秘密の夢 |
【 第5話 】
ヒロ兄の部屋からの帰り道、歩くたびじんじん響く痛みに顔をしかめて、しらずしらずのうちにガニ股になってしまっていた。これがウワサの……、と思ってしまうあたり、耳年増というのは実に救いがナイ。 なりゆきとは言え、オンナになっちゃったんだなぁ、としみじみ感慨にひたってたのは、帰りの電車の席に座り込んでからだった。 動機は相当不純だったけど、一番関心のなかった私が仲間うちのみんなを出し抜いて非処女になってしまった。そう思うと、なんだかちょっと複雑な気持ちだった。 すごく痛かったけれど、それよりも、あんなに気持ちよくなれるのだなんて思いもしなくて。 全部が終わった後、私をだきしめたままヒロ兄はいつまでも髪や頬を撫で、頬や額にキスをくり返した。なにも言わないのにヒロ兄の優しい気持ちが、全部全部伝わってきて、それは私の体を通りすぎたあらゆる快楽にもまさって私の心に染みていった。 「どうでした? お嬢さん」 疲れにうとうとしかけた私の頬をつまんで、ヒロ兄はそんなおどけた物言いをした。 「ん……きもちよかったよ……痛かったけど」 「それは処女だからしかたない」 ヒロ兄は私の顔をのぞきこみ軽く唇を重ねると、いきなり乱暴なしぐさで私を自分の胸に抱き込んで、大きくため息をついた。 「ちっくしょー、何があっても、お前だけは抱く気、なかったのになぁ。やられたー」 その言い方が、ほんとに悔しそうだったので、おもわず胸に頬をうずめたまま喉をならして笑ってしまった。 「私は、ヒロ兄にしてもらえて、よかったとおもってるよー?」 「もちろん、俺だってまゆの最初の男になれたのはうれしいさ。でも……」 次の言葉をさがすように、んー、とうなり声が頭のうえで響いた。 「後悔してる?」 気になったので聞いてみた。その答えは間をおかずかえってきた。 「してない」 「……よかった」 安堵のため息をつくと、ヒロ兄の手が私の頬を優しく撫でた。うっとりするくらい、幸せな感触。目を閉じて思わず自分から手に頬をこすりつけてから気づく。そうか、ミヤはいっつもこんな気持ちなんだなぁ、って。 「……まゆに本当に好きな男ができたとき、俺としたことを後悔するかもしれないぞ」 ちょっと切なそうな声で呟くヒロ兄に、今度は私が苦笑する番だった。 「私が好きになったのは女の子だけど、彼女の事、ホントに好きなの。彼女のためになら何でもしてあげたい。だから、もし万が一他の誰かを好きになる時が来ても、後悔したりなんてしないよ」 そうして頬を撫でている掌にくちびるを押し当てると、ヒロ兄はそうか、と言ったきり、優しく私を抱きしめたまま、静かに目を閉じた。 私も目を閉じて、胸から聞こえるヒロ兄の鼓動に耳を澄ました。ついさっき驚くぐらいの早さで脈打っていたのが嘘のように、それは今はとても穏やかに脈打っていた。 そうして私のレッスンは無事終了したのだった。 うとうとしているうちに10時をまわってしまい、慌ててお風呂を借りて帰り支度をしたり、最後はちょっと慌ただしかったけれど、でもまだ体のあちこちにヒロ兄の余韻が残っているようで、とても不思議な感じだった。 体の中を荒れ狂った快楽よりも、ヒロ兄とあんなふうに優しい時間を持てたことがとてもうれしくて、だから今更、とおもったけれど、携帯からメールを打った。 わがままを聞いてくれて、ほんとうにありがとう。 家に帰ると、玄関先で猫ミヤがちょん、と座って待っていた。 「ただいま、ミヤ」 いつものように抱き上げると、ミヤはくんくんと私のにおいを嗅いで顔をしかめた。ちゃんとシャワー借りてきたんだけど、わかるのかな。そんな私の思いまで読んでしまったかのように、猫ミヤは執拗に私にまとわりついては匂いを嗅ぎ、抗議の歯ぎしりをくり返した。 しかたないのでもう一度家のお風呂に入り、キレイに洗って出てきたら、ミヤはそれでようやく落ち着いたようだった。 布団に入って来たミヤに腕枕して無防備な寝顔をみていたら、なぜか昔の事を思いだした。そう、昔もこんな風に腕枕で眠った子がいたのだ。 ミヤではなくて、もっと小さな黒い子猫。 