Rope |
Written by : みる |
◆ [1] バーカウンターにて ◆ |
「私の身体を縛ってください」 突然そう言いだした私を、その人は驚いた顔で見つめた。 驚くのは無理もない。私たちは長い間飲み仲間ではあったけれど、まったくセクシャルなニュアンスはなかった。 最初に出会ったのは私が26。彼が37。行きつけの居酒屋で何度も顔をあわせているうち、一緒に飲むようになった。 2人で待ち合わせて飲むこともあったし、お互いの友達や同僚と合流して騒ぐこともあった。すこし彫りの深い横顔と笑うとくしゃっと和む目許。年の割には分別臭いことを言わない彼は私の後輩にも友達にも人気があった。ときおり、2人の関係をさぐるようなやりとりもあったけれど、彼の目に映る私は「女」ではなかった。だからこそ、私たちは何年もの間お酒を間に挟んで楽しく付き合うことができたのだろう。 長い付き合いの中で、私はその人が重ねてきた年齢にふさわしいだけの社会的地位と家族があり、そういうアブノーマルな嗜好がない事をよく理解していた。愛する人を愛しい気持ちのまま大切に触れ、抱きしめる事をとても幸せに感じる人だった。 それでも、私はその人に縛られ、その人の前でモノになりたいと思った。 恋人としてセックスするのではなく、奴隷になるのでもなく、ペットになるのでもなく、ただその人の前で縛られた身体を晒して、己の欲望に溺れる時間を持ちたいと願った。 「俺にはそういう趣味は無いよ?」 戸惑い気味の瞳の奥で、私の真意を伺う深い色が見えた。 彼はとても優しい瞳をしていて、私は飲みながらその瞳を覗き込むのがとても好きだった。 その優しいまなざしの中で、私の最も醜い欲望を晒して、同時に癒されることができたなら、どれだけ幸せだろう。 いつしか心の中に生まれたそんな欲望は、気がついたときにはもう打ち消しようもないほど激しく、私の心を喰い荒らして一面を埋め尽くしてしまっていた。 「うん、知ってる。でも、私あなたに縛ってもらいたいの。それ以上何もしなくていいから……しばらくの間私の傍にいてくれれば、それだけでいいわ」 「不思議な申し出だね。……縛るだけでいいのかい?」 面白がってる時の軽く眉をあげた仕草で、彼は信じられないなぁ、と軽く頭を振った。 「ええ。縛ってくれたら、かわりに、あなたのお願いをひとつだけ聞いてあげるわ」 私の手元には『パラダイス』という名のカクテルが入ったグラスが置かれていた。彼は好きなウィスキーをロックで楽しんでいた。 決して私は酔ってなんかいなかった。酔ったから無責任に口に出せる、そんな種類の言葉などではなかった。でも、お酒はかたく引き結んだ唇をやすやすと開かせるのに思いもかけない効果があるらしい。 「別にそんなことはいいけど……縛るって、アレだろ? SMの縛りっていうヤツだろ?」 「そうね。だから、ちょっとだけ勉強してもらわないといけないかも」 彼の骨ばった指が、戸惑いながら上着のポケットの煙草を探していた。数え切れないほど繰り返された一連の動作で、煙草の先から紫煙がたちのぼっていく。 何度か呼吸を整える時のように煙をふかしてから、半分以上残っている煙草の火を消し、苦笑がちに再びグラスを手に取る。めずらしくとても落ち着かない様子だ。……もっとも、突然こんなことを言われて驚かない人も珍しいだろうけれども。 「君にそういう趣味があるなんて、初耳だ。年寄りをこんな風に脅かさないでくれよ」 思慮深いまなざしが、私の頬から肩をすべっていく。そこに性的な匂いがないことを、私はとても嬉しく思った。 「ほんとに縛るだけでいいんだね」 もう一度だけ、彼は尋ねた。その言葉が、彼の好奇心―――何故私がそんなことを言い出したのかを知りたいという、その好奇心から出たものであることを私はよく知っていた。 「うん。セックスしたいわけではないから」 彼は私の瞳を、感情の読めない不思議な表情でしばらく吟味していた。 やがてその大きな掌の中で、からんと氷のぶつかる音がした。 「変わってる娘だと思ってたけど、今回のは極めつけだね。どうして俺を選んでくれたのかわからないけど、それで君が満足してくれるなら、かまわないよ。縛ってあげよう」 琥珀色が柔らかなライトを吸って、黄金色に揺れた。 彼の返事に含まれていた問いに答えるのは難しかった。だから私は、ただ思ったとおりに 「よかった」 とだけ答えた。 私たちの会話は、磨きこまれたオーク材のカウンターが美しい、この雰囲気のいいバーの片隅でするような内容ではなかった。 少し離れたところにいる年配のバーマンは、背筋をぴんと伸ばして何も聞えていない顔で注文のカクテルをシェイクしていた。 「上手には出来ないかもしれないけど、いいかい?」 彼は私が頼みごとをすると、決まってこんな風に謙遜してみせた。そのくせ、いままで一度だって上手く運ばなかったためしはない。実際に出来ないと判断したら、正直にそういって断るだろう。彼はそういう人だった。 だから、私は笑って 「信用してるわ」 と彼のグラスに自分のカクテルグラスをぶつけた。 彼の勉強熱心な性質を見込んで、その日をほぼひと月先の今日に定めた。 別れ際、タクシーに乗り込みかけた私に、彼は少しだけもの言いたげに身をかがめた。 何か言い忘れたのかと思い、ドアを閉められないよう片足を道路に残したまま顔を出すと、 「……いや、いいよ。気をつけてお帰り。おやすみ」 そう言って、私の頬を撫でた。 やがて車のドアが私と彼を隔てた。 いつもならありえないスキンシップに戸惑いを隠せないまま、彼の姿はやがて車の窓の向こうに見えなくなっていった。 |
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