■ レインタクト 第10幕<3>
水瀬 拓未様


 久しぶりに快晴と呼んで差し支えない空が広がっている。吹く風もどこか心地よくて、スカートがひるがえることを気にする生徒もあまりいないようだった。
 けれど、芹菜の心は快晴には遠い。
 昨夜から続く、立ちこめるような不安。それが心をくるむように支配していて、授業の内容は頭に入らず、時の流れはどこか不確かだった。
「芹菜、どうする?」
 気付けば、自分の顔を覗き込むように咲紀が立っている。
「え? どうするって?」
「お昼休みにどうするっていったら、お昼ご飯のことに決まってるじゃない。……芹菜、大丈夫? あ、なんで数学のノートでてるの? あれ3限目だったよ?」
 言われて、机の上の教科書とノートがちぐはぐな組み合わせであることに気付く。教室の時計を見ると、針は今が昼時であることを示していた。
「あ、はは…。うん、だいじょぶだよ。ちょっとぼーっとしてて。お昼だっけ?」
 言いながら、芹菜は開きっぱなしの教材を机の中に片づけた。久しぶりに良い天気になったからか、どこか活気のある声があちこちから聞こえている。
「そそ。で、そのお昼なんだけど。寝坊してサンドイッチにしちゃったんだけどさ、その分量が多めになっちゃって。一人じゃ食べきれない量があるんだわ、これが」
 ぼすん、と片づけ終わったばかりの机の上に咲紀がランチボックスを置いた。量が多めというより、どこかで花見でも出来そうな大きさだ。
「うわ…。じゃあなに、この罰ゲームに拒否権はなし?」
 ランチボックスのちょっとした圧迫感におされながら、咲紀の顔を見上げる芹菜。そんな芹菜の口調を聞いて満足したのか、咲紀は笑って頷いた。
「もちろん。そのぐらいの軽口たたけるなら、食欲だって大丈夫でしょ。なに、増援ならすでに頼んでおるのです。ほら、今日は天気いいから早く行かないと混んじゃうよ」
 外で食べる、という意味の込められた言葉に芹菜は頷いて立ち上がった。もし咲紀が声をかけてくれなかったら、気付けば放課後になっていたかもしれない。
 ランチボックスを抱きかかえるように持って歩き出した咲紀は、賑やかな廊下をするすると器用に歩いていく。
「そういえばさっき、なんか増援とかなんとかって言わなかった?」
 そんな咲紀の後をついていく芹菜は、さっきの会話のなかで気になっていた箇所を問いかけた。回りの話し声に負けないように、声はどうしても普段より大きくなる。
「うん、言ったよ。なに、あちら様もきっとお待ちかねです」
 にしし、という言葉が似合いそうな笑顔を浮かべる咲紀。そんな彼女をぼうっと見つめていた芹菜は、不意に昨日の放課後のことを思い出した。
 結果としては今まで通り親友でいよう、という事になったけれど、咲紀は自分に告白してきたばかりだ。結論が出たからと言って発露した気持ちが消えてしまうわけじゃない。あの気持ちが冗談じゃないことは、受け止めた芹菜自身がよく分かっている。
 なのに、咲紀はこんなにも普段通りに自分と付き合ってくれている。
「……すごいな」
「んー? なんか言った?」
 小さく呟く芹菜の言葉は、咲紀の耳に届く前に流される。
「…なんでもないよ。それより、増援って咲紀の友達?」
「んー、そだね。友達なりたてホヤホヤ。芹菜にも紹介してあげる」
 言いながら、階段を上っていく咲紀。賑わっていた生徒の数も減って、そのドアの前はさっきまでの騒がしさが嘘のように静かだった。
「芹菜、ドアお願い」
「あ、うん」
 ランチボックスで両手がふさがっている咲紀の声に、芹菜がノブを掴む。ちょっと古くさいノブは軋んだ音をたてて回り、芹菜はそのまま力をくわえてドアを押した。
 頭上からの日差しと共に風が吹き込んできて、思わず芹菜は目を閉じる。それから後ろにいる咲紀のために大きくドアを開こうとすると、ドアが急に軽くなった。
「あ……」
 ドアが軽くなった理由は簡単。自分以外の誰かが手伝ってくれたからだ。
