■ レインタクト 第11幕<1>
水瀬 拓未様


 賑やかだった窓の外が、だんだんと静かになる。終わり間近の昼休み、生徒たちがそれぞれに授業が待つ場所へと話し声を交えながら戻っていく。
 そんな聞き慣れた音を耳にしながら、真奈美はぼんやりと一つの席を眺めていた。
 級友、白石美夜の席。
 真奈美と美夜は、それほど親しいわけではない。いわゆるクラスメイト、という言葉がしっくりくる、同じクラスで学ぶ同級生という関係だ。
 友達としてもっと親しかったのなら、芹菜から頼まれたバレッタの持ち主探しも、もっとすんなりと終わっていたことだろう。
 ただ、里奈が昔そうしていたと真奈美に話してくれたように、彼女も前の席に座る美夜の姿を眺めていたことがある。
 彼女は、いつも笑っていた。落ち込んだり沈んだり、そういった暗い表情を一度も見たことがない。同じクラスになってから間もないけれど、それでも、美夜は不思議なほどにいつも笑っていた。
 それがまた、よく似合っていた。
 一度授業で同じ班になり、体育の授業を受けたことがある。バスケットをすることになったその授業で、相手から押されて転んでしまった時も、美夜は笑顔で大丈夫ですか、と転んだ自分の身体よりも相手の事を気遣っていた。
 疲れないのかな。
 そんな美夜を眺めていて真奈美がそう思ったのは、自分がそういうことに慣れていないからだろうか。
 じきに予鈴が聞こえるというのに、美夜はまだ戻ってこない。
 空席の机を見つめながら、昨日の放課後の会話を思い出す。
 毎年、誰かが座ってきた席。
 真奈美は里奈から教えられた。2年前、斜め前の窓際の席。今は級友の美夜が座るそこには、並木結花が座っていたことを。
 数日前、結花から声をかけられたとき、真奈美はそれに従った。
 成績も平均的で、何事にも打ち込めずに、夢中になれるものがなにもなかった自分。けれど退屈という感情は持ち合わせていて、どこかでなにかを求めていた。
 正直、結花から声をかけられたときは嬉しかった。
 それは結花を好きだったからじゃない。

