赤い首輪 〜Red Collar〜 |
誰かのものになるって、いったいどんな気持ちだろう。 その人だけを見て、その人のことだけを考え、 その人が私の世界の全てになる、ということ? それならば。 きっと私はもう、神くんのものになってしまっている。 たとえ何の証しがなくても。 ―――神くん自身ががそのことを知らなかったとしても。 しゃらん、と涼やかな音が神くんの掌からこぼれた。 中途半場に引かれたカーテンの隙間から差しこんでくる陽射しをうけて、床まで伸びた金色がきらきらと瞬く。 「綾香さん、本当にいいの?」 ためらいがちに伸ばしかけた手を引っ込めて、神くんはもう一度先ほどと同じ問い繰り返した。 日曜の午後の、いつもの神くんの部屋。私はまだきちんと服を着たままベットに腰を下ろしていて、神くんは落ち着かない様子でその前に立っている。 いつもなら、部屋にいる間ずっと私を抱きしめていてくれるはずの神くんが、離れたところに立っているので、私は多分、とても物欲しげな顔をしていたんじゃないかと思う。 「後悔しない? これをつけたら、もう、後戻りはできないよ」 手の中のそれをぎゅっと握りなおして、神くんはまっすぐに私の瞳を覗き込んだ。 その瞳に宿った切ないくらいの激しさに、胸の奥が熱く震えた。 神くんがどれほどの思いで言い出したことなのか、どれほどの情熱で私を欲しがっているのか、私を縛りたがっているのか。 この瞳を見たら、言葉にしなくても全部わかってしまう。そして、私は引き寄せられるようにその熱に焼き尽くされてしまいたいと願った。 「戻る……?」 後戻りなんて、おかしな事を言う。今までだって戻りたいだなんて思ったことなかった。 神くんは甘い毒薬だ。みるまに私を冒して虜にしてしまう。 どんな常識も、建前も、神くんの前では全てが無力で、愚かな私はただそれに溺れることしかできない。 もうとうの昔に、もとに戻るなんて選択肢は私の中からなくなってしまってる。 神くんを好きになってしまった―――親友の弟を好きになってしまったその時から。 「だって……そうだろ? 俺たち……その、普通の関係じゃ、なくなるんだから」 自分から言い出したはずなのに、神くんは戸惑った表情を隠すことさえできず、ただ迷う気持ちそのままに視線を落とした。 「でも、一度でも、そうなってしまったら、きっと俺はずっとそれを求めずにはいられなくなってしまうと思う。……だから……」 やめるなら今しかないんだよ、と神くんは苦しそうに微笑ってみせた。 神くんの大きな掌の中にあるもの。 可愛らしい半貴石のチャームがついた、それは赤い革の首輪だった。金具に繋がれた金のリードが長く伸びて、神君が身じろぎするたび、小さな音をたてる。 神くんが私のために選んできた赤い首輪。 光沢のあるエナメル仕上げで、一目で上質なものだとわかる。 それは間違いなく私を支配するための印であって、神くんが私に望む主従の象徴でもある。けれども、SMという言葉から容易に連想されるいかにもそれらしい黒い首輪ではなくて、こんなに愛らしい首輪を選んでくれたことが、神くんの私に対する想いそのままをあらわしているように感じられて、とても嬉しかった。 「綾香さんを俺のものにしたい。……その印が欲しいんだ」 私はこの春、高校を卒業して大学に通うことになった。そして1つ年下の神くんは高校3年生になり、私と同じ大学にはいるための受験体制に入る。 同じ町に住んでいてその気になれば自転車で会いにいける距離だというのに、私たち2人はそれぞれ今までとは全く違う生活リズムの中で、離れた生活を送らなければならくなったのだ。 その現実を悟った瞬間、胸に浮かんだのは焦燥と不安だった。 いままではケンカしても、ちょっと気まずくなっても、朝駅で顔をあわせればそこからなんとでも仲直りすることができた。でもこれからはそうはいかない。おそらく会う事すらままならなくなるだろう。 めったに感じたことのない年の差をはじめて恨めしく感じ、神くんと日常を共にすることができる同年代の女の子たちに嫉妬した。彼女達は私が見ることのできないありのままの神くんを、毎日目にすることができるのだから。年相応の拗ねた様子も、屈託のない笑顔も、オトナぶってクールに装ってみせる仕草も。そしてバスケをやっているときの一番カッコいい真摯な横顔も。 神くん自身は「俺はもてないよ」と言うけれど、それが単なる鈍感さの賜物だってことぐらい嫌ってほどわかってる。