Rope |
Written by : みる |
◆ [3] 傷痕 ◆ |
その人に出会うまで、私はずっと目を閉じたまま暮らしていたも同然だった。 ごくあたりまえのじゃれあうような恋を愛と信じて疑う事すら知らず、眠れない夜も、気が遠くなるような悦びもすべては遠くの世界のことだった。 まだ何も知らないまま暮らしていたその頃のことが懐かしくないと言えば嘘になる。 それはまだ、彼と出会う前。 私が私自身とはじめて向きあうことになった、最初で最後の出会いの話。 「実は君に黙っていたことがある。驚かずに―――恐れずに聞いてほしい」 24才の私が恋していたその人は、つきあいはじめてまもなく、そんな風に切り出して自分の性癖を静かに語りはじめた。 麻縄で女性を縛り上げる悦び、白い体を鞭打っているときの高揚、そして果てない興奮をよびさます苦痛にゆがんだ表情、それらを求めずにはいられない己の業の深さについて。 「僕は君の笑顔と同じくらい、君の苦痛を求める。君を愛しいと思えば思うほど、僕は君を厳しく虐げ、完全に支配し、君が僕のためだけに在ることを望むだろう」 そして、自分と付き合い続ける限り、ごく普通の幸せな恋愛をすることはできないがそれでもいいか、とまっすぐに私の目をみて尋ねた。 彼の口から直接SMという言葉は出てこなかったが、世間知らずの私にもそれが尋常ではない関係であることはすぐにわかった。 縄、鞭、苦痛、支配。どれもひとたび人の口から出れば恐怖をかきたてる言葉ばかりだ。それでもすぐ否定の言葉を口にしなかったのは、あの人がとても静かな表情をしていたからだと思う。 「なぜ、それを?」 話を聞いたときにはすでに幾度か体を重ねていた。とても彼らしい、優しくも人を翻弄する行為の全てをあらためて思い出してみても、今語られたような背徳的な欲望のかけらだって見つけることはできなかった。 混乱しきった気持ちを隠すこともできず、きっと途方にくれた顔で彼を見ていたにちがいない。 その人は時折気難しい一面を見せることもあったけれど、それを補う気配りのゆきとどいた話術で、多くの人に愛されてる人だった。だから私の気持ちが届くなんて思ってもみなくて、ダメもとで告白してOKをもらった時はひどく驚いて笑われたものだ。 一度はOKしてみたもののやっぱり私が気に入らないから、こんな話を持ち出して遠回りして追い払おうとしているのかしら。そんな卑屈な考えがふと頭に浮かんだ。 「驚かせてしまったかな」 「ええ、とてもびっくりしてる」 素直に答えると、彼ははじめて表情をくずしていつもの笑顔を見せた。 「僕が付き合おう、って言った時も、同じ事言ったね。あの時からね、思ってたんだ。驚く君が可愛くて、そそられて、もっともっと驚かせるようなことを教えていきたい、って」 そうして、向かいに座る私の手をとると、祈るようにその指先を両手で押し包み、そっと唇を押し当てた。 「誰にでもこんな話をしてきたわけじゃない。でも、君ならこの僕を受け入れられると思った。君にはその資質がある。その確証がもてたから、話した」 私は彼の言う事を信じることも応えることもできず、じっと彼の伏せた目元をぼんやりと見ているしかなかった。 ふと、長いまつげが動いたかと思うと、いつのまにか彼のうす茶色の瞳が私の瞳をまっすぐに捉えていた。 「君は僕のためのモノに、なってくれるだろうか」 彼の低い声が耳をつたって体の内側に入ってきた。 その瞬間、自分のどこかがざわりと大きく震えてさざめいた。 覗きこむ彼は私が知っている彼ではなかった。その瞳は抗いがたい磁力と威力に満ちていて、まったく違う人が乗り移ったようにも見えた。 でも、これが、私が今まで知らずにいた本当の彼なのだ。 「―――はい」 私は操られるように頷いていた。 何をされるかわからない不安より、これから受けるであろう苦痛より、私は自分がその時感じたおののきとそこに含まれていたわずかな甘さを信じた。 その日、ホテルの部屋で私は言われるままベッドに腰掛ける彼の前に跪いていた。 「僕は君に絶対を誓う」 そう言ってその人は私に赤い首輪をつけた。 銀色の南京錠が顔のすぐそばでカチンと高い音をたてるのを、私は現実感のかけらもない不思議な気持ちで聞いていた。 もう私は自分でこの首輪をはずすことはできない。 見下ろす彼の瞳を覗きこんでいるうち、不意に気づいてしまった。 私はこれからもういままでのように彼の隣に並ぶことはできない。いつもこうして彼に寄り添い見上げているだけの存在になる。 それが、私と彼のこれからの関係なのだ。 ひやりとした革の感触とわずかに揺れている鍵の重みが、しんと胸の奥に落ちた。 「私も貴方に服従を誓います」 教えられるままに答えたその本当の意味を、その時の私が知っていたとは言いがたい。 それでも、私はその人の存在に、彼と私しか存在しない世界の中で彼が私に求めているあり方に心動かされたのだ。 