■ レインタクト 第9幕<2> 水瀬 拓未様 だから―――あの頃から私に親しくしてくれたんですか。 その言葉が焼き付けられたように頭から離れなくて、里奈は立ち去っていく唯を見送ることしか出来ず、ただ、椅子に座っていた。 そんなんじゃない、と、出かかった言葉を呑み込む。それは偽りだと思ったから、口に出来なかった。 だって、自分は彼女に感謝していた。溺れたら保健室に連れて行かれるのは当たり前のことかもしれないけれど、でも、あの時自分を運んだのがのが彼女だという事を恵美理から聞かされてからというもの、どこかで彼女を特別視していたのは間違いない。 身勝手な感謝、身勝手な親切。それは、自己満足ではなかったのか。 唯の言葉。そこには結花のことを本気で好きだという気持ちが詰め込まれていて、聞いているうちに、胸がちくちくと痛み出した。 自分が、あと一歩踏み込めなかった理由がそこにあるような気がする。手を伸ばせば届く距離にいただろう結花に、結局、触れることが出来なかった訳。 憧れていた恵美理に近付きたかった。彼女のようになりたいと思っていた。 自分を助けてくれたあの人。だから自分も誰かを助ければ、もっと恵美理に近づけるんじゃないか、そう思ったことがないと言えばそれは嘘になる。 結花を抱きしめたいと思った。独りじゃないと伝えた、その言葉が本当なんだと。なのに出来なかったのは、その行為が自己満足だと無意識に気づいていたからなのか。 唯へ親切にしたように、結花にも同じように世話を焼いて。恵美理から分けてもらえた何かを、ただ自分だけのものにしておくのがもったいなくて、誰かに伝えたくて。 そうしていれば、自分も恵美理のようになれるんじゃないかと夢見ていた。 「でも…」 結花のことを好きだった。唯の好きとは違うかもしれないけれど、里奈は彼女と言葉を交わした夕暮れでの教室の時間を、なかったことにしたくない。 あの時、初めて微笑んだ結花の顔。それを忘れられる日は、たぶんこない。 「…あ」 気づけば食堂には人影も少なく、壁の時計を見れば昼休みが終わろうとしている。自分がどれほど考え込んでいたかを時間に教えられた里奈は、慌てて立ち上がると、食べかけのランチを片づけた。 不意に、昼休みにでもいらっしゃい、という今朝聞いた恵美理の声が蘇る。記憶を頼りに再生される恵美理の声と、それに寄りかかってしまいそうになる自分。 会いに行けば、あの人はきっと私を助けてくれる。 優しい声、強い言葉。好きな人に支えられたからこそ、今の自分がある。そんな今の自分になってようやく気づいた結花の存在。 自分が得たと思っていたそれは、借り物の強さなんだろうか。 「…ずっと並木先輩の事を見てました、か……」 思い出して呟く後輩の言葉。飾っていないからこそ強い唯のそれが、里奈にはとても羨ましかった。 恵美理のことを大好きだという、その気持ちに偽りはない。でも、彼女の優しさに包まれて、その心地よさに甘えている自分が恵美理に抱いているそれは、はたして恋なんだろうか。 恵美理のことが好きで、好きだからこそ憧れ、恵美理のようになりたい里奈。 けれど唯は、結花になりたいわけじゃない。自分は自分のまま、笹木唯として並木結花の側にいたいと望んでいる。ずっと結花を見つめ続けて、その視線に気づかれなくても、ただ一心に結花のことだけを思い、そうして月日を重ねてきた唯の気持ち。 それはきっと恋心。だから、あんなにもストレートに感情がぶつかってきた。 「だから―――」 なにも言えなかったんだろうか。 先刻、立ち去ろうとして椅子から立ち上がった唯に向かって、里奈は声をかけようとした。実際いくつもの言葉が浮かんできたのに、どれひとつとして選べなかった。 どの言葉も、自分の言葉じゃない。そんな気がした。 心の中にたくさんの言葉が眠っていて、それは恵美理がくれた大切なもの。その言葉に触れたときの優しさ、強さ、寂しさ、そんなたくさんの気持ちを忘れない。 