いきなりこんなことを思いだすなんて、もしかしたらオンナになったせいで感傷的になってしまってるのかもしれない。昨日までの自分とは違う人間になってしまった……そんなかすかな喪失感。 そんな大昔のことではないのに、なぜかその子の名前が思い出せなくて、自分でちょっと戸惑ってしまった。いくらなんでも、ぼけるにはちとはやすぎる。 次第に気だるさが眠気にとってかわり、眠りへ引き込まれて次第に無秩序になっていく思考のさなかで、私はなんとか子猫の名前を思い出そうとあがいた。けれど、その努力は報われることなく、私の意識は遠ざかってしまったのだった。 ミヤが私のうちにやってきたのは、私がまだ小学生の頃だった。母方の叔母の家で産まれた子猫を2匹もらってきたのだ。 はじめて我が家に来た時、ミヤはまだ足元もおぼつかない小さなちいさな子猫で、一緒に貰われてきた黒い兄弟猫ともつれあうように遊んでは電池がきれたようにことりと眠り、そうして大人猫になっていった。 いや、大人になったのはミヤだけだった。黒い子猫は大人になるまえに、窓から外へと抜け出した先で事故にあって死んでしまった。ミヤよりも人懐こくて、ちょっとおっとりした子だった。室内飼いにすることに決めていたので、それまで外に出したことはなかった。生まれて初めての大冒険が、彼の生命を奪うことになってしまった。 それいらい家族は戸締まりにとても神経質になった。ミヤは外に出たいということもなく、いまや大年増となって家中を闊歩し、私の夢にまで現れる始末だ。 ミヤをくれた叔母は子供がいないせいか、私をとても可愛がってくれた。 猫好きの叔母は庭先にやってくる猫にいつも餌をあげていて、その中にミヤの母猫もいたのだという。 長い夏休みを利用して叔母の家に遊びに行った時、叔母は西瓜をたべながらそんな話をしてくれた。その膝にはミヤの母猫がスズという名をつけられて、丸くなって寝息をたてていた。キレイな三毛猫だった。鈴の音がすると、どこにいても飛んでくる変な猫なのよ、と叔母は笑った。ミヤの兄弟は全部よそに貰われていき、母猫だけが叔母の家に残っていた。 叔母の家に通ってくる猫の中にははどこかで飼われている猫もいたし、生粋の野良猫もいた。一度は人に飼われたものの捨てられて半野良になってしまったらしい猫もいて、叔母の家で子猫を産んだミヤの母猫スズも、もとはそうした半野良の猫らしかった。 通ってくるうちにどんどんお腹が大きくなっていった姿をみかねて、叔母はスズを飼うことにした。通いの猫のなかでもひときわ人懐こく、餌をたべておわってもすぐ立ち去ろうとはせず、しきりに叔母に体を擦りつけては鳴くそんなスズを、とてもほっておけなかったのだそうだ。 「ねえ、真弓。途中で投げたりしないで、ちゃんとミヤを育ててあげてね。かわいいだけでは生き物は飼えないわ。きちんと最後までみとってあげることが、飼い主の最低限の義務なのよ」 「義務?」 「そう。義務。しなくてはならないこと。守らなくてはいけないこと。なにがあっても、ミヤを捨てたりしないでね」 一度飼われて人の手を覚えた猫は、完全な野良には戻れない。 生粋の野良は決して人を信用しようとはしない。人を敵だと思っている。けれど、飼われたことのある猫は違う。人と暮らし、人に愛されることを覚えた猫は、飼い主に捨てられてもそれを忘れることはない。それが切ないのだ、と叔母は言った。 あたたかい部屋の中で座布団を占拠して幸せそうに眠るミヤをみているとき、ふいに叔母のその言葉が胸の端をかすめ、どうしようもない愛しさにおそわれて、眠るミヤの柔らかなお腹に思いきり顔を擦りつけて嫌な顔をされて逃げられてしまうことが度々あった。 一緒に時を共有している生命の、確かな重み、ぬくもり。心の片隅を占めている愛しさ。それらは普段は日常にとけ、あらためて気づくこともなく傍らにあり、おそらく失われるその時まで気づくことがない。 叔母が言ったのは……自分以外の生き物と暮らすということは、きっとそういうことなのだ。 .. To be continue.
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