Rope
Written by : みる
[2] アフタヌーン・ティー


「これ、一ヶ月じゃ全然足りないよ。ホントは半年くらい待って欲しいくらいだ」
笑いながら電話で準備期間の延長を申し出た彼は、それでも約束の丁度一月後、今日の予定を確認すると、間に合うかあ、なんて冗談っぽくため息をついた。
「付け焼刃もいいところだから、あんまり期待しないで待っててくれな」
その声があまりにもいつもどおりだったから、つい、いつもの飲み会の約束かなにかのように思えて、自分が何を頼んだのか忘れてしまいそうになった。
「……なんか悪い事しちゃったかしら……」
教えてもらったとおりにきたら、指定の場所にちゃんと着くことができた。
そしたら外国のホテルのようにベルボーイがいる立派なホテルだったので、一瞬言葉を失ってしまった。しばし道に面した広い入り口から上をみあげて、なにかの間違いかも、なんてありえないことを考えてみたりした。
でも、よくよく考えてみれば、それはとても彼らしい心遣いだった。
せっかくの一日なのだから、とわざわざ綺麗なこの場所を選んでくれたのだろう。その気配りに感謝しつつ、曖昧な会釈で背筋の伸びたドアマンの前を通り抜けた。気後れする、という言葉を、まさかこんな場面で体験することになろうとは夢にも思わなかった。
「うわ……」
毛足の長い赤い絨毯のふかっとした感触と、繊細なシャンデリアが輝く吹き抜けになっている高い高い天井。思わず漏れた声もエントランスの広い空間に吸い込まれるように溶けて消えた。
腕時計を見ると指定の時間まではまだ20分ほどあった。ちょうど多めに見積もった分早く着いてしまったようだ。
ロビーにある広々としたティールームを覗きこむと、どこからともなく現れた背の高いウェイターに、窓際の席へ案内された。
紅茶を注文してから、ふんわりとした大きな一人掛けのソファに深々と身を沈める。
視線をめぐらすと、中庭に面した天井まである大きな窓からは、まるで切り取られた絵画のように、よく手入れされた木々の緑が光に揺れているのが見えた。
土曜日の午後、ゆったりと空間をとった贅沢なしつらえのティールームは、一つか二つあいてるテーブルがあるだけで、絞られた音量のクラシック音楽をBGMに少なくない人々の歓談をとりこんで淡くさざめいていた。
場所柄打ち合わせと思しきスーツの男性の2人連れや、買い物帰りらしい小綺麗な身なりの有閑夫人たちのグループの姿が目につく。それでもさして騒がしいということもない。中には一人で文庫を読みながら、静かに午後のティータイムを楽しんでいる人もいる。
建物の外の喧騒が嘘のように、ゆるやかで穏やかな時間が流れていた。
「……2ヶ月、かぁ……」
隣あったテーブルが遠いのをいいことに、ぽつりと口に出して呟いてみた。
とても短いとはいえない待ち時間を過ごすうち、一度は沸騰直前までのぼせていた頭はずいぶん冷めてしまっていた。
それが、今になって私をひどく戸惑わせていた。
後悔しているのではなく、ただ不安だった。
私の望みはきっと間違いなく叶うだろう。ただ、望みが叶ったあとどうなってしまうか、全く想像できずにいた。私自身のことも、私と彼の関係も、そのどちらも。
それでも、彼が今日一日のために費やした時間を思えば、今更断ることも、なかったことにすることもできない。それで怒ったりしないとわかっているからこそ、なおのこと。
そして、やはり心のどこかでは、まだあの願いが息を潜めたままこの日を待ち望んでいたのも事実だった。
消す事ができなくなってしまった、小さな小さな欲望。
決して彼を巻き込んでしまうつもりではなかったのに。
「いまさら、……か」
白いカップに注がれた鮮やかなオレンジ色の鏡に、途方にくれた私の顔が映っていた。
それを銀のスプーンでかき回して、一口飲み干す。
すべての気持ちを、こうして飲み込んでしまえたら、どんなに楽になれるだろう。


約束の時間の5分前、バッグの中で携帯メールの着信音が短く響いた。
『ホテルに着きました。ロビーにいます。』
喫茶室にいます、と短くレスを返すと、すぐに入り口付近に彼の姿が見えた。
小さく手をあげる。スーツ姿の彼はすぐ私に気づいて、大股で席までやってきた。
「迷わず来れたようだね」
向かいのソファに腰掛けて、近づいてきたウェイターにコーヒーを注文する。
「ええ、おかげさまで。でも、あんまり立派な場所だからびっくりしちゃったわ」
私の返事に彼は破顔して、低く気持ちのいい笑い声をたてた。
テーブルの灰皿を近くにひきよせ、スーツのポケットから取り出した煙草に火をつける。ぼんやりとその仕草に見とれていると、
「ずいぶん待たせてしまったからね。どう? お気に召していただけましたか?」
冗談めかした笑顔のまま片方の眉をきゅっとあげてみせた。
いつも会うのは夜中、薄暗い居酒屋ばかりだけれど、こんな明るい陽射しの中で向き合ってみると、ことさらに彼は魅力的な人だった。
あの日から繰り返し考えていたこと、そしてあの日彼が私に向けたその問が、再び意識によみがえる。
どうして、彼だったのだろう?
なぜ、私はあの世界とは全く対極にいるこの人に、縛られることを望んだのだろう?
たしかに大切な人には違いなかった。好意も抱いてはいた。けれども男として、異性として見ていたとは言いがたい。繰り返される夢想の中でも、彼はあくまで縄をかけるための技術者であって、私の欲望は彼自身に向けられていたわけではなかった。
でも、それは彼でなくてはいけなかった。そのことだけは、はっきりとわかっていた。
「私の勝手なお願いなのに、なんだか申し訳なくて身が竦んじゃう。ごめんなさい」
今更のように揺れる気持ちをむこうに押しやって、今の正直な気持を口にした。
「おいおい。俺が完璧主義なの、よく知ってるだろ。頼んだからには、これくらい気がすむようにやらせてくれよ」
彼の目をみたら、それが口先だけではない、本当の気持ちなのだということがよくわかった。私が彼をとても信頼しているのは、こういう時決して嘘をいわず、その心の深さを感じとる事ができるからなのだと思う。
「じゃあ、私はちゃんと今日一日を期待してていいのね」
ついさっきまで紅茶のカップを睨んでいたときの息苦しい不安が嘘みたいに、肩から力が抜けていった。なんだか楽しい気持ちがこみ上げてきて、私はいつのまにかくすくす笑い声をたてて肩を揺らしていた。
「もちろん」
見守るような優しい彼のまなざしに気づいた時、何度考えても分からなかった答えがほんの少しだけ見えたような気がした。
私は誰の邪魔も入らない場所で、この笑顔を独り占めしたいと思っていたのかもしれない。





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