ボーイフレンド
【 前 編 】

(あ…!)
 お尻のあたりに、奇妙な感覚を感じて、私は顔をしかめた。
 目の前もすぐ横も、後ろも、身動き一つできないくらい、びっしりと混みあった朝の通勤電車。季節がら汗ばんだ空気が、狭い空間に充満していて、それでなくともなんだか気持ち悪くなってしまいそうなのに。
(痴漢だ!)
 せめてもの抵抗に、無理やり体の向きを変えてみた。すぐ横の同じ高校の制服を着た男の子が、仕方無しにあまり密着しないように移動してくれた。背が高いから、視界に入るのは肩口だけ。
 これで大丈夫かな、とおもったのもつかの間、こりずに、いやらしい手がまたお尻にへばりついてきた。
 ああ、イヤだ。どうしよう!
 困って、さりげなくあたりを見回してみた。だれも、なにも見ないようにしてるみたい。なんとか、この手から逃れようと身じろぎしたら、さっき動いてくれた男の子が「あれ」と小さく声をあげた。
 びっくりして顔を上げたら、どこかで見たような顔がそこにあった。
「…綾香さん…だよね?」
 静かな車両をおもんばかって、小さな声だったけれど、周りの何人かがけげんそうにこっちをみていた。
 確かに知ってる顔なんだけど、うまく思い出せない。
 考えたいのはやまやまだけれど、痴漢に触られているこの状態で考え事なんてできるわけない。手は執拗にそこを撫で回して、あまつさえスカートの裾の方まで移動しようしているようだった。私はとるものもとりあえず、彼を見上げて小さな声で「痴漢なの」と訴えた。
 彼は目を見開いて、私を抱え込むようにして背中に腕を回した。その手がすっと下におりて、憎たらしい手を私のお尻から引きはがしてくれた。
 周りのサラリーマンやOLの白い視線をものともしないで、彼は強引に私を抱えたまま場所をいれかわり、不快が去った後の「彼は誰なのか」という命題に悩むわたしを、面白そうにみていた。
「あ、全然わかんないんだ? よくウチに遊びに来てたのに」
「え?」
「綾香さん、よくウチで、おねえと遊んでたよね」
 おねえ、という呼び方で、記憶が甦った。
 中学生の時の一番の仲良しだったさつき。高校は別になってしまったけれど、いまでもよく電話で話しをする。
 彼女にはひとつ年下の弟がいた。もちろん、何度も顔をあわせたこともある。
「あ…」
「やっと、思いだしてくれた?」
 そういえば、春に
「ウチの神が綾香の高校に行くことになったんだ」
という話しを聞いたっけ。
 私の記憶にある中学に上がったばっかりの小柄ないがぐり坊主から、今のこの姿なんて想像もできなくて、私はまじまじと、親友の弟をみあげた。
「ずいぶん背が伸びたのね。…びっくりしちゃった」
「うん。おかげで、おねえには『ずうたいばっかりでっかくて邪魔くさい』っていわれてるよ」
 いつもさつきにやりこめられていた姿を思い出して、思わずくすくす笑いが漏れてしまう。
「綾香さんいつもこの電車だよね」
「うん………神君も?」
「実はそう。綾香さんをみるたび、声かけようかどうしようか迷ってたんだけど、なんて言っていいかわかんなくてさ」
「…そうだったんだぁ」
 ちょっと照れたように笑う顔がかわいくて、おもわずこっちもふにゃんと笑顔になってしまう。
 そんなやりとりをしている間に、急行電車はようやく私たちがおりる次の駅に停車した。
 ドアが開くと同時に、外に流れていく人波ができる。短い停車時間を逃さぬよう、あわてて流れていく背中について、ホームに降りた。
「さっきは助けてくれてありがとう。ホントにどうしようかと思ってたから、うれ
しかった」
 ほっとためいきをつきながら、神君と並んで歩きだした。
「いや、お礼いわれることなんか、なにもしてないよ。……もしかして綾香さん、けっこうこの電車で痴漢にあってる?」
 どき、として、思わず目を見開いた。
 実際、この電車で痴漢に会うのは初めてじゃなかった。
 改札を出て、学校へと向かいながら、私はうつむいて小さくうなずいていた。
「綾香さん、おっとりしてるからなぁ」
「あ、ひどーい。そんなことないよぉ」
 ぷぅ、と頬を脹らませて反論すると、神君はおかしそうにくすくす笑って、こんなことを言いだした。
「ねえ、どうせおなじ駅から乗るんだし、明日から一緒に電車に乗ろう。男つきなら痴漢もよってこないよ」
「え?」