「こんにちは、美夜ちゃん」
 芹菜の後ろからひょこっと顔を出した咲紀が、ドアを支えている少女に声をかける。
「ほらほら、芹菜。後ろがつかえてるんだから、ぼっとしてないで早く出ちゃって」
 言われるまま、立ちつくしていた芹菜が屋上に出る。続いて咲紀が屋上に出ると、屋上側からドアノブを持っていた美夜がその手を離した。重そうなドアはそれだけで自然と、元いた場所に戻っていく。
「うわ、良い風。高等部の屋上もなかなか気持ちいいでしょ、美夜ちゃん」
「はい」
 咲紀から声をかけられて、美夜がにこりと笑った。そんな美夜の顔を呆然、といった感じで見ている芹菜の様子がおかしくて、咲紀はその頬をつつく。
「なにをほうけているのかな、芹菜さんは」
「だ…って、咲紀の友達だって言うから、あたしはてっきり」
「友達が同学年だって言った覚えないけど。昨日の帰り道で友達になったんだもん、ねー?」
「はい」
 じゃれあう二人の様子を、どこか楽しげに見つめながら頷く美夜。
「……じゃあ今日のこれは、昨日から計画してたって事?」
「さあ、なんのことだか」
 反撃しようとしてくる芹菜の手をひらりと避けて、咲紀はフェンスに近づいていく。フェンスの間際は一段高くなっていて、椅子の代わりに腰掛けることが出来た。
 屋上を見渡せば、芹菜たちの他に二組の生徒たちが見える。彼女たちもフェンスの段差に腰掛けて、思い思いの昼食を楽しんでいた。
「ほら、あたしたちも食べるよー」
 咲紀はさっそく持っていたランチボックスを置いて、それを広げて分け始めている。
「飲み物は用意しておきました。どうぞ、好きなの選んでくださいね」
 パックの飲み物を5つ取り出した美夜がそれを並べる。
「苦手なのあると困ると思って余分に買っておきました。余ったのは友達にあげちゃいますから、どうぞ遠慮なく」
「おおー、じゃあ紅茶もらうね。ほらほら、芹菜もさっさとこっち来るっ」
「あ、うん」
 美夜と昼食をともにする、という事は芹菜にとってまったくの不意打ちで、彼女とこんな形で会うことを想定していなかった芹菜の思考はまだどこか鈍っている。
 ただ、美夜は自分がここにくるのを分かっていたという事と、この昼食のセッティングをしたのが咲紀だろう、という事は理解できる。
 サンドイッチの量を考えると、今日の朝に思いついたとは思えないし、咲紀の言葉から素直に推理すれば、昨日の帰り道で二人が決めたことなんだろう。
「ほらほら、芹菜は真ん中に座って。そいでもって、これを膝の上に置くっと」
 すでに座っている咲紀と美夜の真ん中、ちょうど一人分のスペースが空いている。咲紀に手を引かれるようにしてそこに座らされた芹菜の膝の上には、見事な出来映えのサンドイッチが並ぶランチボックスが置かれた。
「飲み物はどれにしますか? あと残ってるのは、ウーロン茶とミルクコーヒーです」
「えっとじゃあ、ウーロン茶」
 脇に並べたパックの中からウーロン茶を選び出して、それを芹菜に手渡す美夜。指がかすかに触れあって、それだけで、芹菜の脳裏に昨夜考えていたことが横切る。
「あ…りがと」
「いえ、今日は咲紀さんがお昼をご馳走してくれるということなので、これはそのお礼で用意しただけです」
 思わず返事が詰まった。けれど、美夜がそれを気にした様子はない。内心ほっとしながら、芹菜は気まずさを隠すように自分の膝の上を見た。
 両隣に腰掛けている二人の膝の上にも、同じようにランチボックスが陣取っている。
「じゃ、食べる前にこれ。普通のお弁当ならまだ良いけど、サンドイッチだからね」
 ひょいひょい、と咲紀は芹菜と美夜に割り箸ほどの袋を手渡す。中から出てきたのはウェットティッシュで、3人はそれで丁寧に手を拭いた。
「では、いただきますか」
「はい」
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