クラブが終わるまで待っているとき、体育館のコートからは直接見えない扉の影で何人もの女の子が、走り回る姿を目で追いかけながら小さな声で一生懸命神くんの名前を呼んで応援しているのを何度も見かけた。 どんなに直視したくなくても私は神くんより年上で、自分でも嫌になってしまうくらいトロくさくて、どうして神くんが私のことをスキだといってくれるのか、ちっともわからないでいる。 今私に向けられている情熱的なまなざしが、明日も同じように自分に降り注いでくれるとは限らない。その恐怖で、声もでなくなってしまう瞬間があることを、きっと神くんは知らない。 それらの思いは決して口にすることはできなかったけれども、たぶん神くんにしても思うところがあるのは同じだったのだと思う。むしろ、年の差を私以上に気にしているのは、男の子である神くんの方なのかもしれない。 だから、今日誰もいない神くんの家に招かれてその言葉とともに突然首輪を差し出された時も、私はちっとも驚かなかった。 首輪を受け取るということがどういうことを意味するのか、本当はよくわかっていない。 でも、そんなことはどうでもいい。 今までよりももっと強く、もっと確かな、ゆるぎない気持ち―――容易く壊れることのない強い絆が欲しいと私は願い、それが形となって目の前に差し出されている。 冷静に考えれば決して尋常ではない考えで。でも、首輪というアイテムから連想されるとおり、神くんのものになる―――ペットのように飼われる、という申し出は、あまりにも魅力的で力強い拘束力に満ちていて、ずっと私が感じていた不安を一気に吹き飛ばすだけの威力があった。 この首輪をつけているかぎり、離れていても、どこにいても、私は神くんの足元に繋がれている自分を思い出すことができる。首輪をつけてくれるその手を夢見て眠ることができる。 恋人達が指輪を交わす代わりに、私たちはこの首輪と鎖で誓い合う。 それだけの違い。私はそう思った。 「ずっと、神くんのものでいられるんでしょう?」 それは私がずっと望んでいたこと。 神くんは私の言葉など聞こえていないような絶望的な瞳で、私を見ている。 言われた私ではなく、言い出した神くんの方が、ずっとずっと新しい関係を恐れている。 だから、わかってしまった。 本当に相手を欲しがっているのは、神くんではなくてこの私なのだ。 神くんは私の欲望を鏡の様に映して、首輪を手にして私の前に立ち尽くしている。 こんなに明るい日曜の午後、神くんのコットンシャツのはだけた襟元に、私は場違いにも欲情してしまっている。 首輪をつけて自分のものになって欲しいと言われて、驚きもせずに足の間を火照らせている、淫らな私の身体。 なんて―――なんて、欲深い私の心。 きっと神くんは気づいていない。 赤い首輪に繋がる金のリードは、私を神くんの足元に結びつけると同時に、その先を握り締める神くんをも私に縛りつけてしまう。 この身を縛るいましめの鎖によって、最愛の人を手に入れることができる。 この、甘い甘い誘惑に勝てる人なんて、いるのだろうか? 「戻る必要なんて、ない」 私はうっとりと囁いて、座っていたベットから降り、神くんの足元に跪いた。 戸惑いの残る瞳をまっすぐに見上げて、そっと顎をあげる。 「戻りたいだなんて、思わない。神くんと一緒にいられるなら、どこまで堕ちていってもかまわない」 ゆっくりと一番上まで閉じていたブラウスのボタンをはずしていく。2つ目……胸の谷間が見えるあたりまで開いて、その間もずっと、黒く濡れた瞳を見つめ続けた。 そうして、フローリングの床に手をついて、目を閉じると、ひとつ深呼吸をした。 「つけて、くれるでしょう?」 ごくり、と息を飲む気配がした。 どれほどの時間がたったのか。ゆらりと目の前の身体が動く気配がした。 神くんが私のまえに膝をつき、温かい手が喉のあたりに触れた。 「つけるよ……」 掠れた神くんの声とともに、ひやりとした感触が首の周りを覆った。 しゃらしゃらと水音に似た涼やかな音が、顔のごく近くで響く。 「ああ……」 息づまるような熱っぽい声とともに驚くぐらい熱く激しい吐息が頬にあたった。 目を開けると、そこには、痛みをこらえている時のような激しさと静かさを同時にたたえた神くんの顔が間近にあった。 「綾香さん……」 口唇が重なる。 お互いに永遠を誓い合うような、それはとても神聖なキスだった。 