月下美人 〜 黄昏 2 〜
【 第1話 】

 織部が顧問をしているバスケ部キャプテンの田代が、長身をまるめてのっそりとした様子で職員室に入ってきた。
 それを目の端にとらえた織部は作業中の手をとめ、雑多な気配の職員室を泳いでくる彼に声をかけるため、少しだけワープロに未練を残しながら顔をあげた。
 次の一瞬、目線が田代の背後に縫いとめられて、キーボードの上に置かれたままの指がこわばる。
 歩み寄ってくる田代の脇を、するり、と猫がすり抜けていくようなしなやかな気配で、長い髪が隣の国語科のブースの向こう側へと消えていった。
 『彼女』だ。
 何気ない仕草で目線を田代に移しながら、自分でも大人気ないと思いつつも心の奥で沸きたつ気持ちを押さえることができない。
 教師になって10年、今年で32になった織部は、今どきの女の価値を若さだけで判断するような愚かさとは全く無縁だった。にもかかわらず、今さらのように15歳も違う少女の仕草に一喜一憂している。
 まるで自分まで高校生のあの頃に戻ってしまったかのようで、そんな自分を自嘲してなんとも気恥ずかしい気持ちになることも度々だった。


 『恋は、遠い日の花火ではない』


 かつてCMで、多くの中高年の胸を騒がせたであろうフレーズが、いましみじみと胸に落ちてくる。遠い昔に忘れてしまったせつなさを、こんな風に再び味わうことになろうとは。ほんのわずかにじんでいるほろ苦ささえ、好ましく思える。片恋の魔法だ。
「今日の練習おわりました。これ、体育館の鍵っす」
 織部の果てのない物思いをかき消すように、田代の野太い声が頭の上から降ってきた。条件反射のようにバスケ部顧問としての顔を取り繕って田代から鍵の束を受け取る。
「ごくろうさん。戸締りはちゃんとしてるか?」
「たぶん、大丈夫……だと思います。」
「よし。そういえば、お前今度の期末大丈夫か? 中間の時は八坂先生が泣いてたぞ」
「言わないでくださいよ。俺、現国ぜんぜんダメで……」
 そのやり取りを聞きつけたのか、後ろの机の向こう側から田代の担任である国語教師がひょっこりと顔をのぞかせた。
「それは授業中寝てるからでしょうが、田代君」
 織部より3つ年上の八坂恭子は、トレードマークのふちの細いめがねを押し上げながら形ばかり顔をしかめて、それからいたずらっぽく笑った。ゆるくパーマをかけた髪を後ろでひとつにたばねて、一見堅物に見える外見とは裏腹のさばさばした性格で生徒に人気がある教師だった。
「なんだ、お前そうなのか」
 彼女のからかうような口調にあわせてだめ押しをしてやると、田代は大きな体を小さくして、カンベンしてくださいよ、とぼそぼそとぼやいた。職員室の片隅にささやかな笑い声がひとしきり響いたのち、恭子の影から涼やかな声が聞こえてきた。
「じゃ、先生、わたし失礼します」
 どきん、と心臓が音をたてた。
「あ、はいはい。ご苦労様。いつも助かるわ、ありがとね」
 きさくな国語教師の横顔の向こう側から彼女が現れた。
 ちらりとこちらに目線を走らせ、織部にかすかに会釈にもとれる笑みをもらす。今の話を聞いていたのかもしれない。彼女も田代と同じ恭子のクラスの生徒だった。
「あ……」
 田代がいかにもしまった、といいたげな声を漏らしたので顔をあげると、
「いや、彼女と同じクラスなんで」
 とちょっと困った顔で頭を掻いていた。
「お、彼女みたいなのがタイプなのか?」
 ひやりとしてカマをかけてみると
「ちがいますって。俺、ダメなんですよね、ああいうアタマいいやつって。何考えてるか、全然わかんないじゃないですか」
 そう言って、少し苦々しげに笑った。



