Holiday きまぐれな夏 2
【 第1話 】

 9月のとある週末、着飾った母ちゃんと臆面もなく手を繋いだオヤジとが大きなボストンバックを前に玄関に立っていた。
「じゃあ、行ってくるわね。留守中あとはよろしくねー」
「行ってくるよ。戸締まりはしっかりとな」
 2人でそろってにやけながらすでに体は玄関の外に向かっている。夏休みの夫婦喧嘩がまるで嘘のような新婚夫婦もまっさおないちゃつきぶりである。なんでも夫婦の親睦を深めるための温泉旅行だという。結婚20年で今更どんな親睦を深める必要があるのか謎だが、ようするに受験勉強中の息子をさし置いて遊びに出かけるための方便と言うものだろう。まさか俺もこのラブラブファイヤーな2人の間に割り込むほど命知らず…もとい野暮じゃない。
 お袋が実家にとび出していくまではろくすっぽ口も聞かない険悪ぶりだというのに、蓋をあけてみれば八方丸くおさまっているのだから、夫婦っていうのは実にわけがわかんないもんだと思う。夫婦喧嘩の度こうだから、周りも毒気を抜かれてしまうんだろう。あのいちゃつき具合を見てたら、正直につきあったほうが明らかにバカをみる。実の息子でさえそう思うのだから、他人はもっとばかばかしいに違いない
 そんなわけで両親がいない休日である。連休が終わる月曜の夜まで、学校もなければ、宿題も無い。俺の手元にはこの間の騒ぎで体を張って手に入れたゲームがある。となれば、この連休中の予定はゲーム三昧と決まったようなものだ。
 とりあえずドアが閉まるまでは殊勝に笑顔で見送る息子を維持したものの、バタンと閉まる音がした瞬間、くるりと向きをかえてダッシュで2階の自室めがけて階段を駆け登った。押し入れに封印されてたゲーム機を手に居間へとびこみ、いそいそとテレビの前に陣取りゲームをはじめる。別に普段だってちょっとゲームをやったところで文句を言われるわけではないのだが(いや、仮にも受験生なんだから嫌みのひとつやふたつくらいはくらうかもしれない)、なんというか、俺にもオヤジ達同様自分に対する言い訳が必要だったのかもしれない。一度始めてしまえば途中でやめて気持ちを切り替えて勉強するのは無理だと自分でわかっているから、夏以降自分でゲームを封印していた。オヤジ達が帰ってくるまでの2日間を息抜き時間と割り切ることに決め、つかのま許されたパラダイスを十分に堪能することにする。そうして灰色の受験生活への英気を養わなくては。
 そんなふうにして俺の休日は幕をあけたのである。




 没頭して何時間がたったのか、玄関からしぶとく鳴り響くチャイムの音でゲームの世界から現実の世界に引き戻された。
「あー? どこの誰だぁ?」
 まぶたの裏にちらつくゲームのパラメーターを追い払いながら、いやいや立ち上がってインターフォンの受話器をとる。
「はい、どちらさま?」
『あ、カズちゃん? いるんだったら早く玄関あけなさいよ。晩ご飯持ってきてあげたわよ』
 絵里姉ちゃんの声が耳から一直線に脳に飛び込んできて、一瞬心臓が止まった。
「えっ、な、なに、晩飯?」
 言われた言葉がうまく繋がらないでオタオタしていると
『そうよ。姉さん達今夜いないんでしょ? いいからとにかく玄関あけてよ。いろいろ持ってきたから重いのよ』
 げに恐ろしきは条件反射。あわてて受話器を置き玄関に直行してドアをあける。はたせるかなそこには風呂敷包みを手にした絵里姉ちゃんが立っていた。
 あれから何度か会ったとはいえ、顔を見た瞬間とっさに思い出してしまうのはあの時のこと。なんて言っていいのかわからなくてつい言葉につまってしまう俺をしり目に、絵里姉ちゃんはいつもの居丈高な“叔母さん”の顔で、ドアノブを手に立ち尽くしている俺の脇をすりぬけてずかずか玄関の中に入ってきた。
「ずいぶん鳴らしてたのに遅すぎるわよ。カズちゃんまで留守かと思ったじゃない。こんなに出てくるのに時間がかかるなんて、姉さん達がいないからってナニしてたのよ」
「ななななナニってゲームだよっ」
