■ 美少年幽霊奇譚 第 3 章
やまね たかゆき様


「なあ、新冠(にいかっぷ)ってどうやって行けばいいんだ?」
 ある日突然、夕樹くんに訊かれた。
「どうやって……って言われても」
 新冠という地名や、それが北海道のどこにあるかは知っていても、具体的にどう行けばいいかなんて私も知らない。
 本棚から、北海道の道路地図を持ってきた。
 苫小牧市と襟裳岬の中間あたり、太平洋岸の一点を指差す。
「ほら、ここよ」
「……」
 夕樹くんはしばらく無言で、地図を見つめていた。
「……で、現在位置は?」
「……ここ」
 少し呆れた。いくら東京っ子とはいえ、札幌の場所くらいは知っていてもいいだろうに。
「初めて会った時、霊体はどこでも行きたいと思った場所に行くことができるって言ってなかったっけ?」
「霊体は道に迷わない……と言った覚えはねーよ。家とか学校とか事務所とか、よく知ってる場所なら一瞬で行けるさ。だけど自分の脚で歩くんじゃない分、よく知らない、イメージしにくい場所にはなかなか行けないんだ」
「外国にだって行ける、って豪語してたじゃない?」
「行けるさ。ハワイやニューヨークやローマならね。何度か行ったことあるから」
「……あ、そ」
 ちょっと面白くない。私は生まれてこの方、海外旅行なんてしたことがないのに。
「じゃあ……さ、夕樹くんがうちの近所にいたのって……」
「……悪かったな。道に迷ったんだよ」
 弱みを見せるのが嫌なのか、ふくれっ面で応える夕樹くん。こんな表情をする時は、歳相応の可愛らしさがある。
 それにしても。
「どうしていきなり、新冠なんて?」
 北海道内でならともかく、道外の人にそれほど知名度のある土地ではない。
 この歳で古いレコードに興味があるとも思えないし、まさか中学生のくせに、競馬ファンというわけではないだろう。
 新冠は、競走馬の産地として有名な町だった。ハイセイコーやナリタブライアン、オグリキャップといった、競馬に興味のない人でも名前だけは知っているような名馬が、この町で生まれている。
 ……馬?
 それで、はっと気づいた。
 夕樹くんのデビュー作の映画。あれは、新冠の牧場が舞台ではなかったか。
 外国産馬の台頭で経営が苦しくなっている小さな牧場。それでも牧場主は情熱を失わずに、重賞馬を生み出すために毎日汗を流している――そんな設定だったはずだ。
「せっかく北海道に来たんだし、久しぶりに行ってみようかなぁって」
「ふぅん」
 新冠、か。
 レコードと競走馬の町。
 私も行ったことはない。
「いいかもね、行ってみよっか」
「里子も行くのか?」
「夕樹くんみたいな方向オンチ、一人じゃまた迷子になるって。連れて行ってあげるよ」
 どうせ今は夏休み中。バイトも毎日というわけじゃないし、時間はたっぷりある。
 私は、机の引き出しから車の鍵を取り出して、玄関へ向かった。アパートの前には、独り暮らしを始める時に親に買ってもらった、中古の軽自動車が停めてある。
 普段あまり出歩く性格ではないから、実家に帰省する時と、郊外のショッピングセンターに行く時くらいしか乗っていない。たまにはドライブというのもいいだろう。地図を見る限り、途中まで高速道路を使えばあとは一本道、迷うような道ではない。
 私は手早く着替えて部屋を出た。アパートの前の駐車スペースに、赤い軽自動車が停まっている。
「里子が運転すンのか? 大丈夫かよ、鈍そうなのに」
「失礼なことをはっきり言う子ね!」
「それが取り柄だから」
「取り柄じゃないって」
 まったく。
 確かに私は、それほど運動神経がいい方ではないけれど。
 それでも年に何回か、札幌から三百キロ以上離れたオホーツク海側の故郷まで、自分で運転して帰省しているのだ。新冠までの道のりなんて、その半分もない。
「第一、事故ったって君が死ぬわけじゃないでしょ……っと、あ……ごめん」
 軽い冗談のつもりで言って、慌てて口を押さえた。
