月下美人 〜 黄昏 2 〜
【 第2話 】

 鈍い軋んだ音をたてて、鉄板の引き戸が開いた。入ってすぐのところには靴をぬぐための広いたたきがあって、正面が館内への内扉、左側には体育教官室、右側には更衣室とトイレが配置されている。渡り廊下からの淡い夕暮れの光だけを頼りに手探りで並んでいる電灯のスイッチをいくつか入れていくと、一瞬の点滅の後、入り口付近と更衣室への廊下がぱっと明るくなった。
「早くとっておいで」
 織部の言葉に頷いて、彼女はしなやかな動作でスカートをひるがえして女子更衣室に姿を消した。
 すぐ出るつもりなのかドアは開け放したまま。その無頓着な様子は、他の少女達と大差なかった。
「やれやれ」
 来る間に交わした短い会話もそうだった。教師生活の中でいままで見てきた、ちょっと大人びた少女達のそれとかわりない。
 そのことに、ほんのわずかでもがっかりしなかったといえば嘘になる。けれどもそれは彼女の本質的な魅力を損なうものではなかった。織部の言葉にひとつひとつ丁寧に答える口調や仕草は、いままで直接言葉を交わしたことのない織部にとってはあまりにも新鮮で、ともすればあからさまにその横顔を見つめてしまいそうな自分を自制するのに必死だった。
 本当は今だって用が済めば帰ってしまうはずの彼女と、もう少し話すことはできないか、などと未練がましく考えてしまっている。
 そもそも教師である自分がそんな気持ちになること自体、間違っているのだ。そんなことは誰に言われないでもよく分かっている。高校教師になると決まった時、気心の知れた仲間達に「若い子に囲まれてウハウハな職場じゃんよ、羨ましいなぁ!」などと散々からかわれたが、彼女たちはみな守られて卒業していくべき存在であって―――守るべき価値があるかどうかというのはまた別の話だろうが―――、己の欲望をむけるべき器ではない。その点については赴任当初から再三周囲の先輩教師達に強く釘を刺されてきた。
 そうと分かっているのに。
 彼女の向けるこの気持ちが恋だと気づいてはいても、まだそれを認めきれない気持ちがどこかにある。あまりにも魅力的な少女ゆえに、たとえば明るい電灯に引き寄せられる蛾のようにただ惑わされているだけなのかもしれない、気の迷いにすぎないのではないか、と。
 織部のそんな千々に乱れる気持ちなど、彼女はなにひとつ知る由もないというのに。
 頭を軽く払って、ひとつため息をもらす。
 いつのまにかこんなため息をつくことが増えてしまった。
 気を取り直して、オレンジ色の内扉に向き直る。館内の戸締りをチェックしなくてはならない。自分はそのためにここに来たのだから。
 そして、鉄製の扉に手をかけた瞬間、ふっと、動きが止まった。
 ここに来るまで何度も意識に上ろうとして、そのたびに無理やり押し込めていた事実が、すばやく浮き上がってきて織部を捉えたからだ。
(今、ここには自分と彼女しかいない―――)
 息が止まり、どくん、と、心臓が大きな音をたてる。 
 ぎこちなく振り返って校舎の方をうかがうと、そこは先ほどと同じ、まったく人気がない廊下がたたずんでいる。体育館周辺に用があるような学生は、もうすでに部活を終え帰宅してしまっていた。
 そのまま吸い寄せられるように、織部の目が開け放たれたままの白い扉に縫いとめられる。狭い入り口からロッカーを背景に、中で動き回っているらしい彼女のスカートの裾がひらひらと見え隠れしている。
 そう、ここの最終点検は自分の仕事だ。
 ここで何が起きたとしても、深夜になるまでは見回りに来るような人間は誰もいない。


 だから、
 たとえば彼女を追いかけて更衣室に入り、あのドアを閉めたとしても、