自分がたった一人のためだけの存在になる。 もし自分がそんな風に求められるのだとしたら、そのためにならどんなことでも出来そうな気がした。 実際は想像をはるかに越えた、自分を根底からかき回される苦しみに、のた打ち回る事になったのだけれど。 今でもあの人のことを思い出すと胸の奥が鈍く軋む。 彼のもとで過ごした時間は、決して長くはなかった。 その短い間に、自分の心が、体が、ありとあらゆる快楽に反応するようになっていくのを、半ば呆然として、時に戸惑いながらも、結局はすべて飲み込んでいくしかなかった。 逃げ出したくなるような激しい痛みですら、いつか私に忘我をもたらした。 人としてあたりまえの羞恥、女として刷り込まれた常識、その全てが取り払われたあとには、満たされていたはずのものにさえ飢え、もっともっと、とただ貪欲に快楽を追う獣のような私だけが残った。 自分の全てが――それは比喩などではなくまさに魂の奥まで裏返しにして剥き出しにされていく不安のなかで、私の全てをしっかりと繋ぎとめていたのは、常に注がれつづけた彼の冷徹な視線と、体中を戒める縄の存在だった。 肌に食い込み、自由を奪い、あるべき形をいびつに歪め、人という存在をモノに置きかえる。体中を這う縄は私に自分の肉体とその内にあるものを更に強く意識させた。快楽に溶け出し、形を失って拡散していく意識を、内側に閉じ込めようとする縄の力が引き戻す。それが幾度も繰り返される恍惚に、私は溺れた。 同時に与えられた、考えるのではなくただ思い知らされるしかない圧倒的な力と痛み。 外から打ち据えられる痛みで心は内側へと潜っていく。 悲しみが、不安が、言葉にならないあらゆる負の感情が、息もできないほどの痛みに染めあげられた意識の向こうにやがて霞んで消える。 涙で全て流し去ることができる安堵感。 泣きつかれた後、からっぽになって乾いた音を立てる心の内側にあの人の言葉だけがこだましていく。 その瞬間、私は確かに幸せだった。 ただひたすら飢え続けた彼との時間の中、それでもほんのわずか与えられた蜜のひと舐めで、私は世界一満たされた存在になることができた。 その蜜の甘さは、私という人間と、今まで持っていた価値観をまるごと作り変えてしまった。 あれからずっと、私は愛というものについて考えている。 自分がかつて愛と信じていたものと、どんな甘い愛の睦言よりも私の心を強く縛りつけた数々の支配のことを。 彼は私を作り変え、全てを教えた後、静かに目の前から去っていった。 それはあまりにも突然すぎて、私は長いことその事実を正視することができず、半狂乱になってめちゃくちゃなことを繰り返した。 いくつかの出会いと、恐ろしいくらいにのろのろと過ぎていく時間が、永遠に流れ続けると思われた血を止め、傷口を乾かして、かつての自分の姿を私に教えた 私が私であることを取り戻すまでには、長い長い時間が必要だった。 いまでも私の中にはけっして埋めようのない虚ろな場所がある。 でも、あれほどまでに慟哭し、忘れてしまえたら、と願った夜も、今はもう遠い。 全てを失い、心の一部が欠けてしまっても、私はまだここに居る。 ただ一人で、残された自分をじっと見つめている。 「聞いてもいいかな。もちろん、嫌なら答えなくてもかまわない」 白い陶磁のコーヒーカップを前に、彼は控えめに私のこの性癖の所以を尋ねる。 煙草の白い煙が細くたちのぼってラウンジの高い天井へと消えていく。 「ずっと前につき合っていた人が、そういう趣味の人だったの。それで目覚めちゃったみたい」 半ば予想された質問に私は笑いながら答えている。 やっと、こうして話せるようになった。 まだ胸の奥でかつてあの人がいた場所がうずき続けているけれど、それはもう不幸な痛みではない。あの人がまちがいなく私を支配し、愛してくれたことの最後のしるし。でも、いつかこの傷もあとかたなく癒えて白い傷痕を残すだけになることを、私は知っている。 「大きな声ではいえないこともたくさん覚えたわ。人に言えない趣味だということも知ってる。でも、私はその人に出会えてよかったと思ってるの」 彼は穏やかな微笑みで私の話に耳を傾けていた。 やわらかな午後の光が整った面立ちに淡い影を落としている。 とても不思議な気がした。 彼にこの話をしていることも。私が今ここにいることも。そして、私が彼に望んだ願いも、なにもかもが。 「怖いかい?」 何の脈絡もなく、尋ねられた。 私は素直に答えた。 「少し。でも、ほんとに怖いのは自分自身ね」 言葉にしてから気づいた。 この人に縛られたい、と願った時点で、私の中ですでになにかが変わりはじめてしまっている。 その変化をとめることは、もう、できない。 |
|HOME|about|ROOM Top|bbs|link|
2002 Copyright MIRU , All Rights Reserved.