 交通事故の話題は、出すべきじゃなかったかもしれない。
 考えてみれば、事故に対して神経質になるのも当然だ。夕樹くんがこうなったのは、交通事故が原因なのだ。
「だ、大丈夫よ。安全運転で行くから」
「頼むぜ。スピードは出しすぎないこと。赤信号や一時停止の標識は厳守すること。運転中は携帯が鳴っても出ないこと」
 自動車学校の教官のようなことを細かく言いながら、ドアをすり抜けて助手席に収まる。私はエンジンをかけた。
「信号無視、だったんだよな。オレもぼんやりしててさ……このところ仕事が忙しくて、寝不足だったから」
「……アイドルも大変だね」
 少しだけ、夕樹くんに同情した。そういえば会ったばかりの時、「最近仕事が忙しかったから、この機会にのんびりする」なんてことを言っていたような気がする。
 売れっ子というのも大変だ。まだ遊び盛りの中学生なのに、夏休みだというのに仕事が忙しくて寝不足だなんて。
 人気者でいるのも、いいことばかりではないということか。
 車は、走り慣れた近所の道を通って、札幌北ICから道央自動車道に入った。
 夏休み中とはいえ平日の昼前、高速道路は空いている。私は法定速度ぴったりで走ったが、それでも分岐点の苫小牧東までは三十分とかからなかった。
 そこで日高自動車道に入って終点の厚真まで。高速を降りた後は、国道235号を真っ直ぐ走れば目的地に着く。
 急なカーブも坂もなく、交通量も多くない海岸沿いの国道。天気もいいし、ドライブにはもってこいだ。
 途中のコンビニで買った缶コーヒーを飲みながら、のんびりと走っていく。
 鵡川、富川、門別といった町を通り過ぎ、やがて車は新冠町に着いた。
 市街地の手前で左折、新冠川に沿って走るその路は通称『サラブレッド銀座』と呼ばれているらしい。道路の両側は、本当に牧場ばかりだ。右でも左でも、今年の春に生まれた仔馬が、放牧地で母馬に寄り添って歩いている。
 夕樹くんの指示に従って、ある牧場の前で車を停めた。
 車を降りると、爽やかな青草の香りが鼻腔をくすぐった。ただしその中に、爽やかとは言い難い馬フンの匂いが混じっていたりする。
 一頭の仔馬が物珍しそうにこちらに寄ってきた。柵の前で脚を止めて、つぶらな瞳で私を見つめている。かすかに首を傾げたような仕草が可愛らしい。
 映画のロケ地となった牧場。確かに、ビデオで見た通りの光景だ。二十代半ばくらいと思われる青年が、汚れた軽トラックを洗っている。同い年くらいの女性が建物から出てきて、その青年に声をかける。二人は夫婦なのだろうか、女性は腕に赤ん坊を抱いていた。
「ふぅん……」
 夕樹くんが小さな声を漏らす。
「里美さん、結婚したんだ」
「知ってる人?」
「ん」
 私の問いに、夕樹くんはかすかにうなずいた。
「里美さんは、この牧場の娘さんだよ。そして向こうが、その彼氏だった秋吉さん。当時はまだ大学生だったけど」
「ふぅん」
「楽しい人でね。撮影が休みの日に遊んでくれたんだ。この川の上流に大きなダムがあってさ、里美さんが作った弁当を持って三人で釣りに行ったり……」
 懐かしそうにつぶやく夕樹くんの横顔を見て、ふと思った。
 当時の夕樹くんは、あの里美さんという女性に憧れていたのではないだろうか。年上の優しい女性に憧れるのは、男の子にはよくあることだというし、ませている夕樹くんならなおさらだろう。
 だから、ここに来たかったのではないだろうか。
 考えすぎ……ではないような気がした。夕樹くんの笑みは、私の目にはどこか寂しげに映った。憧れの人が結婚して母親になっているのを見て、ショックを受けているのではないだろうか。
「なあ、ちょっと行ってみないか?」
 不意に、夕樹くんが言った。
「え?」
「この川の上流、山の中にあるダムさ。すごく景色がいいんだぜ」
 猫のように目を細めて笑う夕樹くん。一瞬前の寂しげな陰は消えていた。
「ここは、もういいの? 来たばっかりなのに」
「里美さんたちに挨拶もできないんだし、いつまでもここにいたって仕方ねーだろ」