 頭がいい、悪いの問題ではなく、おそらく彼女は全ての人に等しくそういう印象を与える存在なのだ。
 田代が去った後の職員室で、織部はワープロの液晶モニタをぼんやりと眺めながらそんなことを考えていた。
 彼女よりはるか年上の自分にさえ、彼女の捉ええどころのない視線の先を推し量ることは容易ではない。
 ときおり廊下ですれ違う彼女はいつも一人で、どこか余韻を残すしなやかな動作で通りすがりの教師に会釈してみせる。
 もちろん、クラスで友達と笑っている年相応の姿も知らないわけではない。それでも織部の中で彼女はあくまで人を寄せ付けない、どこか冷たい空気を漂わせたエキセントリックな少女だった。
 ほっそりとした輪郭をえがく頬のラインとうっすらと浮かんだ口元の笑み。白い肌の上でぽつりと存在を主張するちいさな泣きぼくろ。何もかもを見通しているかのような大きな黒い瞳は、あまり感情を感じさせない能面にもにた美しさとあいまって、どこかこわく的な印象を人に与えた。
 大人びている、というよりも、むしろそれらは成熟した女性の持ち物であり、その年齢にありがちな潔癖さや背伸びゆえの斜に構えた態度とは程遠く、完成した内面を感じさせた。
 そう、彼女に感じている違和感は、そこにある。
 いまだ硬いつぼみも同然の高校生の中にあって、彼女一人が既にほころんだ花であるかのように、高校生という未成熟さのヴェールの下から見えない花の香を漂わせている。その香りは、同世代の子供たちには決してわからないほど微かなもので、そのくせひどく誘いこむ甘さで気づいた人間を惹きつけるのだ。
 織部の脳裏に、つい先ほど目に焼きついたばかりの彼女の淡い微笑が浮かんだ。
 まだ、それは彼女から完全には引き出されてはいない。あるいは、限られた場所でだけ見ることができるものなのかもしれない。
 まだ男とも呼べない粗野な同世代の少年達とは違い、自分なら―――そんな想いが織部の中にある。まだ誰も、本人さえも気づいていない彼女の匂いたつようなあでやかさを、なにひとつ損なうことなくこの手で開花させることができるはず。そして、それを間近で一番最初に見ることで、彼女の歴史に自分という人間を深く刻みつけたい。
 男として生まれた以上逃れることはできないそれは、征服欲というものだろう。彼女の横顔を見るたび、そんな埒もない欲望が織部の脳裏を走る。
(ほんとうに、始末に負えない………馬鹿げた想像だ)
 職場だというのにともすれば暴走そうな妄想を振り払うために、勢いよく立ち上がった。面倒だが、部室と体育館の鍵が本当にしまっているか確認に行かなくてはならない。2学期頭に体育館横にある部室長屋の廊下から煙草の吸殻が見つかって以来、施設管理に対する責任はことのほか重さを増した。
 階段を降り、スリッパを鳴らしながらゆっくりと校舎を歩いていく。通りすがりに挨拶してくる生徒達にかるく返事をしながら、ふと顔をあげると、黄金色に染め上げられた廊下の濃い影の向こうから歩いてくる彼女を見つけた。
 どんな遠くからでも、たとえ顔がはっきりわからなくても、その鮮やかな印象を残す姿を見間違うはずなどない。窓からの夕暮れの光をうけて、くっきりと輪郭を刻んだ姿に思わず目を細める。
 織部の足は止まることなく、彼女との距離はどんどん縮まっていく。
 すぐ近くまで来た時、彼女の視線があがって目の前に織部の顔をみとめた。ノスタルジックなオレンジ色の光線の中で、その口元が先ほどの職員室で見たような機械的な会釈をうかべる。曖昧でけれどもどこか印象的な、見た人の胸に余韻を残すようなそんな微笑みだった。
 ぎこちなく、織部もそれに応える。いつもなら、そのまますれ違うだけだったが、今日はちがった。彼女は織部の手元に目をとめて、小さく
「あ」
 と声を上げたのだった。
「どうした?」
 思わず立ち止まって尋ねてみる。彼女はめずらしくちょっと迷ったように口をつぐんだ。
「それ、体育館の鍵ですか?」
「ああ、そうだよ」
 体育館と書かれた木の板がよく見えるように目の前で振ってみせると、彼女はそれをじっとみつめて、やがて言った。
「今日の体育の授業で更衣室にタオルを忘れちゃったみたいなんで……もう一度見に行きたいんです。 今行ってみたら、鍵が閉まってて……」
 ざわり、と胸の奥が騒いだ。織部は彼女のクラスの授業を受け持っていない。だから、直接彼女と話すのは初めてといってもよかった。
 自分に向けられた澄んだ瞳と直接語りかけてくる落ち着いたトーンの涼やかな声に、速さと力強さを増す鼓動を押さえることができない。
「いいよ。一緒においで。これから戸締りを確認しにいくところだったんだ」
 気取られてはいけない―――そう思いながらも、カギ束を握り締めた掌に汗が滲むのを感じていた。