「この首輪をつけている限り、綾香さんはずっと俺のものだ。俺の……俺だけの、綾香さんだ」 潤んだ瞳で私を見つめながら、暖かい手で頬を撫でる。 「やっぱり綾香さんには赤い首輪が似合うね。すごく、可愛いよ。ほんとに……」 再び口唇がふさがれる。 今度は激しい、欲望づくのキスだった。弾かれたように、身体中に熱が灯る。肌も、心も、そして受け入れるその器官も、濡れたキスひとつで妖しくさざめきだす。 「さあ、綾香さん。自分の言葉で俺に聞かせて。綾香さんは誰のもの?」 ざわり、と胸の奥で何かが大きく震えた。 打たれたようにこの首輪が表す全ての意味を悟る。体の奥から湧き上がってくる痺れが指の先までとろとろと流れて、全身を火照らせた。 「ここにいる綾香さんは一体誰のもの?」 低く響く声が、耳から私を犯して全身の自由を奪っていく。 「……私は………」 瞳を深く覗き込む視線が私の心の奥底まで深く分け入って、自分にさえ見えていないそれを全て見透かしているような気がした。 「私は、神くんの……ご主人様のものです」 言い終えた瞬間、甘く深い痛みにも似た熱が胸の奥から下半身へと一気に滑り降りていった。 「俺の事をご主人様と呼ぶの?」 神くんは面白そうに口元をゆがめて私を見下ろした。私はその表情の一つ一つをつぶさに見つめたまま、小さく頷いた。 もう自分に言い訳することさえ私には許されない。首輪を着けられたから、神くんが望んだから、神くんのものになるのではない。私は自らの意志で首輪をつけることを望み、神くんの所有物になることを選んだのだから。 「もう一度言ってごらん」 私の顔に浮かんだ色を読み取って、神くんは優しく囁いた。 愛してると言う言葉ではあらわすことができない、もっともっと狂おしいこの痛みにも似た情熱を伝えるために、求める以外にいったいどうしたらいいというのか、私には他に想像さえつかない。 だから、ずっとこうして求め続けることを許して欲しかった。神くんだけを見つめて、神くんのことだけを考え、神くんが私の全てであることを。全てが神くんに繋がっていて、私自身すらきっとそこにはなくて、ただ私という器の全てが神君だけで満たされていくこの幸せを。 温かい手が私の頬に触れる。そして髪を撫で、唇をなぞり、薄くひらいたその隙間から濡れた口内に親指の先を忍ばせた。ごつごつと乾いた硬い感触に、私は湿り気を与えるために舌を伸ばす。 今まで何度もそうしてきたように、私のなかに入ってきた神くんの一部分を舌で味わいながら、引き込まれるように愛撫に没頭しはじめた。 わざと引いていくそれを唇でひきとめようとする。半ば抜けかけたそれが再び、強く唇と舌を擦って口内に侵入してくる。漏れてしまう熱い吐息を止めることができずに、私はただ粘膜をなぞる指先のざらざらした感覚に溺れた。 「こら、舐めてちゃだめだって」 ぼんやりと思考が溶けてきたのを見透かしたように、不意に指先が引き抜かれた。 思わず漏れた小さな声に、彼は苦笑して頬を軽く叩いた。 「ほら……もう一度言えるだろ? 綾香さんは誰のもの?」 私を見下ろす神くんの目はとても優しい。けれどもそれはもう優しいだけはない。 「綾香はご主人様のものです……」 自分の唇からこぼれた声に、涙ぐみそうになるほどの激しい興奮をおぼえた。 もう戻れない。 一度声になった言葉を口の中に戻すことはできないように、この異質な悦びを知る前の、無邪気な自分に戻ることはもうできない。 「そうだよ、綾香さんは俺のもの」 とても嬉しそうに目を細めて、神くんは私の頬を柔らかく撫でた。 戻れないことを怖れる理由なんてなにひとつない。 目の前に立つこの人が私を求め続けてくれる限り、私は変わり続けていく自分を幸せに思うだろう。 「ご主人様……」 舌の上でころがすように、繰り返す。甘い陶酔感が思考を鈍らせていく。 生まれて初めて口にする言葉が、なぜかとても慕わしく懐かしいものに感じられて、私は知らず唇を薄く開いてその隙間から湿ったため息を漏らした。 これで私は神くんのもの。 そして、神くんも私のもの。 幸福感に眩暈さえ感じながら、私はもう一度まだ濡れている神くんの指先に自分から唇を寄せて、そっと口の中に吸い込んだ。 <2002.07.28.UP>
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