 ちろんと横目で意味深にいわれて慌てて弁解する。うっかり言質をとられてしまっては、えらいことになってしまう。あれ以来俺の絵里姉ちゃんへの認識は限りなく望ましからぬ方向に修正されてしまっていた。
「なんだ、彼女の一人でも連れ込んでるかと期待して来たのにつまんなーい」
 さりげなく暴言をはきながら絵里姉は勝手知ったる他人の家とばかりに、靴を脱いで中へあがりこんでいった。
「あ、これこないだ買ってあげたゲーム? まだやってるんだ〜」
 居間から絵里姉ちゃんの声がきこえてきた。
 俺はと言えばまだ凍りついたまま玄関から動けずにいた。
 タイルをしきつめた三和土には、見慣れぬきゃしゃな靴が踵を揃えて鎮座していた。母ちゃんが履いているのとは違う、そしてクラスの女子たちはまだ履きそうもない、かかともつま先も細いサンダル。ああ、これってたしかテレビではミュールとかって言ってたっけ。
 なかばどうでも良いことを考えつつ、突然、俺はいまの事態を認識した。
 両親のいない今夜は俺一人だけの家に、絵里姉ちゃんが来た、という事実に。
 眩暈のように、あの日の記憶が逆流してくる。
 よりにもよってこんな日に来るなんてあまりにも舞台ができ過ぎてる。
 いや、ちがう。こんな日だからこそ絵里姉ちゃんは夕飯を届けにウチにきているのだ。そこから当然のように導き出される期待を、俺は意識に浮かび上がる前に無理やり追い払った。
 深呼吸をして、急に火照ってしまった体から熱い呼気を追いだす。
「いいからそれ触んないでくれよ。まだセーブしてないんだから」
 そうして平常心、いつもどおり、と自分にいいきかせながら、無造作な足取りで居間に戻った。





「お、鳥の甘辛煮だ、やった〜。こっちはサラダか…野菜要らないのに」
「なに言ってんの。好き嫌い言ってたら大きくならないわよ」
「180もあるんだからもう充分だよ。これ以上育ったら天井に頭ぶつけるって」
 対面キッチンのカウンターテーブルで、絵里姉ちゃんが運んでくれたタッパーを一つずつあけて中身をみていく。大小とりまぜたタッパーが全部で5つ。しかもどれも中身がみっちり詰まっている。そりゃ、こんだけあれば重いはずだ。
 ちらりと時計を見ると針は5時過ぎを刺していた。オヤジ達が家を出たのが昼前だから、かれこれ半日何も食べないでゲーム漬けになってたことになる。いいかげん腹も空くはずだよな。そんなことをつらつら考えながらタッパーを開けていった俺は、風呂敷の一番下に敷かれたそれに気づいてふと手を止めた。
「………ちょっと待て。これなんだよ」
 やけに見覚えのある大判の緑の表紙。とりあえず手に取ってはみたものの、紐で綴じられたそれを開けるほどの勇気はない。
 なぜなら、俺の記憶が確かならこの中には………。
「うふふふふ。スケッチブックでーす」
 凍りついた俺をみて、隣から覗き込んでいた絵里姉はにんまりと笑った。
「冗談。もー俺は脱がないぞ」
「え〜? 描くのがダメならデジカメで撮っていい?」
「人の話を聞け。っていうか、そんなのまで持って来てるのかよっ。俺はもう脱がないって言ってるだろ」
「じゃあいいよ。カズちゃんが寝てからケータイで撮る」
「それ犯罪だから。絵里姉」
 いったいどこの世界に寝ている甥の服を脱がせてあらぬ姿を撮ろうとする叔母がいるのだろう。しかも100%本気で言ってるあたりが始末におえない。内心冷や汗をかきつつ、けれども絵里姉ちゃんがそんな時間までいるつもりでいることに、ひときわ心臓が大きな音で鳴りはじめたような気がした。
「だって他の人には頼めないんだもん、仕方ないじゃない〜」
 唇をとがらせて拗ねた子どもみたいな顔で、絵里姉ちゃんは俺の手からスケッチブックを奪い返そうと腕を伸ばした。もちろんやすやすと取らせたりはしない。返したら最後絵里姉が帰るまで一瞬の油断もならない緊迫の時間が俺を待っているのだ。身長180センチの長いリーチを利用して高い位置にスケッチブックを掲げて応戦する。
 ぴょんぴょん無駄に飛び跳ねながら柔らかな体が無遠慮にぶつかってくる。
「それ返してよぉ。カズちゃんのいじわる」
