■ レインタクト 第10幕<1>
水瀬 拓未様


 二年生の寮、鈴蘭。今夜もその部屋に、いるべきはずの結花はいない。
「……帰ってこない、か」
 2段ベッドの上に寝転がり、天井の蛍光灯に手のひらをかざす。
 その手のひらを使って、今日、初めて結花の頬を叩いた。感触はもう残っていないけれど、それでもこうして手をかざしていると、その向こう側にあの時の光景が浮かんだ。
 門限になっても部屋に戻ってこない結花。彼女は今夜も別棟、おそらくは一年生の棟に泊まるのだろう。
「避けられてる―――なんてこと、あるわけないか」
 一緒に暮らして一年、結花のことは自分なりに理解していると思う。そんな芹菜にとって、自分に遠慮したり、気まずいから帰ってこない結花、というのは想像できない。
 良くも悪くも自分の考えに素直で、それでいてどこか不器用な感じの結花。
 今夜もおそらく、純粋に誰かと一緒の時間を過ごしたいだけで、だからこうして本来自分が帰るはずの部屋を留守にしているんだろう。
「でも、それだってあたしの思いこみだし……」
 ルームメイト、そんな言葉が浮かんでくる。なんと曖昧な関係だろうと、芹菜は自嘲するように唇をわずかに緩めた。
 一年前、入寮した頃を思い出す。二人一組で住む部屋には当然同居人がいて、芹菜が一緒に過ごすことになったのは、並木結花、という名前の少女だった。
 芹菜も里奈と同じようにあまり噂を気にしないほうだったから、当時彼女がどんな人物であるのかは知らなかった。まして里奈と結花が接触して騒ぎになっていた頃、芹菜は美優を失ってから間もなく、学園内の噂を聞き入れているような余裕もなかった。
「よろしくね、桜野」
 初対面の印象は、綺麗な人、だったように思う。握手を求めるために差し出された手は細くしなやかで、どこか現実味がなかった。
 やがて、新しく寮生となった新一年生の荷物が次々と運び込まれてくる。賑やかに、そして騒がしくなる寮内。自宅が近かったせいもあって芹菜の荷物は比較的少なかったのだが、それ以上に結花の荷物は少なく、紙袋と段ボールがひとつ、という状況だった。
「いいのよ、私の家も近いから。必要な物は、いつでも取りに行けるもの」
 荷物の量にいささか驚いた芹菜が問いかけると、結花はそう言って笑う。
「目に見えるものなんて、あまりアテにならない。だから、大切なものはここにしまえるものだけで充分よ」
 自分の胸に手のひらをそえて、結花は呟いた。それはどこか自虐的で、だからなおさら芹菜の記憶に残っている。
 結花が学園内ではそれなりに名の知れている有名人である、というのは、その後すぐに知った。何気ない会話の流れで同居人となった結花の名前を出したところ、それまでにこにこと笑っていた咲紀が、その表情を曇らせて教えてくれた。
 咲紀いわく、並木結花という生徒は入学早々にして担任に反抗し、誰も近寄ることはなかったらしい。ところが中等部の三年生になったころに他の生徒と口論を起こし、その後下級生と交際を始め、今では何人かの女生徒と二人きりでいるところを目撃されている、という。
 話を聞き終えたとき、芹菜はなんとなく頷くのが精一杯だった。咲紀の話を鵜呑みにすると、自分がこれから三年間一緒に暮らしていく同室の少女はいわゆる問題児、ということになる―――のだろうか。
 けれど、初めて挨拶を交わしたときの印象を思い出せば、芹菜には結花がとてもそんなふうには見えなかった。それに、妹という年下の同性を本気で好きだった芹菜は、その噂話のなかの結花に、奇妙な親近感を感じなかった、といえば嘘になる。
 結花が下級生と抱き合っている姿はきっと絵になるのだろう、なんて想像をわずかでもしてしまったのだから。
 そして、そんな想像してしまった光景を実際に目の当たりにするのにあまり時間はかからなかった。
 夏休みに入る前、委員会の用事が思ったよりも早く片づいて、いつもよりも早く寮に帰ってこれたその日。自室のドアをあけると、そこに頬を重ねるようにして抱き合っている少女たちがいた。
 結花。そして、中等部の制服を着ているもう一人の誰か。
 結花に抱かれている少女は背中しか見えなくて、その顔は分からない。
 その少女を抱きしめている結花と、視線がぶつかった。
「おかえりなさい、芹菜」
 反射的に息を呑んだ自分に、結花は微笑みながらそう言ったと思う。焦るそぶりはなく、かえってそれが自分が慌てているのではないかと芹菜を錯覚させた。
「あ、ごめん」