「……まあ、それもそうね」
 夕樹くんの姿が見えたり、声が聞こえるのは、相変わらず私だけ。何年ぶりかで懐かしい人たちに会ったのに、今の夕樹くんでは話をすることもできないのだ。
 それなのにいつまでもここにいるのは、かえって辛いことなのかもしれない。
 そう考えて、私は夕樹くんの言葉に従った。






 一時間半くらい後――
「……死ぬかと思った」
「大げさな奴」
 私は、夕樹くんの口車に乗せられたことを、力いっぱい後悔していた。『上流にある大きなダム』までの道路は、運転歴一年ちょっとの私が走るには、あまりにも危険な道だったのだ。
 舗装もされていない狭いでこぼこの山道だったり、急カーブが連続していたり、片側はいつ頭の上から岩が降ってくるかわからないような崖だったり、反対側は落ちたら絶対に助からないような崖だったり、森の中から飛び出してきたキタキツネやエゾシカを轢きそうになったり、ひょっとしたらヒグマもいるんじゃないかと怯えたり。
 夕樹くんは面白がっていたけれど、そりゃあ彼は崖から車が転落したって死ぬ危険がないんだから。だけど私は、体力をすっかり使い果たした気分だった。
 ダム湖の湖岸に降りて、新冠町のコンビニで買ってきたお弁当を広げる。時刻はちょうど、昼を少し回ったところだ。
 そこは、大きなダムだった。
 今いる場所からではダムの施設が見えないので、まるで自然の湖のように見えた。
 透き通った水面が、陽射しを反射してきらきらと輝いている。
 周囲は、鬱蒼とした原生林に囲まれている。
 湖は岸から急に深くなっているようで、底が見えるのはほんの数メートル先まで。岸に沿って、小魚の群がゆっくりと泳いでいた。
「だけど本当に、いいところね」
 お弁当を口に運びながら、私は言った。
 苦労して来ただけのことはある。
 美しい湖と森。
 聞こえるものといえば、鳥や獣や虫の鳴き声、静かにそよぐ風、湖岸を洗うさざ波、時折、魚が跳ねてたてる水音。
 背後の林道をまれに車が通る以外、人工の音はなにも聞こえない。
「落ち着くなあ、ここ」
 私も田舎育ち。都会の喧噪よりも、雄大な自然に抱かれている方が安心できる。
 お腹が膨らんだためか、なんだか眠くなってきた。柔らかな草が生えている木陰に、ごろりと横になる。隣を見ると、夕樹くんも同じことをしていた。寝返りをうって、こちらに背を向けている。
 そういえば――
 大きな欠伸をしながら、ふと思った。
 牧場を後にしてから、夕樹くんの口数が少なくなっているような気がする。ただ黙って、なにか考え込んでいるようにも見える。
 普段はどちらかといえば陽気でおしゃべりなので、違和感を覚えた。
 なにか、声をかけてみようかと思った時。
「……里子って、さあ」
 突然、夕樹くんが言った。
「将来、なりたいものとかある?」
「え?」
 なんの前振りもない、唐突な質問だった。
 一瞬戸惑ってから、小さな声で答える。
「……作家か脚本家に、なれたらいいなって思ってる」
 先日、夕樹くんに読まれた小説も、某新人賞に応募しようと思って書き進めていたものだ。
 笑われるかな、と思った。だけど夕樹くんはなんのリアクションも見せず、ただ黙って背を向けている。
「夕樹くんは?」
 特に興味があったわけではないけれど、なんとなく訊いてみた。返事があることも期待していなかった。ただ、居心地の悪い沈黙を破ろうと思っただけだ。
 だから、夕樹くんが返事をした時には少し驚いた。
「……高倉健、かな」
「は?」
「高倉健に、なりたかった」
 そう言って、夕樹くんは身体を起こす。私もそれに倣った。
「……つまり、俳優ってこと? でも、それならもう夢を叶えたってことだね」
「違うよ」
 返ってきたのは、ひどく不機嫌そうな声だった。
「オレは、高倉健みたいになりたかったんだ。……こんなの、全然違う。オレがなりたかったのは、ちゃらちゃらしたアイドルなんかじゃない!」