 必死になってる顔がやけにかわいくて、ついわざと絶対とれない高さを維持する。つかの間の優越感。どうせこのあと倍返しで仕返しされるに決まっているのだが。
「いじわる、じゃねえよ。姉ちゃんが帰るときには返すって」
「それじゃ意味ないのに」
「………生ゴミ用のディスポーザーにつっこもうかな、コレ」
「うそうそうそっ。わかった、今日は諦めるっ」
「今日じゃなくてこの先ずっと諦めろよ」
「できない相談はしない主義なの」
 この期におよんでしれっと言いきれるずうずうしさが、女の強さのゆえんかもしれない。おもわずツッコミを入れるのも忘れて絶句してしていると、焦れたように絵里姉ちゃんのちいさな拳が目の前にそびえ立つ俺の胸板を叩いた。
「ねぇ、カズちゃん返してよ。せっかく晩ご飯持ってきてあげたのにそーゆーことすんの?」
 きれいな形の眉と目じりがだんだん急角度につりあがってきて、危険な空気が漂いはじめる。そろそろ引かなければヤバイ…だがこのまま素直に返すわけにはいかない。この連休の平和のためにも。
 俺は一つ深呼吸をして、できるかぎりのしかめっつらを作った。
「……本当に今日は諦めるんだな? 嘘ついてコレ開いたら、速攻ディスポーザー行きだからな」
 念を押すと、絵里姉ちゃんはとりあえず神妙な顔になって、ご丁寧に片手まで上げて答えた。
「はい、約束します」
 そうして問題のスケッチブックは絵里姉ちゃんの手の中に戻ったのだった。





 結局絵里姉ちゃんは俺と一緒に夕食を取り(一人分にしてはやけに多いな、とは思ってはいた)、食後にソファに並んでテレビをみたりなんかした。
 本音を言うと絵里姉なんかほっといてゲームをしたかったけど、うっかり目を離した隙に俺の部屋の家捜しなんかされたら……つまりは俺だって年頃なわけだし、見られたくない物の一つや二つは隠してあるわけで。それをネタにどんな脅迫をされるかを考えると、ゲーム時間など惜しんではいられない。
 それともこういうのも自意識過剰っていうんだろうか。
 すぐ隣で笑い転げて俺の肩を叩くその小さい手や、遠慮なくぶつかってくる体から甘い匂いがかすかに鼻先をかすめるたび、見えない手で意識の奥底が引っ掻かれるような居心地の悪さが俺を苛立たせた。「いつもの絵里姉ちゃん」に安心する同時に、自分一人が囚われてしまっていることが腹立たしく、同時に気恥ずかしい気もして、その他にもいろいろごっちゃになったマーブル模様が最後は怒りにも似た気持ちに落っこちていく。
 いや、それは怒りなどではなかった。
 あれ以来俺はことあるごとにあの時の絵里姉ちゃんの熱い口の中を思いだしながら自分でするようになってしまっていたし、それだけではなく見上げる表情や熱っぽい言葉、仕草、柔らかな舌の動きを繰り返し思い描いて欲望を吐き出しながら、その都度突き上げてくるけっして考えてはいけない黒い誘惑を無理やり押さえ込むのに手を焼いていたのである。
 頼むから近づいてくれるな、と思いつつも、無頓着にじゃれついてくる小さい手をどこかで待っている。そんな自分が腹立たしい。
「……カズちゃん?」
 不意にごく近くから声をかけられて、ついぎくりと体がこわばった。
「えっ、なに? チャンネルかえんの?」
 あわてて自分の脇におきっぱなしにしておいた黒いリモコンを手探りで掴む。
「ううん、それはいいんだけど、なんかカズちゃん上の空だから」
「別にそんなことないよ」 
「……もしかしてこないだのこと気にしてる?」
 さぐるように、隣から絵里姉ちゃんが俺の顔をのぞきこんできた。さりげなく視線をはずす。が、その先には短めのスカートから出ているくずれた膝先があった。こっちに体を寄せた姿勢のせいで、少し膝頭が開いて奥に続く陰りができている。つい目を奪われてしまうのは俺が男である以上どうしようもないことだと思う。
 なんとか気をとりなおして、視点をスカートの脇の小さな手にずらす。
「まさか。気にしてないよ。さっきのゲームも買ってもらったんだし、あのゲームすげー面白いし」
 ふわり、とまた絵里姉ちゃんが使っているシャンプーの甘い匂いが鼻先をくすぐった。