 かろうじて声に出せたのはそれだけ。その後、まるでからくり人形のように、ドアを開けた時の動作を巻き戻すようにドアを閉めたことをなんとなく覚えている。
 思えば、あの時から結花は自分のことを名字ではなく名前で呼び始めた。
 それから何度も、結花は寮の部屋に女生徒を招いた。それは決まって下級生で、初めこそ戸惑っていた芹菜も、秋が終わる頃にはだんだんと慣れていった。
 もしかしたら、結花は自分の反応が楽しくてこんなことをしているのではないか。
 そう思ったこともある。だから結花が誰とどんなことをしていても、なるべく冷静に対処してきた。
 けれど、それは終わることはなく。それどころか初めの頃は抱き合っていただけだったのに、いつのまにか芹菜の前でキスをするようになり、最近では露骨にではないものの、肌を重ねていることすらある。
「でも、人のことは言えない……か」
 ふと真奈美の顔が浮かんできて、芹菜は苦笑した。彼女との出会いはこの部屋で、互いの名前すら知らなかったのに、自分は彼女をその腕に抱いたのだから。
 美優を失ってからずっと、誰の肌にも重ならなかった指。
 二年という月日が過ぎて、ようやく美優のことを思い出すとき、切なさだけでなく優しさも感じられるようになってきていた。
 いつかは、また誰かの肌に触れたいと思うのだろうか。
 そんなことを、漠然とではあるけれど考えていたような気がする。だというのに、その機会は突然にやってきて、自分は結果としてそれを受け入れた。
 熱を与え、熱を吸い取る指先。
 知っていたのに忘れていた感覚。
「ああ、だから――」
 次の日の放課後、図書室で咲紀から告白を受けたとき。ずっと親友だと思っていた彼女から押し倒され、告白をされたとき。
 見上げたそこに知らない瞳があって、知らない匂いが全身を包んだ。紡がれる囁きが耳から体に染みるたび、彼女がどれほど自分を思っていたかが伝わってきて。愛おしさにも似た想いが沸き上がってきて、冗談めいた言葉で咲紀を誘った。
 あの時、もし咲紀が頷いていたら。自分は、それを受け入れていただろうと思う。身体は出来上がったのに、なんて表現をしたけれど、それは嘘じゃなかった。
 真奈美を抱き寄せ、包むことで思い出してしまった感覚。相手を好きなら好きなほど、それは神経を溶かすように染みこんでいく。
 二年前、それは突然の別れだったから、断線したかのようにすっぱりと途切れていた。けれど鮮烈だったそれは風化することなく、その断線した箇所にいつのまにか埋没していただけ。置き去りなどではなく、自分の中にその衝動があったことすら忘れていた。
 だけど、それがどんなに自分を満たしていたのか、体はちゃんと覚えていた。
 美夜と唇を重ねていた結花を見て、弾けた感情の中には羨ましいと感じていた自分がいるのではないか。一瞬でもそれを考えてしまえば、否定することが出来ない。
 美夜と口づけている結花と自分の姿を、すり替えたりはしていないか。
「ああ、あたしはなんて……」
 それは運命と呼んでも差し支えない出来事だっただろう。
 大好きだった美優。けれど彼女はある日、前触れなくこの世から去ってしまった。
 そんな美優の、本当の姉である美夜との出会い。
 しかも彼女は美優と双子で、とてもよく似ていた。
 だから、そんな奇跡みたいな出会いだから。
 いつかきっと、彼女とも親しくなれるはずだと。
 彼女とも特別な関係になれるのではないかと、どこかで信じていた。
 心の奥から沸き上がる声。
 それは紛れもない自分の本音。
「最低――」
 目蓋を閉じて唇を噛む。美優のことを思い出そうとするのに、脳裏に浮かんでくるのは美夜の顔ばかりで、それが情けなくてなおさら唇を噛んだ。
 なのに、身体はどこかでそれを欲しがっている。こらえるほどにくすぶる火種によく似た何かが、自分を焦がそうとじわじわ入り込んでくる。
 いや、もしかすると染み出しているのかも知れない。
 自分でもそれがなにか分かる。分かるから怖い。その火種がもしも燃え広がったら、自分は結花と同じように美夜を求めてしまうのではないか。
「美優……」
 呟いたのは大好きだった妹の名。この火種が消えるように、そう願って雨を求めた。雨が降れば、あの日のことを思い出せるのに。
 雨は妹の記憶をつれてくる。だから、雨が降れば、こんなくすぶりは怖くない。たとえそれが悲しい記憶でも、つらい記憶でも、美優のことが思い出せるなら。
 いつの間に乾いている唇をきゅっと噛み、芹菜は自らの身体をぐっと抱きしめた。