 それは誰にも気づかれる心配などないのだ―――……。


 ごくり、と織部の喉が鳴った。
 それは甘く強い毒を孕んだ誘惑だった。くらりと眩暈にも似た酔いにそのまま溺れてしまいたくなる。
 幾度もこんな都合のいいシチュエーションを想像していた。誰にも見つからないよう彼女を拘束して、髪の毛の一筋から足の指の先まで、全てを自分のものにする。己の欲望を剥き出しにした妄想の中で、彼女はうっすらと涙を浮かべながらも、甘い声で喘いでいた。
(バカなことを……)
 開いたままの白いドアから無理やり視線を引きはがして、再びつめていた息を大きく吐き出す。一度騒いでしまった心を静めるのは容易なことではなかった。
 ふらりと配電盤の横の壁に背中をあずける。冷えたコンクリートが火照った体を瞬時に冷やした。
 本当に、どうかしている。
体育館の薄汚れた天井を見上げて、自分の奥底で渦巻いている欲望を散らしていく。
 再び戻した視線の先に、体育館と校舎をつなぐ渡り廊下が映った。
 濃いばら色と淡い紫が入り混じった、この短いひと時にしか見れない微妙な色合いが無機質なコンクリートと鉄筋の屋根を染め上げている。
 日頃は気にとめることもない日暮れの光景を見るともなしに眺めながら、織部はしらず小さなため息を漏らしていた。
 自分一人が何を物思いしようと、時はとどまることなく何千年前からあるいは何億年も前から連綿と変わらぬ繰り返しで夜を連れてくる。
 逢魔が時。
 昔の人はこの昼でもなく、ましてや夜とも言えない境目の時間をそう呼んだ。
 すぐ傍にいる人の顔さえも刻一刻と定かではなくなる翳りゆく光の中では、誰しもまばゆい光の中にいるときは決して見えない、身中に巣食う闇をかいま見てしまうのかもしれない。
 


「先生?」
 声をかけられて振り向くと、いつのまにか目の前に彼女が舞い戻っていた。
「どうしたんですか?」
 怪訝そうに織部の顔をのぞきこんでくる。
「いや……探し物は見つかったのか?」
 彼女の透き通った黒い瞳に心の奥まで覗かれてしまいそうで、織部は逃れるようにさりげなく視線をそらした。その手元に視線を止めると、タオルを取りにいったはずなのに両手は空のままだった。
「探してみたんですけど、ありませんでした。もしかしたらカバンの奥に入ってるのかも。家に帰ったらよく探してみます」
 彼女はちょっと苦笑しながら、愛らしくごめんなさい、と頭を下げた。
「なんだ、意外とそそっかしいんだな」
 織部が小さな笑いとともに何気なくこぼした言葉に彼女はビックリしたような顔をして、次の瞬間口元をきゅっときつく引き締めた。上目遣いに見上げてくる視線に失言を悟る。
「あ、いや、職員室で見かけたときはすごくしっかりしてるように見えたからさ」 慌てて言い訳してみたものの、彼女の機嫌を直すには至らなかった。
「……私、そんなにしっかりなんかしてません」
「うん、ごめん。変なこと言ったな。大してよく知ってるわけでもないのにな」
 口調が丁寧なのは変わらないが、どことなく声が強張っている。
 頭をかいて内心戸惑いながらも、でも、憮然とした彼女の顔から目が離すことができずにいた。
 それは織部がはじめて目にする彼女の生身の感情だった。怒らせてしまったのはわかっていたが、今更女の子のひとりやふたりが拗ねたぐらいでどうしていいかわからなくなるほど動揺する年でもない。それよりもむしろ、今、彼女の怒りが自分に対して剥き出しにされていることに小さな感動すら覚える。
 昨日までのとらえどころのない微笑とは全く違う、こんなにも生き生きとした表情を持っているのだとわかると、もっと違う顔も知りたいと思うのはごく当たり前の心の動きだ。たとえそれが負の感情であったとしても。
