月下美人 〜 黄昏 2 〜 |
【 第3話 】
最後のスイッチをおとすと、扉を開けたままの体育館入り口に夜の闇が落ちた。 校舎の窓からもれている光と渡り廊下につけられた申し訳程度の電球のおかげで扉のそばに立っている人影や、玄関の段差程度はかろうじてみとることができる。けれどもその灯りも織部の立っている内扉付近では足元を照らすだけが精一杯で、ようやく顔を見られずにすむ安堵感に肩の力が抜けていくのを感じた。 「もう遅いから気をつけてかえりなさい。俺はこれから中の見回りをするから」 わざとらしく鍵束をじゃらりと揺らして、なかなかそこから立ち去ろうとしない彼女に帰宅を促す。 こんなに真っ暗では当然館内の見回りなどできはしないのだが、彼女がいなくなったらまた電気をつければいいだけのことだ。ただ今だけは、彼女がいる間だけは、おそらく何かをあらわしてしまっているだろう自分の顔を、そのままさらけ出しておくことはできなかった。 それなら彼女に構わず、さっさと内扉をあけて体育館内の見回りに行けばいいものを、隠し切れない名残惜しさが織部をそこに立ち止まらせている。 もう暗くて顔も満足に見えないというのに、彼女のたたずむ姿は驚くぐらい強い引力でもって、織部の視線を吸い寄せて離さない。気を抜けば体ごと引っ張られてしまいそうで、知らずリノリウムを踏みしめる足に力をこめる どうしようもない、と思うのは、こんな風に理性と感情が引き裂かれることさえも、心地よいと感じてしまうことだ。恋しい相手によって苦しいと思うことさえも、悦びのひとつになってしまう。タブーが恋愛において大きな吸引力を果たすのは、案外こんな理由からなのかもしれない。 暗闇の中目をこらして、かすかな光を背に受けてたずむ姿を見守る。 自分のかすかな呼吸音だけが、その空間に響いていく。 いつ彼女が動き出すか、去ってしまうか、このまま帰らずにいて欲しいと願う気持ちも、一刻も早く立ち去ってもらいたいと祈る気持ちも、どちらも嘘ではない。前者は恋心ゆえに、後者は教師という立場ゆえに。 けれども織部の内心の葛藤を知ってかしらずか、こちらを向いて立ちつくしたまま彼女の影は、いつまでたってもそこから動こうとはしなかい。 「どうした? まだ何か忘れ物でもあるのか?」 一度は落ち着いたはずの気持ちが、またざわざわと音をたてて揺れ始めた。 もしかして、とあるはずもない期待が胸をよぎる。それを馬鹿なことだと即打ち消して頭の中で彼女の真意をさぐる。けれども、それでなにか理由を思いつくほど、彼女のことをよく知っているわけではなかった。 ともあれ、いつまでもこうして暗い中2人で向き合っていてもしかたがない。 織部はひとつ息を吐き出すと、配電盤を離れ入り口に向かってあるきはじめた。それはおそらく電気を消したことと矛盾する行動だったに違いない。それでも、織部にはささやかな大儀名分があった。彼女にここから出て行ってもらわなくては、自分の仕事ができないし、なによりこれ以上理由もなく遅くまで彼女を校内にひきとめておくわけにはいかなかった。 「……先生」 織部が薄明りを頼りに注意してたたきの段差を降りようとした時、静かな、囁くような彼女の声が体育館の玄関に響いた。ただ呼ばれただけなのに、胸の奥が淡く震える。そしてこの闇に感謝する。いまの顔を見られたら、どんな隠し事をしたって無意味に違いないだろうから。 「なんだ?」 できるかぎり、声の感情を押し隠して問う。 返事のかわりに、半開きの玄関前にたたずんでいた影がゆらりと動いた。扉の外へ出て行くのではなく、内側に向かって。 「えっ……」 織部はその場に足を止めたまま、体を強張らせた。同時にどくん、と耳元で心臓が大きな音をたてはじめる。心臓がいつもより皮膚に近いところでなっているような、そんな錯覚を覚えるくらいはっきりと自分の中で響く鼓動を聞き取ることができた。 思考停止した織部の視界の中でゆるゆると彼女の黒い影が近づいてくる。たいした距離ではないはずなのに、ほんの何秒かが永遠のように長く感じられる。