2度目の恋
【 第5話 】

「月見酒といこうぜ」
 貴巳はそう言って、部屋の明かりを消し、ベランダのカーテンを開けた。
 満月に近い銀色の月の光は、煌々と貴巳の部屋を中を照らしだしていた。
 段ボールと、本棚、それからベット、あとは床に積み重ねられた本くらいしかない、狭いワンルームだった。
 積まれた本をどかして、月がよく見えるよう窓際に陣取ると、僕らは店ではしゃいでたのが嘘のように、静かに飲み始めた。
「もう5年たったんだな…」
 ため息をつくような呼吸で、貴巳がぽつりとつぶやいた。
「長いんだか短いんだかちっともわかんないね」
 薄めにつくった水割りを一口飲んで答える。
 そういえば、貴巳とこんなふうに二人で飲むのははじめてかもしれない、と今更に思い出しながら。
「お前に女友達がいるだなんて、高校の時からは想像も出来なかったな」
「また、それを言う。確かに女っけはなかったけど、貴巳みたいにもてなかったんだから仕方ないじゃんか」
 思わず唇をとがらせて反論すると、貴巳は相変わらずにやにやしながら、どこか楽しそうに言った。
「ホントに彼女じゃないのか? さっきの電話のコ」
「違うよ。彼女、できないんだよなぁ。なんでだろ」
「アヤしいなぁ。だって、お前、けっこう影で人気あったんだぞ。」
「うっそ」
「マジマジ。なんだ、知らなかったのか」
「そんなの全然しらなかったよ」
 初めて聞く話しに目を白黒させてる僕を肴に、貴巳はとっておきの酒を楽しんでいるようだった。
「お前はほんとに呑気だなぁ」
 思いのほか優しい貴巳の瞳に、どきまぎしてしまう。これは決してアルコールのせいなんかじゃない。
「なぁ、あの頃、マジで好きなヤツとかいなかったのか? 全然教えてくれなかったよな、お前は」
 その言葉に、ぎく、と心臓がきしんだ。
 教えられるわけ、ない。
 だからできるだけ、その手の話には触れないようにしてた。でないと隠しとおせる自信なんてなかったから。
 月明かりで顔色がわからないことを感謝しながら、僕はつとめて明るい声をつくった。
「貴巳だって教えてくれなかったじゃん。……好きな人がいるとは、言ってたけどさ」
「まあな」
 話せなかったのはお互い同じ、とでもいうように、僕らは苦笑いをかわした。
 仕方ないよな、と窓の外に目をやった貴巳を見て、ふと、もしかしたら貴巳の恋も、決して倖せなものではなかったのかもしれない、とそんなことを思った。5年前には考えもつかなかったけれども。
「今は?」
 ごく、自然に、言葉がこぼれた。
「今、貴巳は好きな人、いないの?」
 貴巳は答えずに、ただ、淡く微笑んだ。
 手元のグラスで、からん、と氷が高い音をたてた。
「………悠人からみた俺って、どんなだった?」
 とても静かな口調で、貴巳は問いかけてきた。
「そうだなぁ、何でも遠慮が無くて、強引で、口が上手くて…」
 僕は目を閉じて、あの頃の記憶を掘り起こした。
 くだらない冗談で僕をひっかけようと、いたずらっぽい表情でのぞき込む仕草。
 先生と喧嘩して、悔しそうに歯を噛みしめて睨んでいた横顔。
 人懐こさと裏腹に、すぐ熱くなって、つっかかるような喧嘩っぱやいとこがあったけど、それは今でも変わらないでのだろうか。
 落ち込む僕を元気づけようとするまぶしいくらいの笑顔。
 そして、決して僕に見せようとはしなかった、一人でいるときのどこか遠くをながめる物憂げな表情。
「なんだよ、いいトコないじゃん、それじゃ」
 途中で言葉を途切らせたままで思い出の中に飲まれていると、貴巳はあきれたように低い笑い声をたてた。
「とってもあったかかったよ、貴巳は」
「とってつけたみたいだな」
「ほんとだよ。貴巳はお日さまみたいだった」