だからそんな言葉ならきっと、結花を独りにさせないと。 「あたし、なんて馬鹿…」 呟いたら、涙が溢れてきた。じんわりと熱くて、まばたいたらぽろりと落ちる。 唯と話さなければ、気づかずにいた。 身勝手な自分。優しさに見せかけて、自分の理想を結花におしつけた自分。心の中にあるたくさんの強さ。自分はいつのまにかそれを試したくなっただけだ。 結花じゃなくても良かった。求めたのは彼女でなく、昔の自分と似ている誰か。 自分が恵美理になれる誰か。 「結花…」 彼女の名前を呟く声は、響く予鈴の音に掻き消された。 止めていた足を再び動かして、自分の教室を目指す。このまま教室に戻って、そこで結花の顔を見たらどうなってしまうんだろう。 「そうだ、顔…」 泣き顔のまま教室に戻るわけにはいかない。そう思い、鏡目当てに近くのトイレに立ち寄った里奈は、トイレの洗面台で手を洗っている二人の女生徒がしている会話から、その名前が聞こえて息を呑んだ。 「でも、びっくりしたよね。あれ、やっぱり付き合ってるのかな」 「相手の子、嫌がってるふうにも見えなかったよ。っていうか、私には下級生の子が並木にキスしたように見えたけど」 下級生、という単語で里奈が思い浮かべたのは唯の顔。 小柄な唯と、すらりとした結花のシルエットが綺麗に重なる。つま先立って結花の体にしがみつくように抱きついている唯と、そんな彼女と唇を合わせている結花が想像できる自分に小さな痛みを覚えながら、里奈は空いていた一番隅の洗面台に手をついて、その蛇口をひねった。 手のひらに溜めた水を、ぶつけるようにして顔を洗う。制服のままで良いからプールに飛び込みたいという気持ちがこみ上げてきて、水がとても恋しかった。 初めてのキスの後、彼女の名前を聞いて結花は驚いた。何事もなければ、きっと自分も名乗っていたであろう姓名。まさか、という気持ちと、もしかしたら、という期待。けれど家族について訪ねると、唯はわずかにうつむいてから答えた。 母は元気です。でも父はいません、と。 結花はそれ以上なにも聞かなかった。ただ、うつむいてしまった彼女に、自分も父親がいないことを告げる。驚いたように顔をあげた唯に、結花は笑ってみせた。 以来、二人は一緒に過ごすことが多くなった。 唯を扱う周囲の態度が変わったのはそれからすぐのことだ。どんな視線にでも耐えられる自信のあった唯にとって、その反応は意外だった。 クラスメイトや友人が、憧れと畏怖の混在した視線で自分を見ている。 「並木先輩ってどんな人? やっぱり怒ると怖い?」 「並木さんとキスしてたって本当?」 自分ではなく、自分の向こう側にいる結花に向かって問い掛けられる言葉。同時に、そんな彼女と一緒にいる自分に対しての、奇妙な尊敬。 初めて、結花がどんな視線に晒されていたのかを知った。まるで檻の中の獣を眺めるように、どこかで見下しながら、自分ではかなわない事に恐れている沢山の誰か。知れば知るほど、それは恋心だったものに降り積もり、気持ちを変えていった。 もっと近い場所にいたい。恋人よりも、もっと結花に近い場所に。 そう考えて、それは家族かもしれないと思った。だから、妹になりたいと。 いつのまにかそんなことを考えるようになった。 終わりが怖くて始められなかった片想い。偶然が重なることで動き始めた歯車と、その勢いから告白して、こうして一緒になってからもずっと拭えなかった不安。 恋はいつか、終わりがくるんじゃないか、と。 始まった恋が必ず終わるとは限らない。けれど、恋は絶対に終わらないと決められているわけでもないのだから。 冬。中等部の三年だった結花が高等部の寮に入る前に遊びに行きたいと、唯は頼み込んで彼女に家に泊まりにいった。初めて結花の家にあがる。まるで生活感のない家の中の様子を見て、唯の想いは目標に変わった。 私はこの人の家族になりたい。 「妹になりたいって言ったら、どう思います?」 「えっ…? それ、どんな冗談?」 