なく傘立てから、青い傘を取り出す。
「この雨で、桜も散っちゃうかな…」
 学園までの、ほんの数分。水溜まりを避けて歩く道で、少女は不意に立ち止まった。
 聞こえてくる雨音と、傘に伝わる雨粒の微かな重さが何より気持ちを曇らせる。憂欝に似ているけれど少し違う気持ちが生まれてくるのは、昨日の夜から降り続いているこの雨のせいかもしれない。


 雨の日は、美優を思い出す…。


「……」
 自然と溜め息が唇から零れると、彼女はそれをとめられなかった自分に対して、また溜め息をついてしまう。
 いつもより長く感じる数分の道程の末、ようやく辿り着いた人影のまばらな、少し朝早い高等部の昇降口。ぼんやりとした感覚の手のひらで今まで自分を雨から守ってくれていたアクアブルーの傘をつぼませ、彼女はそれを傘立てに立てた。
「おっはよっ、芹菜」
「あ、おはよ」
 雨に濡れた革靴から上履きに履きかえていたら、クラスメイトで親友の加島咲紀がいつものように明るい声で挨拶してきたので、彼女は生返事でそう答えた。
 桜野芹菜、十六歳。中等部と高等部のある私立花梨女子学園の高等部二年に、この春あがったばかり。C組在席で、図書委員であり文芸部所属。
 腰までよりやや短く、ゆるく波を作っている綺麗な髪に、ぱっと見には鋭そうだけれど実際は優しい茶色の瞳。背丈は低からず高からずで、運動が好きなためか適度に引き締まった伸びやかな肢体。
 美少女、と呼ばれるタイプではなくて、どちらかと云えば美人、という言葉のほうが似合うかもしれない少女。
「どしたの? 元気ないね」
 そんな芹菜の気のない返事に対してそう呟いた咲紀は、二本の三つ編みに結った髪の毛を頭の上の方でお団子にしてリボンで飾っている。瞳の方は生まれたばかりの子猫のような、そんな人懐っこい雰囲気があって、それは少し幼い顔に合っていた。
 それなのに身体の方はというとスタイルがそこそこのモデルよりいいものだから、周囲の友人からは顔と身体がアンバランスだと言われる。けれど本人は、そのアンバランスさが気に入っている様子だ。
 ちなみに放送委員で、料理部所属。
「…今日、雨が降ってるから」
 そんな咲紀にそう答えて、芹菜は濡れている革靴を下駄箱にしまいこむ。
「あっ、ごめん…」
 彼女が雨の日にはある少女の事を考えてしまうという事を思い出して、咲紀が咄嗟に謝る。すると芹菜は、軽く首を振った。
「いいの、咲紀に悪気がないのは知ってる。…それにいつでもそやって明るいトコ、いくつ助けられたかわかんないよ」
 自分に困った笑みを見せている咲紀にそう言って、芹菜は下駄箱を閉める。
「…一足先、教室に行ってるから」
 それから細く微笑み、芹菜は高等部校舎の三階にある自分の教室に向かった。
「……」
 そんな芹菜の背中を見つめ、さっきの笑顔が演技であることに咲紀は気付いている。
 芹菜は自分が落ち込んでいる所を人に見せたがらない。人に余計な詮索をされたり、自分なんかを心配してほしくないから、といつだったかその理由を咲紀に打ち明けてくれたことがある。
 芹菜と咲紀の二人は中等部入学からの付き合いで、クラスもずっと一緒だったので仲が良い。相手の思考パターンが読めるといっても、それは決して過言ではない位に。
 去りぎわの演技の笑顔も、咲紀にしてみれば、それが芹菜なりの優しさだと判る。
 本当の自分を、滅多に見せない芹菜。
 そしてそんな彼女の本当の姿を、もっと知りたいと思っている咲紀。
 けれど芹菜は、いつもぎりぎりのラインを越えそうになると独りになろうとする。
「…あたしなんか、いつもこんな調子だもんね。頼りたくても頼れない、かな…」
 らしくなく考え事をしていた自分をふっきるように、咲紀は外を見つめた。
 芹菜の印象が変わったのは、あの日の夜からだったな、なんて思いながら。
「雨、かぁ…」
 それを告白されたとき、一瞬胸が弾けそうになったのを咲紀は今でも覚えている。
 芹菜と、そして彼女の妹である美優がどういう関係であったのか、それを彼女自身の口から聞いたときの胸の鼓動を。



 ちょうどこの位の大きさの粒の雨で、季節は今より春に近い頃。嫌でも憶えているその日の朝食はバターたっぷりに砂糖を少しのトースト二枚と、綺麗な丸の目玉焼き。
 それを作ってくれたのは、家事が大好きで早起きが特技だと笑ってた美優。
 血のつながりのない、芹菜の妹。