 僕は酔いにまかせて、普段なら気恥ずかしくなるような本音をするりと漏らした。
「なにいってんだよ、お前」
 案の定、貴巳は照れたように、顔をそむけた。
 だけど、その次の言葉は僕の予想を完全に裏切っていた。
「……でも、お前のそういうところに、俺はずいぶんと救われていたよ」
 僕はとっさに意味を理解できず、瞳をしばたかせた。
 不思議な色をした貴巳の瞳がまっすぐに僕をとらえる。
「貴巳?」
 貴巳の見慣れないその表情をうまく読むことができない。
「俺はね、お前が信じてたような人間じゃない。でも、お前があの頃の俺をそう信じていてくれたおかげで、俺は自分の昏い部分に溺れてしまわずにすんでたんだ」
 自嘲。
 キレイな口元を酷薄そうにゆがめて、貴巳は僕から目をそらした。
「教授についていくのは逃げなんだよ。理由なんてどうでもいいんだ。ここから離れることさえできれば」
「どういうこと?」
 僕は目の前の貴巳の姿に、狼狽した。見知らぬ男が目の前にいるようだった。
 僕の知ってる貴巳はこんな表情をしなかった。
 こんな吐き捨てるような口調で話しはしなかった。
 貴巳は目を見開いたまま呆然としてる僕を見て、ちょっと口もとを緩めた。
 そして、静かに言った。
「好きなヤツから、逃げだすんだ。俺は」
「…好きなのに、逃げるの?」
「ああ。好きだから、逃げるんだ」
 そんなのって、と口を開きかけて、僕はふと5年前の自分を思いだして苦笑した。そうだ。好きだからこそ、離れるしかできないときだって、あるのだ。それが逃げだとわかっていても。いずれ後悔する、とわかっていても。
 貴巳は言葉を探すように、前髪をかきあげた。
 僕は場違いにも、その手首の白さに目を奪われていた。
「高校の時に好きなヤツがいる、っていう、さっきの話な」
「…うん」
「そいつのことが、今でもずっと好きでさ。でも、そいつがホントに好きなのは、俺じゃなくて……」
 目を閉じた横顔。明かりを落した部屋で、濃い影を刻む。
「ちょっと遊んでもらっただけなのに、俺だけが忘れられないでいる。未練がましくね」
 痛々しい言葉を吐きだしながら、僕の慰めを拒否するかのように、口元だけの笑顔をつくる。
「自分からは離れられないくせに、そばにいると苦しいんだ。優しくされるだけで、うれしくて泣きだしそうになって、その一瞬のためだけに側をうろついてる自分が、情けなくて嫌になる。……どうせなら、嫌いになってくれればあきらめもつくのに」
「貴巳」
 必死で言葉をさがしたけれど、なにも思い浮かばなかった。
 貴巳の語る言葉はそのまま僕の胸に落ちて、心臓を痛めつけた。
「馬鹿みたいだろ。こんな風に……いつまでもいやらしくしがみついてて」
 立てた膝に顔を伏せて、貴巳は潤んだ目を隠した。声が、かすれてる。
「しかも、その相手が自分と同じ、男だなんてさ」
 言葉がゆっくりと沈黙に沈んだ後、僕は全身の血が逆流するような気がした。
 いま自分の顔が青ざめているのか、赤くなっているのか、全くわからない。
 僕にとって貴巳は手の届かない、それこそ太陽のような、まぶしい存在だった。
 その貴巳が、ずっと恋している相手のことをを、僕はどれだけ羨ましく思っただ
ろう。
 自分では与えられないものを貴巳に与えることのできるその恋敵を、女と信じて疑わなかったからこそ、僕は貴巳から逃げ、貴巳を汚そうとする自分の欲望を罰しようとしたのだ。
 言葉の出ない僕をどうとったのか、貴巳はちらりと目線をあげて、そのまま、また顔をそむけた。
「……ほんとは、お前の気持ちも、知ってたよ」
「え?」
「お前がどんな気持ちで、俺のことを見てたのか、わかってた。でも俺は知らない振りをしてたんだ」
「貴巳」