細い指でフォークを操り、駅前のケーキ屋で唯が選んできたミルクレープを崩しながら結花が笑う。 「冗談じゃないですよ、本気です」 「…妹が、いいの?」 恋人じゃなくて、という意味の含まれている問い。結花の言葉に、唯は頷いた。 「ずっと一緒にいられるじゃないですか。家族なら、ずっと」 たとえ、それが二人だけの取り決めであったとしても。ままごとのように、他人が聞いたら失笑するかもしれない関係であったとしても。 それに、唯はもう知っている。結花が自分に向ける感情に恋が含まれていない事を。大切に扱われて、とても優しい結花の気持ちに触れるたびにどこか寂しかった心。 ずっとずっと独りでいようとしたからなのか。唯の大好きな人は、好きになり好かれることに不慣れで。時間が過ぎるほど、その気持ちは強くなった。 あんなに夢見ていたキスを繰り返しても、どこかで満たされなかった器。一緒にいるからこそ、唯にはそれがなんであるのか分かってしまった。 もしかしたら奪うように強引に回し始めたから、それを恋にするために必要ななにかが欠けてしまったのかも知れない。けれど、なにが欠けているのかなんて唯には分からないし、全てが足りていても、結花と関係が恋に変わる保証なんてない。 だから、この関係に名前がつくなら恋人でなく姉妹がいいと。 最初からずっと終わらない関係を望んでいた自分には、そのほうが似合うと思った。 「姉妹になったら、キスひとつにしてもなんか背徳な感じがしていいです」 本当の理由を隠して、唯は微笑む。 妹になってから初めてのキスは、ケーキの甘い味がした。 「…妹からのお願い、聞いてくれますか?」 唇を離して、伝える。 「素敵な恋愛、してください」 あの日、階段でぶつかったときに微笑んだ笑顔。結花のあれ以上の微笑みを、唯はまだ知らない。もし、あのときとおなじ微笑みが見れたらと、そう思う。 そのためにはきっと、本当の恋が必要だと思うから。 唯の言葉を聞いた瞬間、結花の脳裏には里奈の顔がちらついて消えた。それでも唯の言葉に、小さく頷く。 正直、自信はない。それでも自分自身どこかで、そうなったらいいと。またあんなふうに笑えるなら、それも悪くないと、そう思った。 「でも、私が誰かを好きになっても、相手はきっと逃げちゃうわよ?」 「だって私は並木結花だもの、ですか?」 どこか苦笑ともとれる微笑みを漏らす結花の言葉を継いで、唯は笑う。 「結花さん、もう私と一緒に過ごすようになって半年以上経ってるんですよ? いくら噂に興味なくても、もっと自分のことには関心もってください。結花さん、下級生の間ではかなり人気あるんですから」 そう言って、唯は空になった結花のティーカップに二杯目の紅茶を注ぐ。 実際、結花の噂は唯と一緒に過ごすようになってからかなり変化していた。誰も近寄せずにいた彼女が、下級生である唯と一緒に過ごし、時に笑っている姿は、以前の噂を徐々に打ち消している。近づきがたく、ある種畏怖の対象だった彼女のその変化は、憧れの対象を求めていた一部の生徒にとって、とても魅力的に映っていた。 「…きっと春になって高等部の制服を着たら、結花さんは憧れの的です。…だから」 意識して言葉を句切ると、ティーカップに向いていた結花の視線が自分を見る。 「だから……そんな憧れの的になるまえに。もう一つ、お願い聞いてくれますか?」 「…なに?」 唯のついでくれた紅茶。それに口をつけてから、結花はそっと問い返した。 「一度だけで良いです。今夜だけでもいいから、その…抱いて下さい」 断られてもいいから伝えたかった正直な気持ち。けれど、結花ならきっと聞き届けてくれるだろう、という自信もあったから、唯はそれを口にした。 初めて肌を重ねる相手は、この人以外、想像出来なかったから。 「…あんまり上手に出来ないかもしれないわよ? そういうの、初めてだから」 どこかで予想していたのか。結花は持っていたティーカップをそっとテーブルに置きながら、そんな日常の動作と同じぐらい自然に、そう答えていた。 |