■ レインタクト 第11幕<2> 水瀬 拓未様 中等部の保健室からは、グラウンドがよく見える。部活動の練習で走り込みを行っている集団を時折眺めながら、恵美理はノートを整理していた。 そこには、主に精神的なケアをした生徒の、相談の内容やその後の状況などが書き込まれている。多感な時期を成長していく少女たちの悩みは、思わず笑ってしまうものから深刻なものまで様々だった。 そういった内容を記録し、残しておくことでこれからの診療に役立つときがくればいいと、この学園に来てからずっと記録し続けている。 この学園に勤め始めて数年、ノートの数はもう7冊になる。けれど、そのノートの一冊目は特別で、そこにはある少女との出来事しか書かれていない。 並木結花。 恵美理にとってその名前は、ある意味で里奈よりも重い。 本来、悩んでいる相手を助けなければならない自分が、自ら傷つけてしまった少女。 ノートの最初には、結花が中等部の一年だった頃に自ら調べた、彼女の家庭環境や学校での生活態度などが書かれている。 初めて保健室で診察した日付、そこからはまるで記録と言うよりも日記だ。 結花が終始無言だったこと。自分の思い上がりと、それを結花に見透かされたことによる後悔。自分の無力さを恥じるとともに、二度とこうならないようにという決意。 それを絶対に忘れないよう、まだ充分に余白の残っていたノートをそのままにして、恵美理は二冊目のノートを用意した。 一冊目のノートに残っている余白。もしもそこにまた、結花に関することを書き込む日がきたらいい。再び結花と話すことが出来たら、きっと今度こそはと誓って。 けれど二年前、恵美理は偶然にもやってきたその機会を自ら潰した。 一人の少女を失わないたくないから、一人の少女を犠牲にする。 あの瞬間、自分は保険医ではなかったと思う。本来、この保健室という場所で、学園で学ぶ全ての生徒のことを平等に想わなければならない存在。 恵美理は結花の前で、それを捨て、里奈を選んだ。 人を癒さなくてはならない自分が、その口からすらすらと凶器じみた言葉を並べ立てて彼女を追い込んでいく。 怯えたように歪む結花の顔を、恵美理は今でも忘れない。自分の言葉が言い終わる前に保健室を飛び出していった結花を見送り、どこかで妙に冷静な自分がいた。 これで良い。 最低だ。 心の奥から吹き出した二つの声は、どちらも本音だったような気がする。 そうまでして守ろうとした、里奈との関係。保険医としての自分を捨てても、自分の側にいて欲しいと願った里奈。 けれどその選択は、結果として里奈を変えていった。 自暴自棄、と言えばいいのだろうか。結花の噂が変わっていくほど、里奈は保健室にいる時間が多くなり、酷いときには仮病を使ってまで恵美理の側にいようとした。 結花の側にいると、どうしていいか分からない。 彼女をあんなにしてしまったのは、自分だから。 先生の真似をしていただけだった。自分は、先生みたくなりたくて、結花に近づいただけなんだ。先生があたしにしてくれたようには、自分にはできなかった。 先生、本当に好きな相手じゃないと、救うことは出来ないのかな。 里奈はうなされたように呟き、それを打ち消すように恵美理を求めた。 自分の行動は間違っていたんじゃないか。 逃げるように自分を求める里奈を見るたび、心の奥から沸き上がってくるそんな声を、恵美理は何度も何度も消そうとして、けれど消せなかった。 あんなにも前向きで輝いていた里奈が、どんどんと自分へ依存していく。 同時に、彼女の心には自責の念が満ちて、里奈は前よりも結花のことを想っていたかも知れない。 自分を慕い、憧れていてくれた少女は、日に日に脆くなっていった。 結花へ告げた嘘。それは結局、彼女の心を懸命に開こうと努力していた里奈の気持ちすら踏みにじり、彼女の心を蝕んでいく。 このままじゃ彼女は戻れなくなってしまう。 だから、恵美理は決めた。離れよう、と。 今はまだ無理だとしても、里奈が中等部を卒業して高等部にあがれば、この場所にはあまり来れなくなるだろう。 そうすれば、状況も変わるかも知れない。 悩み抜いて選んだのは、結花に嘘をついてから三ヶ月後のことだ。 高等部の二年になった今でも、里奈は月に何度か中等部の保健室にやってくる。一年生の頃に比べれば、その回数はだんだんと減ってきていた。 高等部を卒業し、この学園から巣立つ頃、里奈は自分のことをどう想うのだろう。 それは、恵美理がもっとも気にしていることのひとつだ。 最近の里奈は、自分が距離を置こうとしていることをどこかで理解しているらしく、前のようにべったりと依存することは少ない。聞き分けが良くなった、と言えばまるで躾ているようだけれど、前のようになんでもかんでも自分を頼りにすることもない。 もっともそれは、寮長として、さらには生徒会副会長として多忙な学園生活をおくるなかにあって、周囲から頼られることに慣れ始めた、という事も大きいのだろう。 来年になれば受験も控えて、今と同等かそれ以上に密度の濃い時間が待っている。そうすれば、里奈と過ごせる時間は今よりも減っていくだろう。 恵美理はそれが寂しい、とは思わない。 結花との一件以来、恵美理は里奈がほつれていく様子を見てきた。保健室だけが学園で心安まる場所だと、自らそう微笑んだ里奈の笑顔は痛々しいとしか表現できない。 そんな笑顔にさせた原因が、自分にあると恵美理は知っていて、それでもそれを明かさずに彼女を抱きしめてきた。 里奈から嫌われること。里奈から拒絶されること。 それが恵美理にとってはなによりも怖い。 里奈の口から彼女の話ばかりが出てきて、結花の存在が疎ましかった二年前。 魔が差した、と言ってしまうのは簡単だけれど、自分がしたことはそれで許されることではないだろう。 結花が今、自分を、そして里奈のことをどう想っているのかは分からない。けれどあの日以来、同じ学園内にいながら、恵美理は結花と一度も顔を合わせることはなかった。 結花が高等部にあがった今、中等部の保険医である恵美理との接点はないに等しい。 けれど、里奈と結花には寮生、そして同学年であるという共通項がある。 最近、少しずつ彼女と話せるようになってきたんだと、いつだったか里奈は呟いた。その声は嬉しそうでもあり、悲しそうでもあったと思う。 同じ事を二度、繰り返すのは怖い。だから、自然と距離をとってしまう。 その距離を埋めることができる切っ掛けが、ひとつでもあれば。 「……もし」 読み返していた一冊目のノートを閉じると、恵美理の口から思わず呟きが漏れた。 目を閉じれば、目蓋の裏にはひとつの映像。 「そんなこと、あるわけない……わねよ」 心の中でだけ思い描く幻のような未来図を、そう言って打ち消す。 そこでは、結花と里奈が一緒になって、楽しそうに笑っていた。 |