「お前が俺を好きだってわかってて、でもそれに気づかないフリをして、俺だってそう捨てたもんじゃないって、いつもそう自分に言い聞かせてたんだ。お前に答えることなんてできやしない癖に!」
「貴巳、もういい!」
「今日だって…っ」
「もういい、貴巳。もう言わないでいいよ」
 ひたすらに自分を傷つけるためだけに紡がれる言葉を遮るために、僕は膝をかかえた貴巳をかばうように抱きしめた。
 貴巳の髪に顔を押しつけて、あごの下からひびいてくるくぐもった呼吸の音を感じながら、僕は泣き出しそうだった。
「…今日だって、ホントはお前に会って、お前の気持ちを確かめたかっただけなんだ。ずっとお前をほっといたくせに、またお前から勇気をもらいたくて、お前だけは、変わらずあの頃のままでいてくれるような気がして…っ」
「貴巳…」
 あふれてきた気持ちをせき止めるために、僕は目を閉じた。
 いままで、僕が貴巳を好きでも、その気持ちは何も生み出さないと思っていた。
 貴巳を傷つけるものでしかないと、汚すものでしかないと思っていた。
 だから、辛かった。貴巳を好きでいることが。報われない気持ちをそれでも捨てることができないでいる自分が情けなくて、でもどうしようもなかった。
 男を好きになったということよりも、僕は貴巳にとって意味を持たない存在だということが、なによりも深く、僕を蝕んでいた。
 でも、そうじゃなかった。
 貴巳には僕が必要だったのだ。
 必要とされる理由なんて、どうでもいい。ずるかろうか、なんだろうが構わない。5年前の僕に貴巳が救われていたというのなら、そのことだけで、僕はいままでのどんな痛みも許せると思った。
 僕が貴巳に魅かれて、その呪縛から逃れられないでいるように、貴巳もまた、長い恋のくびきに縛られて、身動きできないでいる。
 僕は、今、自分に何ができるかを、知っていた。
 そして何をすべきなのかも。
「貴巳」
 僕はずっと焦がれていた、愛しい横顔に手を伸ばした。
「ねえ、僕は、何も変わってないよ」
 道に迷った子供のような瞳をのぞきこみ、そう、囁く。
 貴巳の瞳に僕が映っている。
「僕は、あの頃の僕のままだ……」
 僕は、さやがよくそうしてくれるたように、貴巳の髪をかきあげ、そのこめかみに唇をおしあてた。親愛と慰撫をあらわす仕草。
「悠人………」
 貴巳が僕の名前を呼ぶ。
 記憶にあるのと同じ声で、同じように…でも、それはいままで聞いたことのない、不思議な響きだった。
「ごめん、悠人」
 かすれた声が耳に吹き込まれ……やがて、僕の頬に触れた貴巳の指先から確かな意志が流れ込んできた。
 その痺れが、僕の意識を犯していく。
 自分のものとも思えないような、甘い声をあげて、僕は貴巳に貫かれていた。貴巳の熱を自分の体で受けとめて、狂気にも似た嵐にまきこまれながら、僕はこの瞬間が永遠であるよう祈っていた。
 熱に浮かされたような意識のどこかで、僕は、貴巳が変わらず僕のなかに在り続けることを想った。この先僕の中から、貴巳が消えることはない。でもそれは昨日までのように、苦く辛いものではなく、甘い痛みで僕を魅了し続けるに違いない。
 そう、僕は再び、恋をしていた。
 あの太陽のような無邪気な貴巳にではなく、泣きだしそうな表情で今、僕を抱きしめている、このずるくて弱い男に。
 長いような短いような嵐が通り過ぎたあと、貴巳はあっさりと僕をおいて眠りの国に落ちていってしまった。その深く影の刻まれた寝顔はどこかやすらかだ。
 愛しい貴巳。
 青白い月明かりの満ちたこの部屋のこの瞬間のことを、僕はおそらく永遠に夢に見続ける。
 暗い闇夜に浮かんだあの銀色の月のように、貴巳だけがかわらぬ僕の標となる。
 これからそうだったように。
 そして、明日からも、ずっと。