いささかうるさいくらい自分の鼓動が鳴ってるにもかかわらず、さらさらとスカートが擦れ合うかすかな音と、上履きがタイルの床を踏むきゅっという軽い足音はかき消されることなくはっきりと織部の耳に届いている。 渡り廊下から漏れてくる淡い黄色味を帯びた電灯の光だけでは、影になっている彼女の表情まで読み取ることはできない。 ただしらず息を殺して、呑まれたように小柄な影ががだんだん近づいてくるのを見ていることしかできなかった。 「な…がしま……?」 ようやく押し出した声はわずかに掠れていた。 ほんのわずかに差し込んでくる明かり以外はほとんどが闇に落ちた玄関の中、思いがけないほど近くから彼女の声が聞こえた。 「私の名前、知ってたんですね」 どくん、と胸が高鳴る。 「あ……ああ、よく、職員室でみかけるから」 いかにも言い訳じみてるのは自分でもよくわかっていた。 けれども、奇妙にはりつめたこの危うい空気の中で、他にどんな言うべき言葉があるというのか。 この場からすぐにでも逃げ出したいくらいなのに、ピンで縫いとめられてしまったように織部の体は硬く凍りついて持ち主のいう事を聞かない。ただ、大きく見開いた目だけが、淡い輪郭だけを浮かび上がらせた彼女の姿をしっかりと捉えていた。 さらり、と肩よりもずっと長く伸ばした髪が揺れる。 「うれしい」 ため息のような小さな声とともに、すぐ目の前の影が大きく動いた。 え?と聞き返した瞬間、柔らかくて温かいものがずしりと胸にぶつかってくる。 織部の手から鍵が滑り落ちてがちゃり、と大きな音を立てた。 「な……っ」 甘い匂いと、ぎゅっと押しつけられている弾力のある感触。それが何であるか理解した瞬間、かっと頭に血が上った。 「おい、ふざけてるのか? こんな―――こんなことして」 うわごとみたいに言葉が漏れていく。何がおきているのか、よくわからない。彼女が、あの彼女が、まさか自分に抱きついているなど、ありえるはずがないのだから。 彼女の細い腕は織部の背中に回されていて、そこにこめられた思わぬ力強さに眩暈がしそうだった。 本当なら引き剥がさないといけないのに、腕が動かない。ただ服越しに重なり合っている体温と、鼻先に立ち上ってくる甘い花の香りが、更に織部の思考を奪っていった。 「ふざけてなんか、ない、です……」 熱っぽい声が胸元から聞えてくる。 「そうやって大人をからかって…………ほら…もう、いいだろう?」 うなされたように逃げの言葉をつぶやきながら、強張った腕を無理やり動かして細い肩を押しやろうとする。けれども、彼女はいや、と小さな声をあげて更にしがみついてきた。 表向きの困惑とは裏腹に、激しい喜びに織部の体が震えた。 触れることさえ許されないと諦めてきた、しなやかで柔らかな彼女の肢体が、いま自分の腕の中にある。目がくらみそうだった。 「先生……わたし……」 滑らかな頬が喉元にあたっている。首筋にかかる熱い吐息と、肌と肌がこすれあうその心地よい熱さに頭の中で火花が散った。 「長嶋―――……」 もうどうすることもできない。気がつくと腕の中の体を強く強く抱きしめていた。頭の中が真っ白に焼ききれている。何も考えられずに、ただ、抱きしめた柔らかな体をひたすら感じとろうとと神経を張り巡らす。 力をいれるとどこもふにゅりと柔らかく頼りないくせに、つよく押しつけられた胸には弾き返すような密度を持った豊かなふくらみを感じる。触れている部分から伝わってくる彼女の体の感触をより確かに感じたくて腕に力をこめると、それに答えるように腕の中の体が身じろいだ。 「すき……」 喘ぐような熱っぽい声が喉元に吹きかけられて、さらに体温がはね上がっていく。聞き間違えではないのか、と疑う気持ちを打ち消すように甘い声が追いかけきて、我にかえろうとする理性の襟首を容赦なく引き戻した。 「先生が、好きなんです………」 「長嶋……」 顎をさらさらと撫でる髪の感触や、喉に押し付けられた彼女の柔らかい唇。強い酒を飲んだ後のような地に足がつかない酩酊感に、このまま流されてしまいたくなる。