■ レインタクト 第10幕<2>
水瀬 拓未様


 夢を見ていた。
 中等部の制服を着ていた。自分はどんなときも一人きりで、それを都合が良いと考えていた頃。初めて、里奈に声をかけられた。
 密度の濃い数日。夕暮れの教室と、知らなかった感情。そして、保健室で聞かされた言葉から壊れていく心と、それを救ってくれた小さな少女との出会い。
 昔話と呼ぶにはまだ少し新しい、二年前の記憶。
 初めて唯と一緒に眠ったのは、唯から妹になりたいという願いを聞いた夜。きっと不器用だった愛撫に、彼女はそれでも涙を浮かべて笑ってくれた。
 そして、誰かと肌を合わせることの心地よさを、彼女から教えてもらった。
 触れあう面積が大きくなるほどに、早くなる鼓動。指を一つ一つ絡め、そして握る。たったそれだけの行為でも、薄暗い部屋の中ではなにかの儀式のようだった。
 恥ずかしいと感じて、そんな自分はらしくないと思う。それでも、目の前の少女ならそんな自分でもさらけ出せると一歩踏み込んで、唇と舌でその肌に触れた。
 初めは小さな、吐息のような声。自分が声を漏らすことよりも、相手が漏らした声を聞くことでそれは加速した。重なっている素肌の熱さが、自分のものなのか、相手のものなのか分からない。ただその火照りは心地よく、もっと欲しいと感じた。
 それは生まれて初めての感覚と衝動。そして、今の自分を動かす一部。
「おはよう…」
 唯の耳元にそっと囁き、ゆるりと起きあがる。まだ眠る唯を起こさないように、そっと二段ベッドの下の段から抜け出す。
 唯の部屋は一人部屋だった。今年度の高等部新入生には寮生が少なく、希望すれば一人部屋を与えて貰うことが出来た。それでも、相部屋が寮生活の醍醐味だと感じている生徒も多いようで、一人部屋を希望したのは唯を含めても数人しかいなかったらしい。
 一人部屋を希望した理由を唯は言わない。けれど、おそらくはこういうときの為になんだろう、と結花は思っている。実際、いま結花が着ているのは唯が用意してくれた大きめのパジャマで、こういった物を用意してあることでも唯の気持ちが分かる。
 せっかく同年代の生徒と寝起きを共に出来る機会があったのに、彼女はそれを放棄してまで、自分のために場所を作ってくれた。
「……悪いものでもないのに」
 もともと自立心が強かった結花は、寮に入りたくて花梨女子を選んだ。母親は少し寂しそうに、それでも反対はしなかった。子供の頃からあまり自己主張をしなかったから、きっと自分からなにかを決めたことが嬉しかったのかもしれない。
 初めて誰かと寝起きを共にする、その相手が芹菜だった。ずっと違うクラスで、寮で挨拶したのがほぼ初対面だったはずだ。
 名前を名乗っても反応が薄く、彼女も里奈と同じように自分の噂を知らないんだな、ということは理解できた。もっとも、その頃に流れていた噂の内容は、一年前の、里奈の時とはだいぶ違っていたけれど。
 下級生なら願い出れば誰でもキスをしてもらえるとか、付き合っている下級生の数は両手の指でも足りない、とか。なかには、教員の誰かと付き合っているのをカモフラージュするために下級生に手を出している、なんて話まであった。
 それは全て、唯が教えてくれた話だ。聞いているうちにおかしくて笑っていたら、笑い事じゃないと唯にたしなめられた事を覚えている。
 初めて唯以外の下級生から告白されたのは、中等部の卒業を間近に控えた頃だった。自分を好きだと伝えてうつむいている相手を、結花は抱きしめた。
 名前すら聞いたばかりの相手。好きか嫌いかと問われれば、なんと応えて良いのか分からない。ただ、その気持ちには焦がれた。
 素敵な恋愛をして欲しいと、願われた。そんな自分に、欠けている何か。
 誰かを好きだと思える気持ち、それを伝えることが出来る心と、そして、そんな相手に想われている自分。
 だからこそ、こんな自分でもその想いと等価になる行為を探し、そして迷いながらも彼女を抱きしめた。腕の中で、声にならない声が漏れる。それはいつかの声に似ていて、知らずに、彼女を強く抱きしめていた。
 その少女とは、それ以上の関係にはならなかった。キスをしたわけでもなく、ただ、抱きしめていただけ。けれどその少女は二度と会いに来ることはなく、代わりに、自分の噂には尾びれと背びれが付いた。
「…でも」
 たぶんそれが普通なのかもしれない、と思う。
 憧れていたものや環境を手に入れたことで得られる達成感や充実感は、どこかで人を停滞させる。おもちゃを欲しいとねだっていた子供が、買って貰ったことで満足してしまい、おもちゃそのものには早々に飽きてしまうように。世話をすると約束して飼い始めた動物の世話を、いつのまにかなまけてしまうように。
 知らぬうちに目的がすり替わり、そこで終わりになってしまう望み。
 あの少女は、誰かに恋をする自分自身に憧れていたんじゃないか。だからそれを伝えることで、抱きしめられるという形で叶ってしまったから、その後は続けなくても良いし、そもそも、続きを想像したこともないんだろうと、結花は思う。
 唯がどれほどまでに自分を慕い、そしてずっと想ってくれていたのか。少女を一人抱きしめたことで、結花はそれを知った。
 以来、数人の後輩から告白を受けた。中等部の卒業式には、好きです、と告白して逃げていく可愛らしい集団もいたし、高等部にあがってからも、告白の手紙ならかなりの数をもらっている。
 そして、その中の数人とはキスをしたし、それ以上の関係をもった相手もいる。真奈美のように、自分から声をかけて誘ったことも何度かあった。
 けれどその全ては一度きりで、繰り返しそれを求められたことはない。
 どこか特別視された扱いの誰かを好きでいることで、自分自身が満たされる。それは珍しいことではないと思う。たとえば歌手であったり、俳優であったり。手の届かない場所にいる誰かを好きでいる気持ち。
 それは一方通行である代わりに、とても安全で壊れることがない。始めるときも終わらせるときも、自分の判断一つで決めることが出来るのだから。
「有名人、か……」
 呟いた響きが可笑しくて、結花は小さく笑う。
 中等部に入ったばかりの頃、担任にささやかな反抗をしたことで噂が流れた。それは都合が良かったし、事実だと思ったから否定しなかった。そうして、誰とも触れあうことのなかった平穏で静かな時間。里奈に出会うまでの二年間は、噂の力で保たれていたといってもいい。だからこそ噂を恐れずに告白してきたとき唯には躊躇したし、噂に左右されないで接してきた里奈の存在に戸惑った。
 今では噂も変わって、側にいたら教員から目を付けられる不良は、何人もの下級生と関係のある一部で憧れの対象となった。けれど、それで何かが変わった訳じゃない。ほとんどの生徒からすれば、触らぬ神に祟りなし、といった具合で、今も昔も遠巻きからあれこれ言われている。
 でも、自分は憧れという感情を嫌いな訳ではない。
 むしろ、自分だって憧れている。
 あの日以来、ほとんど喋らなくなって。廊下ですれ違うたび、どこか牽制しあうように軽口を言い合えるような関係になるまでには、高等部にあがってから半年以上の歳月が必要だった。彼女の目の前で、名前も知らない下級生の頬に触れながら、そんな自分をどんな目で見ているのかと横目で窺う。
 どうしたい、どうなりたい。そんな理想があるのかどうか、自分でも分からない。
 ただ、どこかで意識していてほしいだけ。
 屈折している。それは分かっているけれど、でも、自分はどこかで。