 咲紀の言葉を号令とするように、それぞれの手がランチボックスに伸びる。挟み込まれた具材の彩りが綺麗で、その断面が食欲を誘った。
「わ、美味しい」
 一口食べた美夜が、驚くと言うよりも感心した口調で呟く。
「あはは、ありがと。でもサンドイッチなんてパンに具を挟んで切るだけだよ?」
 それを聞いた咲紀はまんざらでもない様子で、嬉しそうに笑った。
「料理に関しては謙遜しなくても大丈夫。咲紀はなに作らせてもうまいんだから」
「もう、関しては、ってなによ。そりゃ、他に得意なことあんまりないけど。でも、だからこうして美味しいお昼が楽しめるんでしょ」
「うんうん、感謝してる」
「食べながら感謝されても説得力欠けるってば」
 咲紀と芹菜のやりとりを聞きながら、美夜もサンドイッチを食べる。食事と雑談、それに陽光と風が心地よく混ざり合って、それは楽しい昼食となった。
「ふぁ…」
 合間、気のゆるみからか芹菜があくびを漏らす。
「ん、寝不足?」
「あ、うん。ちょっと」
 咲紀の言葉に目元をこすりながら答える芹菜。
 実際、芹菜は昨夜あまり眠れていない。自分の中に響く声は彼女を眠りから遠ざけるばかりで、気付いたときには目覚まし時計のアラームに起こされていた。
「そっか。ルームメイトとなにかあった?」
「そんなんじゃないよ」
 咲紀の言葉に、芹菜は控えめに首を左右に振って見せた。
 あまり眠れなかったことに結花は関係はないと芹菜は思っている。
 むしろ原因は自分の方にこそあると。
「寮生活って相部屋なんですよね?」
「うん、基本はね。今年は入寮希望者が少なくて、それなりに一人部屋も出たみたいだけど。……なに、寮生志願だったりするの?」
 質問してきた美夜に、逆に問い返す芹菜。それに対して首を振った美夜は、ちょっと幼い仕草で笑った。
「いえ、家が近いのでそれはないんです。ただ、興味があって」
「そうなんだ。だったら見学してみたら? 部外者は手続き面倒だけど、関係者ならそういうのとかなくても、届け出さえすれば見せてもらえるんだし」
「そうなんですか?」
「うん、咲紀も来たことあったよね」
「おっきいお風呂があってね。足伸ばしてお風呂に入りたくなったら、スパとかいくよりも寮に遊びに行った方がいいよ。生徒貸し切りだし」
 話題をふられた咲紀が、思い出しているのか笑いながら答える。
「じゃあ、今度遊びに行っても良いですか?」
「うん、別にかまわない―――」
 言いかけて、それに気付いた芹菜の言葉が止まった。
 寮にくるということは、自分の部屋にもきっとくるということで。
「あの……迷惑でしたか?」
 言葉に詰まった芹菜へ、心配そうに声をかける美夜。
「ううん、いや、迷惑じゃなくてむしろ歓迎したいんだけど……」
「……ああ、そっか。芹菜の同居人、あの人だもんね」
 会話の流れを聞いていた咲紀が、納得したように頷く。
「私のときはたまたま留守だったけど、もしもいたら大変かも。ほら、中等部だったら噂聞かない? 並木結花先輩の噂。芹菜のルームメイトね、その並木結花なんだよ」
「あ…」
 その言葉で思い出す。結花に初めて出会ったとき、彼女は自ら言っていた。
 自分は寮で芹菜と同室だ、と。
「……結花とは一緒の部屋なの。もう、一年一緒に暮らしてる」
 結花が美夜にそんなことを教えていると知らない芹菜は、どこか気まずそうに頷く。美夜にはその仕草が、昨日のことをもう一度謝っているように見えた。
「並木先輩のことは知ってます。……お会いしたこともありますから」
 だからあえて、美夜はそんなことを言い出したのかも知れない。
「でも、噂は噂です。きっと」
 思い出したのは、昨日の放課後、振り向いたときに垣間見た結花の顔。芹菜は振り返りもせずに教室を出て行ってしまったけれど、もしも振り向いていたら見ていたはずだ。
 今にも泣き出してしまいそうな、そんな寂しそうな笑顔を。