 芹菜の母親は、芹菜が六歳の時に病気で他界した。父親は有能な弁護士であったために金銭面での支障はなかったものの、芹菜が家事をこなせるようになると職業柄の忙しさも手伝って父親は家に居ることが少なくなり、その為に芹菜は孤独に慣れて育っていく。
 そして、そんなある雨の日、美優は養女として六歳で、桜野家にやってきた。
 当時八歳だった芹菜は父親に美優を引き取った理由を尋ねたが、お前も淋しいだろうから、と曖昧な返答しかもらえなかった。
 雲のように白い肌と、肩に付くくらいまでのふんわりとした髪。そして、切ないほど淡く染まっている瞳。けれどやってきたばかりの美優の瞳が、自分と同じで淋しそうな色をしていたのを、芹菜はよく憶えている。
 突然に出来てしまった妹の存在に戸惑ったものの、芹菜は美優が見せる淋しそうな瞳をなんとかしようと頑張った。
 ただ純粋に笑ってほしいと。そしてなにより、彼女を守ってあげたかった。
 一緒に公園で遊んだり、夏にはプールで泳いだり。美優の誕生日には母親に代わり不器用だけれど一生懸命ケーキを作った。父親の飲んでいるコーヒーに興味を覚えた時には、二人で苦い思いをして。
 そうしていくうちに、いつのまにか彼女の表情が豊かになり。初めて美優が微笑んでくれた日を、芹菜は決して忘れられない。
 いつのまにか自分よりも料理が上手になって、女らしく綺麗になっていった美優。けれどどこか子供っぽくて、甘えん坊で。
 彼女が養女としてやってきた理由を気にするどころか、芹菜自身、美優は自分の実の妹だと思えていた、そんな頃。
 芹菜が十二歳で、美優は十歳だったある日の夜。その日はちょうど大型の台風が接近しているとかで風が強く、外で聞こえる雨音も尋常ではなかった。
「入ってもいい…?」
 二段ベッドの上で寝ていた美優が、とても不安そうな表情で、下のベッドで眠っている芹菜の顔を覗き込んできた。
「眠れないの?」
 問い掛ける芹菜に、素直に頷く美優。
「雨の音って、苦手なんだもん…。…芹菜姉ちゃん、そっちいっても……いい?」
「いいよ、おいで」
 芹菜が答えにちょっと迷っていたら、たまらず美優が淋しそうな表情を見せた。慌てて頷くと、芹菜は梯子を使って降りてきた美優を自分のベッドの中に招き入れる。
「芹菜姉ちゃん、あったかいから好き」
 さっきまで泣きだしそうなほどに怖がっていた美優が、にこっと微笑んだ。何故だか嬉しくて、自分も微笑む芹菜。
 そして芹菜がそのまま美優の髪を撫でてやると、美優はまるで子犬みたいに嬉しそうに目蓋を閉じて、自分の身体を寄せてきた。
「気持ちいい?」
 芹菜が尋ねると、こくんと頷く美優。そんな美優に、芹菜が続けて問い掛ける。
「子守歌、唄ってあげようか?」
「いらない…。そのかわり、側にいて」
 外から聞こえてくる、激しい雨音。それから逃げるように、耳を塞いで呟いた美優。
 その仕草がとてもいとおしくて、芹菜は美優の言葉どおり、朝まで彼女の側にいた。美優の小さな身体を、細い腕で抱き寄せて。
 その様子はまるで、卵から孵化したばかりの雛鳥を守る小鳥のようだった。
 そして次の日もまた、嵐の夜で。今度は初めから芹菜のベッドで眠った美優と、そんな美優をずっと抱き寄せて眠った芹菜。
 いつのまにか晴れた日でも曇りの日でも、季節が春でも秋でも、二人は二段ベッドの下の段のベッドで一緒に眠るようになって。
 そして雨が綺麗な粉雪に変わって舞ったある冬の寒い日の夜に、芹菜は美優の身体の、本当のぬくもりを自分の肌で知った。
 初めはほんの冗談で、頬に軽くキスをしただけ。それがいつのまにか唇に移り、そして肩から胸元へ滑っていき。
 一緒にお風呂に入って知っていた肌と同じはずなのに、明かりを消した薄暗い部屋のベッドで見た美優の肌は、すごく綺麗で、そしてなにより柔らかくて。
 今まで、美優を守りたい、と想い続けていた気持ちがそこに重なった時。芹菜の唇は、妹であるはずの少女の肌に口付けていた。
 芹菜の腕の中で、美優の身体は小刻みに震える。美優の色付かない唇から零れる吐息が胸を切なくさせるたび、芹菜の指先と唇は彼女の肌の優しさを知りたがった。
「ごめんね…」
 芹菜が最後のキスを美優の唇にして、彼女の耳元にその言葉を囁いたとき、美優は瞳を潤ませ、けれど小さく微笑んだ。
「あたし、芹菜姉ちゃん大好きだよ…」
 その日から二人は、姉妹であると同時に相手に大切な何かを求める方法を知った。
 そしてそれは壊れることを知らず、季節はあの夏の嵐の夜から数えて二度目の春になり見惚れるような桜が咲いた。