「そうですよ。先生とはそんなに話した事もないのに」
 目の前の彼女は、整っている顔に似合わない子供っぽい仕草でぷい、と顔を背けてみせる。
 おそらく本人は欠片ほども意識していないだろうが、それはぞくぞくするくらいにそそる横顔だった。とがらせた唇も、伏目勝ちな瞳も、その目尻でぽつりと存在を主張している小さなほくろも、怒りを訴えるためのものというよりは男を誘惑するためのそれだ。
「悪かったって。そんなに怒るなよ」
 はからずも馴れ合った恋人同士めいたやりとりになっていることに気づいて、つい弛んでしまいそうな頬を必死で引き締める。
 彼女とこんな会話を交わす日が来るなんて考えもしなかったから、なんだか嘘か冗談みたいで、けれどもどこか落ち着かなくて気持ちのやり場に困る。ただ、彼女を見つめる目だけはもうそらしようが無かった。
「………怒ってなんか、ないです、わたし」
 ふいに、感情を高ぶらせてしまった自分を恥じるように、彼女の視線が床に落ちた。
 思っていたよりもくるくると変わる感情の揺れさえも、今の織部にはことさらに魅力的に思える。その年頃の少女なら誰でもそうだと長年の教師生活でわかっていたはずなのに、でもどこか彼女を神聖視していた自分に気づいて内心苦笑してしまう。
 幾度恋を経ても、まったく理想のレンズを通さずにありのままのその人自身を見ることは容易ではない。ただ遠くから見つめているだけの恋ならなおさら。
 知らず沈黙が二人の間に広がっていた。
 どこか浮き足立った気持ちのまま織部が口を開きかけたその時、目の前の制服がふわりと揺れた。
 とん、と小さな音がして、織部のすぐ横の壁に彼女が並んでもたれる。それはさっきの顔とおなじくらい思いもかけない動作で、織部は知らずぎくりと体を強張らせていた。硬くはりつめた筋肉を無理やり動かして、できるだけ何気ないそぶりで彼女の方を向く。
 織部が着ている青いポロシャツの肩と、ブレザーに包まれた華奢な肩の間は30センチもなかった。
 本当に、手を伸ばせば簡単にその体を引き寄せることができてしまうくらいの、ほんのわずかな距離。
 どうした、と言葉にするのもおかしく思われそうで、言葉がみつからない。
 なぜならそれは、彼女にとってそれは特に意味のない、無意識の動作であったにちがいないのだから、あらためてそう聞くことは、自分ひとりが彼女を意識していることを知らせてしまいそうな気がした
 肩口から視線をあげると、まっすぐに織部をみつめる黒く濡れた瞳とぶつかった。あごから首筋にかけてのしなやかなラインだとか、頬にかかっている長い黒髪だとか、そんなものが何とか冷静になろうとあがく織部の心を乱した。
「先生って、まだ独身でしたっけ?」
 涼やかな声が鼓膜を刺激して、ようやく我にかえった。
「ああ、そうだよ。なかなか縁がなくてね」
 リップでもつけているのだろうか。目の前で動いている淡い花の色の唇はうっすらと湿り気を帯びてとても柔らかそうだ。
 不埒なことを妄想する織部の内心を知ってか知らずか、彼女はくすり、と小さく笑った。
「そうなんですか? もしかして彼女もいないとか? 先生けっこうモテそうなのに」
 浮かんでいる表情は、知らないうちにいつもの読み取ることのできない淡い微笑にすりかわっている。
「いや……こう見えても教師は忙しいんだ。もうすぐ期末だしな」
「ほんとに?」
 彼女は一度壁から身体を起こし、そうして、織部の方を向いてまた壁に肩を預けた。
「おいおい。こんなつまんない嘘ついてどうするよ」
 ぎごちなく笑っては見たものの、自分でもどこか空々しく感じられて、つい声は尻つぼみになってしまう。