けれども。 「わかったから、ほら……離れて……な?」 半身を裂かれるような気持ちで、たまらず抱きしめてしまったきゃしゃな背中から自分の腕を引き剥がす。胸の奥が、いや、体中が熱くたぎって彼女を求めていた。だからこそ、いつまでもこんな風に密着していたら、一度は取り戻した理性もすぐ役目を放棄してしまうに決まっている。教師になったばかりの自分だったら、迷うことなくこの荒れ狂う欲望に溺れていただろう。 けれども、織部は己の欲望から自分自身とほかならぬ彼女を守らなくてはならない。 「嫌っ!」 すがりつく腕をなんとか離そうとする織部に、彼女はポロシャツの胸に頬を強く強くおしつけて、思いもかけない強い口調で叫んだ。 ひとたびはその体を抱き寄せてしまったことを思えば、いまさら彼女を乱暴に引き剥がせるわけもない。気の済むまでそうしているしかないと諦めて、細い肩を軽く抱くようにして叩いてやると、彼女は不意に顔をあげた。 闇に慣れてわずかに明るくなった視界に、真摯な表情を浮かべた顔が映る。ほの白くほっそりとした頬も、闇と同化してしまいそうな髪も、吸い込まれてしまいそうな黒々とした瞳も、もうとても人形のようになど見えなかった。 「―――このまま帰ったら、先生は、明日にはもう無かったことにしちゃうでしょう? 先生は大人で、先生と生徒の恋愛はいけないことだから、ここで私が言った事も聞かなかったことにしちゃうでしょう?」 「何を……、そんなこと、あるわけないだろう」 一途な瞳をして見上げる彼女が訴える言葉は、どれも思いもよらないことばかりで、ただただ言葉を失う。 「今まで全然話したこともなくて、先生が私を知らなくて、だから私のこと好きじゃなくてもそれはあたりまえのことです。でも、私の気持ちをまるごとなかったことにされてしまうのは嫌」 ひた、と見据える彼女の瞳の奥に意識ごと吸いこまれそうになる。 「もし、私を嫌いじゃないのなら」 彼女の唇から漏れた言葉の意味がゆっくりと広がっていく。 嫌い? 嫌いなわけなどない。だからといって、好きだと口に出す事もできないのだということを、すがりつく彼女は知らない。これは隠しとおさねばならない想いだった。 「今日はじめて話したばかりなのに、急に」 「それでも」 織部の言葉尻をさえぎるように、彼女の鋭い声が切り込んできた。 「それでも、私は先生の事が好き。ずっと……ずっと、好きだったんです」 ふいにまだ何も恐れるものをもたなかった頃の、周りを傷つけてでも望むものを手に入れようとする真っ直ぐさを彼女の上に見つけて息苦しくなる。若さへの嫉妬でも羨望でも懐かしさでもない、胸をかきむしらずにいられないような、行き場の無いもどかしさに知らず眉を寄せていた。 「知らないのに、好きだなんていえないだろう? そんなのは好きだなんて言わないよ」 「どうしてですか? 好きになるのに、理由なんていらないでしょう? もっと見ていたい、もっと側にいたい、もっと知りたいって、そう思うだけ」 恐ろしいくらいに、力のある音で彼女の言葉は織部を侵食していった。織部が心の奥底にしまいこんでいたものまで巻き込まれて引きずり出されてしまいそうなほどの、有無を言わさぬ激しさ。 ある意味で織部が感じていた違和感は正しかったといえる。彼女を覆い、まわりから内面を遮っていた物静かな優等生というヴェールの下に、こんなにも嵐にも似た情熱があることを、一体誰が知っているだろう。 「嫌いじゃないのなら……せめて、キスしてください」 「待てよ、それは」 「私を好きになって、だなんて言いません。勝手なことを言ってるのもわかってます。迷惑なら、それで、もう忘れますから」 「そんなことはできない。今長嶋が自分でがいったとおり、俺は教師で君は生徒なんだ」 聞きたくない、とでもいうように、織部の胸に形のいい額がおしつけられる。伏せられた瞼を縁取る長い睫が、見下ろす前髪の向こうに見え隠れしていた。 「長嶋の気持ちはうれしいよ。なかった事になんかしない。でもその気持ちを受け取ることはできないんだ。