「…………、なんていうか……中学生の男の子にしては渋い趣味ね」
 驚いた私は、そんな返事をするのが精一杯だった。
 意外だった。
 日本中の女の子が憧れる人気アイドル。端から見たら羨ましい限りだと思うのに、そんな今の境遇は、本人が望んだものではなかったなんて。
 だけど、そんなものかもしれない。
 いかにも女の子受けがよさそうな、格好いい男の子。無名の子役ならともかく、デビュー早々人気が出てしまった以上、アイドルとして売り出したプロダクションの選択は、むしろ当然といえる。はっきりと言ってしまえば、その方が何倍もお金になるのだ。
「でも……」
 どうやら夕樹くんは、アイドルというものを蔑視しているようだけれど、それは違うのではないだろうか。
 いつの時代だって、人気者はすなわちアイドルなのだ。
 高倉健がいつ、どんな形でデビューしたのか私は知らない。だけど例えば、晩年は刑事ドラマなどで重厚な渋い演技を見せていた石原裕次郎だって、十代の頃は若者のアイドルだったはず。
「アイドルなんて、すぐに飽きられて忘れ去られるだろ? そうじゃなくて、日本の芸能史に残るような、そんな俳優になりたいんだ」
「……なるほど」
 夕樹くんの気持ちも、なんとなくわかる気がした。
 高倉健や石原裕次郎の時代とは、流行のサイクルも違う。
 流行の移り変わりの激しい今の時代、アイドルの寿命は短い。ごく一部の例外を除けば、すぐに流行のピークは過ぎて忘れられ、後にはまたすぐに新人が出てくる。
 今のYu‐ki人気の盛り上がりがあまりにも熱狂的なだけに、冷める日が来るのもそれだけ早くなるのでは……と思ってしまうのだろう。実際、事故当時あれだけ騒いでいたワイドショーでも、Yu‐kiの名前が出てくる回数は目に見えて減っている。
「こんな、バカみたいな熱狂じゃなくて。もっと……細く長くっていうかさ、ちゃんと実力をつけて、しっかりした土台を築いて、一流の俳優になりたかったんだ。なのに社長もマネージャも、CDやバラエティの仕事ばかり入れるし、ウチの親はオレが売れて単純に喜んでるだけだし……所詮、金儲けのことしか考えてねーんだよな」
「いや、必ずしもそうとは……」
「あーあ……辞めちゃおうかなぁ」
 夕樹くんは、またごろりと横になった。
「え?」
「アイドルなんて、辞めちゃおっか? テレビの生放送の時にさ、いきなり引退宣言とかすんの。もちろん社長にもマネージャにも内緒で。みんなびっくりするぞー」
 その光景を想像してみる。そりゃあびっくりするだろう。
 夕樹くんは、悪戯っ子のように瞳を輝かせていた。自分の思いつきが、楽しくて仕方がないといった表情だ。
 この分では、本当に実行しかねない。もちろん、自分の身体に戻れたら……の話ではあるけれど。
 ありそうな話だ。もしもYu‐kiの意識が戻れば、またしばらくはワイドショーの話題を独占するだろう。
 芸能記者が山のように押し掛けてきて、仕事も忙しくなって。
 出会ったばかりの頃の言動を思い出してみると、夕樹くんはそうしたことが嫌いなのかもしれない。いかにも今風のアイドルっぽい外見とは裏腹に、純粋に演技が好きなだけなのかもしれない。
 だけど……。
「……辞めて、どうするの?」
「とりあえず、演技の勉強をもっとしっかりやるさ。今のまま続けてたら、まともな演技ができるようになる前に飽きられちまう。その前に、こっちから放り出してやるのさ。全部リセットして、最初からやり直し」
「……」
 私は無言で、仰向けに空を見つめている夕樹くんの顔を見た。
 かすかに憂いを帯びた顔は、実際よりも年上に見えた。
 やっぱり、顔は格好いいなと思う。
 だけど確かに、少し疲れているようでもある。
 ストレスが溜まっているのかもしれない。
 まだ中学生なのに意に添わない仕事をさせられて、忙しくて遊ぶ暇もないのだろう。
 夕樹くんの気持ちも、わからなくもない。
 忙しい時、物事が思うようにいかない時、人は心の余裕を失って、なにもかも放り出してしまいたくなる。