 ずっと、かまってほしかったんじゃないかと―――

 今も昔も、一番知っている瞳は自分のもの。誰も自分と関わろうとしない中で、いつも見つめ合っていた鏡の中。
 こんな目をしているのは、自分だけだと思っていた。
「白石美夜……」
 呟くのは、覚えたばかりの名前。
 彼女の瞳は、どこか自分と同じような気がした。瞳が似ているだけで、全てが自分と同じとは限らない。でも、あの子はきっと自分と通じる何かをもっていると結花は思う。
 それは、確信に近い。
 好きな人が出来たのかと、唯は自分に問いかけていた。無言をその答えにしたのは、この感情が好きという気持ちなのかどうか分からなかったから。
 美夜に無理矢理口づけた時のことを思い出す。キスなら何度だってしてきたけれど、奪うように強引なやり方は初めてだった。
 夕暮れの教室。朱色の視界は、どうしても意識を二年前に巻き戻す。忍び寄ると美夜が振り返って、彼女と視線が重なったとき、なにかがカチリとはまった。
 えも言われぬ衝動。近い言葉を探せば、それは壊したい、になるだろうか。
 目の前に、二年前の自分が立っているような錯覚。里奈が見ていた私はこんなふうかもしれないと思ったのは一瞬。芹菜が戻ってくることは分かっていたのに、それを忘れてしまうぐらいにその口づけは深く、だから本当に愛おしかった。
 やがて教室の戸が開く。
 芹菜がこういう場面を目撃するのは珍しいことじゃない。だというのに、彼女は明らかに自分へ敵意を向けてきた。
 今までの芹菜とは明らかに違う反応に、美夜と芹菜の関係がただの先輩と後輩ではないと感じた。だから、それを試すような言葉が口をついて出てきた。
 頬に感じた痛み。それは、美夜が芹菜にとって特別だという証。
 けれど、それ以上に結花の心に残っていることがある。それは、振り返りもせず教室を出て行いく芹菜に手を引かれていた美夜の顔。
 一瞬だけ振り向いた、その表情。
 結花にはそれが不思議なくらい、悲しそうに見えた。