……わかるだろう?」 力強く織部の体を抱きしめる彼女の細い腕の感触。制服越しに伝わる淡い体温。なにもかも離したくないと願う本心とはまったく裏腹の言い訳をつぶやきながら、ふと、自分が今何をしているのかよくわからなくなる。 恋しい少女が腕の中にいて、こんなにも自分を狂おしく求めているというのに、なぜつまらない分かりきった世迷いごとをいわねばならないのか。 「お願い、先生。もう、それで我儘は言いませんから、一度だけキスして……」 ぎり、と胸の奥まで差し込むような激しい痛みに、織部は声を殺した。 「長嶋、俺は……」 開きかけた唇に、なにかひんやりとしたものが触れた。自然と言葉が途切れ、視界で動いているそれが彼女の指先であることを理解する。頼りない感触が織部の唇の上をゆっくりとなぞっていく。 いつのまにかまた、織部を見上げている瞳にたやすく心を捕らえられてしまう。 「長嶋―――……」 自分でどうするつもりなのかもわからないまま、ささやかな痺れをもたらす華奢な指先をその手で掴みあげる。 それを待っていたかのように、掴んだ手が強く引き寄せられた。 織部の姿勢がくずれ、ぐんと彼女の瞳が近くなる。 「………っ」 その動きの自然な成り行きに従って、結果、半ば強引に唇が重ねられていた。 唇の上に広がる柔らかな感触に思考が勢いよくスパークする。 キス。触れ合う唇。剥き出しの粘膜でお互いを貪りあう行為。 わずかなぬくもりを伝えるそれをこのまま離すまいとする自分がいる。けれども二度の失敗は許されない。流されて彼女の情熱に負けてしまうわけにはいかない。あらん限りの意志の力で欲望をねじ伏せた。 長いような短いような一瞬のあと、ゆっくりと顔が離れていく。彼女の長い睫がひらいて濡れた瞳に織部を映した。 「……キス、しちゃった」 ふふっ、とちょっと照れくさそうに肩をすくめて彼女は微笑った。 「しちゃった、って、お前…………」 ほんの一瞬の接触だというのに、一度は押さえ込んだ欲望がまた勢いよく暴れ出してしまっていた。うろたえる気持ちを隠しきれないまま、いたずらっぽく笑っている顔をまじまじと見つめる。 「ね、先生、ひとつだけ答えて?」 「なに?」 「怒った?」 「いや、怒ってない」 「ほんとに?」 「うん。ちょっと困ったけど」 さっきまでのとはうってかわって力のぬけた体を、今度こそ細心の注意を払ってそっと引き離す。もう彼女は逆らわなかった。 「ひどい。ホントにファーストキスだったのに」 苦情をいいながらまた彼女は笑った。苦笑だったのかもしれない。 驚きと、戸惑いと、喜びと、はるかに年下の彼女にしてやられたのだいうほんのわずかな悔しさが、織部の今この瞬間の表情の選択を迷わせた。 「そんな大事なものをこんなオヤジにくれてよこしたらダメだろ」 これは正真正銘の本音。 「……先生のそういうところが好き。だから、先生がよかったの。どうしても、先生にしてもらいたかったの」 こんな時に不似合いなくらい涼やかな微笑で、まだ動揺している気持ちをわしづかみにするような殺し文句を言う。 「わがまま言ってごめんなさい。でも、すごくうれしかったです。ありがとう」 そうしてぺこりと頭をさげると、同時に思い切りよくくるりとスカートを翻した。 玄関に向かって小走りに駆けていく小柄な影の背中を、引き止めることさえ忘れて半ばぼんやりと見送る。 「あ、そうだ」 不意に入り口に手をかけて、彼女がこちらを振り返った。 「先生はちっともオヤジなんかじゃないですよ。すごくカッコいいです。……みてるだけで、好きになっちゃうくらい」 渡り廊下の淡い光がほっそりとした横顔をくっきりと浮かび上がらせて、まるでその一瞬を彫像のようにきりとる。 また軽く頭を下げると、彼女は今度こそ軽やかな足音をたてて渡り廊下の向こうへ見えなくなっていった。 織部はそこから動くことができず、ただその後姿を見ていた。 ...To be continue.
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