 彼女の噂を知っていたから―――

 真奈美には6つ年の離れた兄がいた。
 仲は良かったと思う。よく一緒に遊んでくれたし、勉強も見てくれた。
 友達にも兄弟がいる子はいたけれど、年の差は離れていても2歳か3歳が多く、自分のように年の離れている兄がいるという友達はいなかった。
 そんなせいもあったのだろう、兄の存在は真奈美にとって自慢だった。優越感というものを生まれて初めて感じさせてくれたのが、兄だったといっていい。
 だから、その優越感をより感じたかった。
 彼女は級友と遊ぶよりも、兄と遊ぶ時間を優先させていく。友達と遊ぶよりも、兄と一緒にいる時間の方が楽しいと思っていた。その結果、たとえ同年代の友達があまり出来なかったとしても、彼女は兄の存在の方が大切だと信じていた。
 けれど、それも終わりの時がくる。
 年の差があるがゆえに、真奈美が花梨学園中等部入学と同時に、兄が高校を卒業してしまった。大学にバイトにと忙しくなった兄は帰宅時間も遅くなり、真奈美が兄と一緒に過ごせる時間はどんどんと減っていく。
 そんな寂しさを紛らわすため、彼女はたびたび兄の部屋に忍び込むようになった。
 初めのうちは、自分の部屋から持っていった本を読んだりしていたと思う。兄の部屋にいることで思い出される記憶と雰囲気は、寂しい心をいくらか埋めてくれた。
 そして、好奇心から兄の部屋の本棚を探った時に真奈美はその本を見つけた。いくつかの辞書などに紛れ、隠れるように並んでいた雑誌。
 それがどういった類の本なのか、当時の彼女がまったく知らなかったわけではない。兄にとって、そして男性にとって隠さなければいけない本。
 表紙には、水着を着た胸の大きな女性。
 胸よりも、綺麗な口紅の色と、妙に艶めかしい笑い方のほうが印象に残った。
 知っている単語と、知らない単語が組み合わさる記事の内容。そして写真。
 誰もいない部屋。しんと静まりかえった室内で、どきどきしながらページをめくる。雑誌の内容よりも、その行為にとても興奮したのをよく覚えている。
 身体の芯に残ったまま、なかなか消えない高揚感。その火照りがとても心地よいことを理解し、それを加速させる方法を彼女はだんだんと覚えていった。
 一人でするとき、場所は自分の部屋ではなく兄の部屋がほとんどだった。それは自分の部屋でするよりも数倍刺激的で、ドアの向こうの物音に耳を澄ませながら、もしも兄にこの姿を見られたら、なんてことすら思い描いていた。
 満足できない自分を後押しする力、想像力。少しずつエスカレートしていくそれは、兄の部屋で読んだ本からの知識と混ざりあってより過激なものとなっていった。
 だから。
 結花から声をかけられた時も、どこかでなにか、日常ではない時間を期待していた。
 中等部で噂の上級生だった結花。もちろん、真奈美もその噂の内容を知っている。
 同じ学園内なのに、校舎の違う中等部と高等部。それは、憧れることにはちょうどいい距離感なのかもしれない。
 アルコール入りの紅茶。アルコールはあの時が初めてじゃなかったけれど、それよりも結花の一言に身体が熱くなった。
 もうじき同室の子が戻ってくるから。そうしたら、見て貰うと良いわ。
 するり、と結花の手が伸びてきて頬に触れる。その手は水滴のようにこぼれ落ち、制服の上から柔らかなふくらみをなぞり始めた。
 脳内で繰り返される彼女の噂、これから始まることへの期待。
 誰かに触れられるのは初めての経験。想像の中では何度もされてきたことを、実際にその肌で受けられるかも知れない。それを想えば、ますます身体は熱くなった。
 そして、ノックの音。胸の鼓動は、その音で一際早くなる。
 いつの間にか出していた声は、咽が火照りを感じるほどに熱かった。
 入ってきた芹菜の姿を、ちらりと見る。彼女が自分を見ている、という視線を感じたくて視線を合わせようとしたら、結花が立ち上がって芹菜と話を始めた。
 結花の手が離れた時、まるでおあずけをされているようで身体の内側が震えて、躾られている犬の気持ちが少し分かった気がする。
 そして、結花が部屋を出て行った後。困った表情の芹菜は、それでも自分の願いを聞き入れてくれた。
 結花のものとはまた違う愛撫。そこにいたわるような優しさを感じて、不意に恥ずかしくなった。本当に、自分を恥じたくなった。
 心の中では、この状況を楽しんでいる自分だっている。そして、それがとても心地よくて止められないから、結花とアルコールのせいにして、続きを芹菜に催促した。
 だというのに、そんな自分を優しく抱いてくれる腕。
 兄とよく遊んでいた頃の記憶が、一瞬浮かんで沈む。それは数年間、ずっと欲しかった感覚だったから、自然と自分自身の全てを彼女に預けていた。
 揺れるように心地よい時間。それが終わり、彼女の頬へ口づける。
 柔らかく、そしてあたたかい感触。
 そして、寮の浴場に一緒に入った時、芹菜は宣言通り自分の背中を洗ってくれた。
 その手つきに、また思い出す。
 いたわるように優しく、それでいて、どこか心強い感触。
 自分よりも弱い存在を守ることを知っている手のひら。
 それは、とても似ていた。
 昔、迷子になった自分を迎えに来てくれた兄が、泣き出しそうになっている自分にさしのべてくれた手。公園で転んだ自分を、助け起こすために差し出された兄の手。
「はぁ……」
 溜め息が零れる。知りたいことはたくさんあった。
 好きな人のことが知りたい。それはきっと当たり前のこと。
 唇へのキスが出来る決められた相手は、やはりあの図書館で見た人なんだろうか。
 そして、あの手のひらの優しい感触の意味するところが、もしも真奈美の思っている通りだとするなら。
「……あ」
 昼食から戻ってきたのか、美夜の姿が視界に入る。椅子を引き腰掛けるその横顔を見て、真奈美は思わず息を呑んだ。
 柔らかい笑み。見慣れているはずのそれが、今日は一段と目を惹いた。
 いや、笑顔に見慣れていたからこそ。その微笑みが、普段と違うことが分かる。
 そういえば。昨日の昼休み、美夜をつれて芹菜のもとへ行った。
 その時は自分が芹菜のためになにかを出来た、という充実感の方が大きくて気にかけなかったけれど、席を外した後、二人はなにを話していたんだろう。
 気になりだしてしまうと、それは止まらない。
 バレッタを手渡した時に予想以上に喜んでいた美夜の反応も、美夜を連れて行ったときに芹菜が妙に美夜を見つめていたのも、なにかがあるような気がしてならない。
 あれこれ考える。けれどそれは答えすら見あたらない問題で、頭がもやもやするばかりだった。
 こういう場合は、直接聞いた方がいい。
 決意をした瞬間、教室のドアが開いて教師が入ってきた。とりあえずそれを美夜に尋ねるのは放課後ということにして、真奈美は日直の号令に従い椅子から立ち上がった。