「ほんとに? 嫌じゃなかった?」
「……うん」
「じゃあ、何で目をそらすの?」
 それは、見てるとヘンな気持ちになってしまうから。
 喉までせり上がった言葉を飲み込んで、俺は顔をもとの位置に戻した。
 自然とまた、絵里姉ちゃんと目を合わせせることになってしまう。大きな茶色の瞳とキレイなピンク色の唇。今はこころなしへの字にむずばれているこの唇をみたら、いろいろ思い出してしまって平常心でなんていられない。
「ホントのほんとに??」
 ぐっ、と絵里姉ちゃんの顔が間近に迫ってくる。
 一度見てしまうといつまでも見ていたくなってしまう年齢を感じさせない可愛い顔立ち。年上だけど、叔母さんだけど、ちっともかないやしないのだけれど、でも、それでも今の俺にはおそろしく魅力的な顔に思えた。
「ホント。もー気にしてないって」
「ぜったい?」
 こんなこと考えてたら絶対ヤバいのに。無意味に強気な仕草までもが可愛く感じられる。この間のようにまたどんどん胸に沸き上がってくる奇妙な気持ちをもて余しはじめている。でもやっぱりこれは熱を持ってるこの体のせいなんだろうか。
「絶対……って絵里姉ちゃん、なんかしつこく聞いてくるけど、もしかしてずっと気にしてたほうがいいとか?」
 これ以上近づかれたらどうしようもなくなってしまうので先手を打って切り返すと、絵里姉ちゃんはちょっとビックリした顔で、
「バカいってんじゃないの」
 と、照れた顔で俺のほっぺたをぺちん、と叩いた。
「あ、そうだ」
 それは思いもかけない、可愛い表情で。ふいにつきあげてきた気持ちにまかせて思わず抱きしめそうになった瞬間、絶妙のタイミングで絵里姉ちゃんがぱっと立ち上がった。
「そうそう、まだ渡すものがあったの思い出した」
 いそいそとダイニングの椅子の上においてあった手提げ袋を取りに行き、またもどってくる。
「まだなんかあんの? もう飯くったけど?」
「うん、いいから。ね、カズちゃん立って?」
 わけのわからないままソファから立ち上がる。
「ちょっと目つぶって」
 いたずらっぽく輝く瞳が俺の胸の高さから見上げている。ほんの少しだけ、頭のどこかで警告音が鳴っていたけれども、ここはあえて素直に目を閉じることにした。
「そのまま動かないでね……」
 ごそごそと何かを取りだす気配。こんなふうに目を閉じなきゃ渡せないモノって一体なんだろう? 考えている間に、体の両側にだらりとさげていた腕が後ろに回され、そのまま柔らかな体がぎゅっと押しつけられた。
「えっ?」
 びっくりして思わず目をあけると、絵里姉ちゃんの顔が俺の胸に押しつけられていた。事態を理解しようとしている間に、後ろに回された手首にふわりと柔らかなものがまとわりつく。そして、かちり、という金属音。
「えっ、絵里姉ちゃん、なにを…っ」
 慌てて後ろに回された腕を振り払おうとした瞬間、がちっと手首に強い衝撃が走った。
「ちょっ、なっ、絵里姉ちゃん、これ……っ」
 腕が動かせない。パニック状態になりながら、それでもがちゃがちゃ音を立ててやみくもに暴れているうち、両方の手首が何かでしっかりと繋ぎあわされているのだけはわかった。慌てて体をひねってみると、両手首に黒いぬいぐるみのような腕輪がまきついているのが見える。そして、その腕輪の間はなぜだか銀色の短いチェーンでつながれていて、まさか、もしかして、これって……。
「あのね、それ、手錠。痛くないようにファーのを買ってみました♪」
 わざとはしゃいでいるように声をあげて、絵里姉ちゃんがぼう然としたままの俺にまた抱きついてきた。
「……手錠?」
「そう。もしカズちゃんが、気にしてるんだったらやめようと思ってたんだけど……嫌じゃない、って言ってたから」
「それとこれが一体どういう関係が………」
「あのね、怒ってないんだったらね」
 見上げる絵里姉ちゃんの顔は見間違えようのないほど上気していて。
「もっかい、カズちゃんの、見せて欲しいの………」
 世の中にこの人ほどずるい女のヒトはいないんじゃないか、って正直思った。