「だって忙しいから、なんて理由にならないと思います。どの先生も忙しいのに、ちゃんと相手を探して結婚してるじゃないですか」
「ホントだよなぁ。こんな忙しくて遊ぶ暇もないのに、みんなどうやって探したんだか、ほんとに不思議だよ」
 思わずぼやくと、彼女はうーん、と小さく唇をとがらせてちょっと考える様子を見せた。
「……合コンとか?」
「教師相手の合コン?」
 若い子らしいといえばらしい、けれどもあまり彼女らしからぬアイデアに思わず吹き出すと、彼女も自分で言ってておかしくなったらしく、くすくす笑っていた。
「医者なら集まるだろうけど、教師好きなんていないだろ」
「そうかなぁ……」
 まだ目元に笑いの余韻を残したまま、うすく濡れた黒い瞳が織部をじっと覗き込んできた。ふっと会話がとぎれる。言い返すはずだった言葉がその視線に容易くかき消されてしまう。さらりと視界の中で黒髪が揺れて、柔らかな声が織部の耳に流れ込んできた。
「なんとなくさっき苦しそうな顔してたから、もしかしたら好きな人のことでも考えてるのかなって……恋煩いなのかな、って思ったんです」
 思わず触れてみたくなるピンク色の柔らかそうな唇。そこから零れた“恋煩い”という言葉に、胸の奥がざわめいた。
「そりゃね、お前達生徒がいろいろ心配かけてくれるから、知らず顔にも出てるのかもな。おかげで彼女をつくる時間も、恋をしてる余裕もないよ」
 わざとしかめっつらを作って、そうと気づかれないよううそぶいてみせる。
「なんだか先生って大変そう」
 彼女は小鳥のように首をかしげて、小さく肩すくめて微笑った。
「そう。先生ってのは気苦労の多い大変な職業なんだよ。少しは労わってくれよ」
 冗談っぽく笑って返したものの、やけに意味ありげで、居心地の悪い気分だった。
 もちろんこんなやり取りは決してはじめてではない。年若くそこそこ見目のいい織部に幼い恋心を寄せる生徒は決して少なくない。彼女たちはいれかわりたちかわり幾人かで笑いさざめきながら、他愛のない質問で織部の私生活に探りを入れてくる。始めの頃こそはどきまぎしたものの、そんなことが繰り返されるうちにあしらい方も身につき、拙い手管を微笑ましく思う事さえあった。それなのに。
 まさか彼女が、そんな少女達と同じ動機で尋ねているだなんて夢にも思わない。それにしたってまるで初心な高校生みたいにこんなぎこちない返事になってしまうだなんて、自分でも信じられない。どんなに注意を払っていてもふとした隙間からこの気持ちが漏れてしまいそうで、心もとない気持ちがどうしてもぬぐえない。
 舌打ちしたいような苦々しい気持ちのまま、織部は知らず、視線をそらしていた。
「まったく……そうやって大人をからかって。大人になったら、そんなに愛だの恋だの言ってられないもんなんだぞ」
 いかにも年長者めいた文句を言いながらも、内心自分で嘘をついてる、と感じていた。いくつになっても、焦がれて揺れ動く心に変わりはない。そのことを今になって嫌と言うほど思い知らされている。
「はい、ごめんなさい」
 そしてきっと彼女もその嘘を知っている。口元に浮かんだ微笑がはっきりとそう語っていた。
「―――さあ、もういいだろう? そろそろしめるぞ」
 失敗だらけのみっともない会話を断ち切るために、強引に視線を反らしてスイッチのほうに向き直った。手で、彼女に外に出るよう促す。
 彼女が入り口近くまで移動したのをたしかめてから、スイッチを落としていく。かちり、と音がするたび明るかった体育館入り口が暗くなっていく。
 その短い間にすら、考えてしまう。
 なぜ彼女があんなことを言い出したのか。そして彼女は自分の反応から何を見つけだしてしまったのか、と。