 びっくりして見上げると、神君はなんだか照れてるような困ってるようなそんな顔で私をみていた。
「綾香さんを痴漢にあわせてほっといた、なんていったら、おねえに殺されちゃうよ、俺」
「え…悪いよ、そんなの」
「気にしなくていいよ。学校までだし。………誤解されて困る人がいるなら、いいけどさ」
「そんな人、いないけど。………いいの? そっちは」
 隣で歩いている彼は、すごく美形、ってわけじゃないけど、充分さわやかで魅力的な男の子だった。年下で、親友の弟だってわかってても、なんだかどきどきしてしまう。
「残念ながらもてないから、オレ。…じゃあ、明日からね」
 そう確認すると、校門をくぐったところで、神君は1年生の昇降口に向かって走っていった。



 その日の夜、案の定さつきから電話が来た。
「ちょっと、綾香、きいたわよー。痴漢に会ってるんだって? だめだよ、大人しくやられてちゃ。ウチの神、番犬代わりにつけるから、使ってやって」
「神君に悪いわよ、そんな」
「いいのいいの。あれ、神から言いだしたんでしょ? 一緒に電車に乗るって」
「…うん、そうだけど」
「ふふふ…じゃあいいのよ。綾香と一緒に学校行きたいんでしょ」
 電話の向こうで、さつきのくすくす笑いが聞こえる。
「ちょっと、さつき。それって……」
「神は前々から綾香のこと気に入ってたみたいだからね。役得狙いなのよ、きっと」
「………うそぉ」
 きっぱりとしたさつきの口調に、しらずしらずに顔が赤らんでしまう。
「まったく見え見えなんだから。まだまだ修行が足りないわね。これでしばらくは退屈しないで済むからいいけど〜」
 さつきのおもしろがってる顔が見えるみたいな、弾んだ声。
 でも、急にそんなこといわれたら、なんだか意識しちゃって神くんの顔みれなくなりそう。
「あ、綾香に好きな人がいるっていうなら、いいのよ。勘違いされたらこまるとか、あるもんね。でも、もし、いないんだったら、遠慮なく使って? 悪さしないように、釘は刺しとくからさ」
 私の沈黙をどうとったのか、さつきは慌てて口調を変えた。
 こういうところは、さつきと神君にてるのかも、とちょっと微笑ましくなった。
「…それは、全然いないから、いいんだけど…」
「しばらくでいいから、試してみなよ。痴漢よけになると思うよ?」
「…………うん」
 うなずきながら、顔から火が出そうだった。
 なんか、今朝電車の中でかばうように背中に腕を回してくれたときの感覚とか、分厚い胸板のカンジとかを、急に思い出してしまったのだ。
「姉の私が言うのもなんだけど、けっこういいオトコに育てってるからさぁ、ちょっと心配なのよ。でも、綾香に目をつけるアタリは、まぁ女を見る目はあるみたいねえ」
「さつき〜、なによ、それ〜」
「ふふふっ。まぁ、神の気持ちは気にしないでいいよ。自分から言いださないと意味ないからさ、こんなのは。まぁ、でかい番犬つれて歩くとでも思って」
「もぉ、さつきったら……。でも、心強いわ。ありがとう」
 これは、お世辞じゃなくて、ホントの気持ちだった。
 前は月に1回、あるかないかだった痴漢が、ここのところ、週に1回くらい、多い
ときは2回、触られたりするようになっていた。だいたいはお尻を撫でるくらいだけど、ときどきもっと際どいところにさわろうとする時もあって、ほんとに困っていたのだ。
「じゃあ、明日、神を寝坊しないように叩きおこすから。……たまにはウチにも遊びにきてよね」
 ちょっと安心したような声で、さつきは笑った。
 おやすみ、と受話器を置いてから、枕を抱えて今朝のやりとりを思いだしてみた。
 番犬ってさつきは言ったけど、なんだかああいうのってナイトに守られるお姫さまみたい。
 ふと、そう考えてから、自分の少女趣味な発想が急にはずかしくなって、慌てて頭をふりまわした。



 次の日の朝、駅の階段をのぼると、改札を入ったところに神君が待っていた。
「おはよ、綾香さん」
「おはよう。神君」
 昨日の話しを聴いた後だとなんだかすごく気恥ずかしいんだけど、神君の笑顔があまりに屈託がないので、つられてこっちも笑顔になってしまった。
 神君は笑うと、すごく優しくてかっこよく見える。思わずみとれてると、ちょっと困ったように笑って目線で「いこう」と促した。
 ホームで電車を待つ間、神君はちょっとあくびをかみころした。