 私にも、そんな経験があった。
 高校三年の時。
 受験勉強に追われていて、成績は志望校の合格ラインぎりぎりで伸び悩んでいた頃。
 ストレスが溜まって、当時付き合っていた彼に八つ当たりをしたこともある。
 それが、別れたきっかけだった。向こうも同じ受験生、しかも大学受験についてはさらに危機的な状況で、私の我が儘を受け止める余裕なんてあるはずもなかった。
 ちょっとした八つ当たり。
 些細な喧嘩。
 売り言葉に買い言葉。
 そして、別れてしまった。二人揃って「面倒なこと」を放り出したのだ。
 彼は今、札幌の私立大学に通っているはずだが、高校の卒業式以来、会ったこともない。
 高校に入学してからずっと同じクラスで、けっこう気の合う友達で、三年になってようやく『恋人』として付き合いはじめたのに、一年と経たずにあんなつまらない別れ方をしてしまった。
 正直に言って、今でも少し後悔している。
 もっと他に、解決策はあったはず。なにもかも放り出せばいいなんて、癇癪を起こした子供と同じだ。
 ……いや。
 確かに、子供だったのだろう。
 そして夕樹くんは、当時の私よりも年下なのだ。
「……本当に、辞めちゃうの?」
「ああ、辞める」
 むきになって答える夕樹くん。二年前の私と同じように。
「そうなったら、ファンの子たちは悲しむね」
「……すぐにまた、新しいアイドルにキャーキャー言うだけさ」
「だからといって、Yu‐kiに憧れている今の想いが本当ではないということにはならないでしょう?」
「……」
「夕樹くんが事故に遭った翌日、病院の前にたくさんの女の子たちが駆けつけてたよね。みんな、心配していたんだよ。本気で泣いている子もいた」
「……」
 仰向けに寝ている夕樹くんの顔を、上から覗き込む。夕樹くんは無言のまま、気まずそうに寝返りをうって視線を逸らした。
 やっぱり夕樹くんにも、ファンを大切に思う気持ちはあるようだ。彼だって、本当になにもかも辞めたいと思っているわけではないはずだ。ただ、仕事を続けることに伴う様々な「面倒」から、逃れたいと思っているだけなのだ。
「全部、辞めてしまう必要はないでしょう?」
 背中を向けている夕樹くんに語りかける。
「ちゃんと、話せばいいじゃない。ご両親や、マネージャや、社長さんと。自分のやりたいこと、やりたくないこと。そして、もう少し時間の余裕を作ってもらえばいいんじゃない?」
「そんな、めんどくせーこと……」
「話し合うことを面倒だっていって放り出すなんて、やっぱり夕樹くんって子供だね」
 わざと、からかうように言ってみる。彼のようなタイプには、こんな言い方が効果的だと思った。
 案の定、夕樹くんは怒った顔でがばっと起き上がった。
「実際、子供なんだから仕方ないだろ!」
「子供だから仕方がない、か。そんな言い訳を堂々と口にするようじゃあ、高倉健みたいなシブーい俳優にはなれないね。健さんならきっと、泣き言なんか言わないよ」
「……っ!」
 私を睨みつけて、ぎゅっと唇を噛む。
 すごく怖い顔をしていて、本気で殴られるんじゃないかと思ったほどだ。けれど、今の夕樹くんでは私を殴ることなんてできはしない。だから、安心して挑発できた。
「くっそー。将来、里子が脚本家になったって、オレは里子の脚本なんて演ってやらないからな!」
「そんな憎まれ口たたくなんて、ますます子供。私のシナリオには、お子さまの大根役者の役はありませんよー、だ」
「てめぇ……」
 怒りにまかせて立ち上がった夕樹くんは、しばらく私を見下ろしていたが、そのまままた腰を下ろした。
 仏頂面のまま、ぽつりと言う。
「……なんでだよ」
「え?」
「里子は、オレに辞めさせたくないんだろ。なんでだよ?」
「えっと……なんで、かなぁ」
 あらたまって訊かれると、自分でもよくわからなかった。夕樹くんがどうなろうと、私には関係ないことのはずなのだ。