「…あたしの両親は、あたしが六歳の誕生日の日に交通事故で死んじゃったの」
 美優が芹菜と同じ、花梨女子学園の中等部に入学した日の夜。彼女はそう言って、芹菜にひとつの小さな髪留めを見せてくれた。
「…これはね、五歳の誕生日を祝って母さんがプレゼントしてくれた物」
 暖かみのある革で作られているそのバレッタには、焼き印で、おそらく美優の本当のイニシャルであろう【m.k】と。
「…今日、学校でちょっとあったの」
 どうして急にそんな事を? と聞き返した自分に、そう答えて照れ臭そうに微笑んだ美優の笑顔を、芹菜はよく覚えている。
 そしてその夜も、芹菜と美優は互いの身体を寄せて眠った。不思議とその夜の美優は、今までの芹菜が知らないほどに綺麗で。
 キスをされた美優は擽ったそうな微笑みを零し、それからふと淋しいとも切ないともつかない憂いのある小さな声で呟いた。
「…あたし、本当にお姉さんがいたの」
 その告白が何を意味するかが一瞬理解できなくて、芹菜が思わず聞き返す。すると美優は芹菜を見つめて、ちょっと迷ってから、表情を崩すように微笑んだ。
「……芹菜姉さんの妹になる前ね、あたしには美夜…って姉さんがいたの…。…その美夜姉さんとあたしとは血がつながってる本当の姉妹でね、あたしと美夜姉さんは同じ、同じ日に……」
 とつとつとした口調で話すと、そこで言葉を区切る美優。それから深呼吸をして、その続きを話そうとした美優を、芹菜はたまらずに抱きしめた。
 美優の話している様子がつらそうで、その声を聞いているだけで自分の胸が張り裂けそうなほどに苦しくなったから。
「いいよ、美優…」
 彼女の話の続きが気にならなかったといえば、それは嘘になるけれど。でもその続きは美優がもっと大人になってから、もっと強くなってからでもいいと思えたから。
 芹菜は、美優に口付ける。
「もういいよ。…美優がたとえ誰の妹だったとしても、今はあたしの妹だもの…」
 そう囁かれ、美優が何か言い掛けた言葉を呑み込むと、その呑み込んだ言葉の代わりに瞳からは涙が溢れた。
「…うん。あたしのお姉さんは、芹菜姉さんだけだよ…」
 自分に言い聞かせるような美優の言葉。
 外では夕方頃から降り始めた雨音が、まだ鳴りやまずに聞こえてくる。そしてその雨は次の日の朝まで、やむことはなかった。
 そしてその日の朝の食事が、美優の作ってくれたバターたっぷりに砂糖を少しのトースト二枚と、綺麗な丸の目玉焼きで。
 その朝食を残さず食べて、芹菜は美優と一緒に雨の中を傘をさして学校へ行った。
 そして帰りは一人で下校した芹菜は、ちょっと寄り道をして、美優に似合いそうなリボンを入学祝いの贈り物にしようと買う。
 けれど家に着いて玄関のドアを開けた時、それを計ったように電話が鳴った。
 その時に受話器の向こうから聞かされた言葉は、外で降っている雨音のノイズに重なって断片的にしか記憶していないけれど。
 美優と病院と、そして交通事故という三つの言葉だけは不思議と脳裏から離れない。
 その後、泣く暇すらないままに家を飛び出して、芹菜が病院に駆け付けると。
 そこで待っていたのはうなだれる父親と、そして眠るように目蓋を閉じて冷たくなって眠っている美優の姿で。
 美優との思い出のほとんどが、雨の降っていた日に重なっていく。芹菜がそれに気付いたのは、その時からだった。
 そして、美優の通夜が行なわれた夜。葬儀などの準備で追い回されていた時間からようやく開放された芹菜は、涙に襲われた。
 次々に涙が溢れる。そんな時、なにより側にいてくれたのが同級生の咲紀だった。
 めずらしく泣いていた自分を温かい言葉で慰めてくれた咲紀に対して、芹菜は妹が養女だったことと、その妹と自分がただの姉妹の関係ではなかったことを告白する。
 淋しさと切なさの混ざり合った独特の雰囲気に流されて、言葉が勝手に口から零れていったのも事実だった。けれど、芹菜は今でもそれを後悔していない。
 芹菜からその話を聞かされた咲紀は、全てを知ってもなお、彼女に優しかった。
 告白を終えて、まるで子供のようにただ泣きじゃくるだけの芹菜。そんな彼女の髪をそっと撫でて、咲紀は囁く。
「美優ちゃんに血のつながってるお姉さんがいるとしても、美優ちゃんにとってのお姉さんは、芹菜。貴方だけなんだよ…」
 美優も言ってくれた、その言葉。
 それが何より、今の芹菜の支えだった。