「今朝おねえに叩きおこされちゃってさ。せいぜい、ちゃんと番犬つとめてらっしゃいよ、だって。起こされなくたって、いつもちゃんと起きてるのに、参るよ」
「ごめんね、なんか…」
「あ、いいんだよ、それは。オレが心配だからついてるんだし」
 なにげない言葉だけど、どきん、と心臓が音をたてた。
 そうかぁ、心配してくれてるんだ。
 そう思ったら、ふわん、と気持ちがあったかくなる。
「……ありがとう。うれしい」
 ほんとにうれしくなって、見上げてそういうと、神君は急に真っ赤になった。
「だ、だから、いいんだってば、お礼なんか」
 慌ててる神君と私の前に、電車がすべりこんできた。
 ドアが開いたけど、すでにそこはびっしりと人で埋め尽くされていた。強引に体をねじこむようにして、ホームの人が順繰りにその中に飲み込まれていく。
 並んでる列の一番最後にいた私と神君は、まず神君が人があふれそうになっている出入り口付近の人を背中で押さえつけ、素早く私を引き寄せた。
 走り寄ってきた駅員さんが私の背中を強引に中に押し込み、次の瞬間背後でドアが閉まった。
 神君は私の体を挟むようにドアに手をついて、壁みたいになってくれてるようだった。
「これならさわられないよね」
 いたずらっぽく笑う。
「うん」
 息がかかるくらい、ごく間近に神君の顔がある。目線を伏せた神君にみとれながら、そう意識した途端、急にかぁっと体温があがってしまったような気がした。
 できるだけ私に触れないように気をつけてくれているけど、電車の揺れや人波の動きで、神君が私におおいかぶさってくる時がある。ごめん、と囁くような神君の声が耳元で響くたび、心臓が大きく音を立てた。
(なんか、おかしいよぉ…)
 さつきからあんな話しを聞いたからじゃないけど、めちゃくちゃ神君を意識してしまって、私は自分のいうことをきかない心臓に手を焼いていた。
「綾香さん、大丈夫? 具合わるい?」
 すっかりうつむいてしまった私を心配して、神君がひそひそと声をかけてくれた。
でも、その息が耳にかかるたび、痺れるような感覚が背中をすべり降りていく。
「あ、大丈夫よ。ありがと」
 顔が赤くなっていないことを祈りながら、笑顔を作った。
「そう? しんどかったら、俺によっかかっていいからね」
 優しい笑顔に、また顔が赤らむのを感じていた。



 放課後の司書室から、バスケ部の練習がよくみえる。
 そのことに気づいてからというもの、資料や新しい本の整理を条件に司書室にいりびたるのが日課になった。
 中庭に面している2階なので、コートの真ん中に練習用のユニフォームを着た神君の背の高い姿がよくみえる。
 一緒にいるときの優しい笑顔からは思いもつかない真摯な表情で、神君はボールを追っている。
「朝練もないし、ウチのバスケ部弱いんだ。でも俺バスケ好きだからさ」
 そう朝の電車で話していた横顔を思いだす。
 電車の揺れにまかせて体を押しつけあい、その分厚い胸板に抱かれるたび、言葉にできない甘い感覚が体の奥に灯る。それがなんであるのか、わかっていながら、私はずっとそれを直視しないようにしていた。
(だって、神君は弟みたいなものだもの)
 そうつぶやいてみても、私の体はそう言っていない。
 一緒に通うようになってから、授業中になまめいた想像にひたるようになってしまうまでに、いくらも時間はかからなかった。
 あとわずかに近寄ってしまえば、唇が触れてしまいそうなくらいの距離で、お互いの体温を感じながら、たあいない言葉を交わす。
(あ……)
 一人きりの司書室で、本が日焼けしないようずっと引かれたままのカーテンの隙間から神君を見てるうちに、覚えのある疼きが足の間を走った。
突然リアルに、神君の吐息とか耳元で囁く低い声なんかを思いだしてしまったら、そのままイヤらしい想像が暴走しはじめてしまう。
 この部屋の唯一の出入り口であるドアは小さなすりガラスの入った引き戸で、外からは中が見えない。
 この部屋の持ち主である私と仲のいい司書の先生はさっき「これから職員会議があるのよ〜」とぼやきながら図書室を出ていったばっかりだ。そして、彼女の許可がないと、この部屋には誰も入れない。
 しばらく、ぼんやりとその白いドアをみていたけれど、私は立ち上がっていってドアノブについている鍵をかちゃりと回した。
 これからする恥ずかしいことを、誰にもみられないようにするために。