「やっぱり……さ、ちょっともったいないよ。ビデオとか見てて思ったけど、夕樹くんってやっぱり格好いいもの。辞めちゃうなんてもったいないよ」
「……なんだよ、それ。もっとマシなこと言えよ。そっちの方がよっぽど子供っぽい意見じゃねーか!」
「私は別に、高倉健とか吉永小百合とかを目指してるわけじゃないしぃ」
「……ちぇ」
 夕樹くんは、また草の上で仰向けになった。
 私はしばらく夕樹くんの顔を見つめていたけれど、それ以上なにも言う様子がないので同じように横になった。
 人の声がなくなると、ここは静かな場所だった。
 そよ風に揺れる樹々の葉が触れ合う音。
 蜂か虻の飛ぶ羽音。
 そして、自分の呼吸と、鼓動。
 こうして大地に身体を委ねていると、身体の中の、心の中の不純物が、全部溶け出していくようだ。
 夕樹くんがここへ来たがった理由、今ならわかる気がする。
 私たちはそのまま、夕方近くまで木陰で午睡をしていた。






 新冠町には『レ・コードの湯』という温泉がある。
 ここまで来たついでに……と、帰る前にちょっと寄っていくことにした。
 温泉なんて久しぶりだ。普段、アパートの狭いお風呂にばかり入っているから、広々とした大浴場や、くつろげるミストサウナや、太平洋を見渡せる露天風呂は嬉しくて仕方がない。
 新冠ダムからここまでの、異常に神経をすり減らすドライブの疲れもあって、私は心ゆくまで温泉浴を楽しんでいた。
 首までお湯に浸かって、浴槽の縁に寄りかかるようにして目を閉じる。
 ……と。
「里子って、脱ぐと胸でかいな。意外とスタイルいいじゃん。普段からもっと露出の多い服を着ればいいのに」
 そんな台詞に目を開けると、目の前に夕樹くんが浮かんでいた。
「ゆっ……!」
 大声を上げそうになって、慌てて口を押さえる。夕樹くんの姿が見えるのは私だけ。ここで騒ぐと、周囲からは単なる変な人にしか見えない。
「なっ、なんでここにいるのよっ! ここ、女湯よっ?」
「だって里子ってば長湯なんだもの。オレは風呂に入れないし、待ちくたびれたよ。それに考えてみれば、今なら女湯を覗いてもバレないんだもんな」
「あのねぇっ!」
「……と思ったけど、おばさんとガキばっかりだな。つまらん」
「おば……」
 ひどい言い方だ。
 確かにこうした温泉なんて、ある程度年輩のお客さんと、その子供が多い。「おばさんとガキばっかり」というのもあながち間違いではない。
 だけど、二十代後半から三十代くらいの女性だってけっこういるのに……と考えて気がついた。
 夕樹くんはまだ中学生なのだ。小学生なら「ガキ」だろうし、二十代後半以降は彼から見たら「おばさん」なのかもしれない。町営温泉においては、ティーンから二十歳前後までの年齢層は確かに少数派だ。
「仕方ない、ここは里子の裸で我慢するか。里子が巨乳なのがせめてもの救いだな」
「ば、ばかっ! 見ないでよ!」
 周囲には聞こえないように言いながら、両手で胸を隠す。お湯をかけてやろうかとも思ったけれど、もちろん夕樹くんに対しては何の効果もない。
 長湯のせいではない理由で、顔が火照ってくるのを感じる。
 ここが、登別のカルルス温泉みたいに濁ったお湯だったらよかったのに。困ったことに、お湯の透明度はかなり高い。
「夕樹くん、覗きは犯罪よ」
「日本の刑法って、霊体の覗きも処罰するのか? 幽体離脱して女湯を覗いたなんて、裁判所じゃ通じないと思うけどなぁ」
「あのねぇっ! もうっ!」
 ここで、選択肢はふたつ。
 所詮相手は子供でしかも実体じゃない、と気に留めずに入浴を続けるか。
 さっさと上がって服を着るか。
 私は結局、後者を選んだ。
 いくら中学生とはいえ、男の子にじろじろ見られながらくつろいで入浴できるほど、太い神経は持ち合わせていない。彼とだって一緒にお風呂に入ったことはないのだから。
 やっぱりというか、夕樹くんは脱衣所までついてきた。
 身体を拭いて服を着るまでのほんの数分間が、これほど長く感じたことはなかった。