■ レインタクト 第11幕<3>
水瀬 拓未様


 あの光景を、自分は一生忘れられない。それは分かっている。
 だから、夕暮れはどこか懐かしく、遠い。
 世界をあんなにも綺麗な朱色に染めるくせに、かならず沈んでしまう夕日。長く伸びる影も、やがて夕闇から夜の闇に包まれれば、世界と同化して消えていく。
 芹菜にとっての雨がそうであるように、里奈にとって夕日は結花に繋がっている。
 それは綺麗で、けれど手が届かない。自分を照らし染めてくれるのは一瞬で、やがてくる夜は長く、そして待ち続けていればまたやってくる。
 待つことしか、出来ない。
「では、失礼します」
 一礼して、職員室を後にする。生徒会用の書類を提出にきただけだったのだが、その途中で落とし物を拾ってしまい、その事務処理に少し時間を取られてしまった。
 校舎内はかなり静かで、半分以上の生徒はもう帰宅しているのだろう。
 職員室にいると、見知った教員からよく声をかけられる。職員室という場所がそうさせるのか、ここでの教員たちは普段に比べどこか優しい。生徒会副会長、という肩書きがあるということも、多少は関係しているのだろう。
 里奈は自分自身を優等生だ、と思ったことはない。むしろ、問題児の部類だと思う。それを必死に覆い隠そうとしていたら、気付いたときはこうなっていた。
 覆い隠そう、という行動が結果として周囲には努力に見えていたというのが実際のところだと、里奈は考えている。ただ、ずっと人と関わらないように過ごしてきた里奈にとって、誰かから頼りにされる、ということが新鮮だったことは確かだ。
 自分が恵美理に寄りかかるように、誰かが自分を必要としてくれるのなら。そんな動機から、寮長や生徒会の副会長を引き受けているなんてひねくれている。
 自分のことを皮肉りながら、それでも里奈がその位置にいるのは、繰り返したくないからかもしれない。
 突き詰めていけば、自分がいまこうなった本当の理由は分かっている。
 恵美理のように、ではなく。
 結花のために。
「……」
 彼女の名前を呟こうとして、咽で抑えた。
 どこか感傷的な気持ちになっているのは、昨日、中等部の少女の忘れ物に付き合って、久しぶりにあの教室から夕日を見たせいだろう。
 あの色、空気、窓の外の風景。何もかもが、当時のまま変わりなく。
 その名前を呼べば、彼女がそこに現れるのではないかと、そんな幻想を抱いた自分を腕をきつく掴んだ。
「……里奈」
 だから、その声も一瞬幻聴だと思った。
 静かな廊下の、その先に彼女がいる。あの日と同じように、その黒髪に夕日を受け、つややかな朱色に染め上げられた姿が、視線の先に立っていた。
「……結花。なに、やってるの」
 胸のつまりは言葉にも伝わり、口だけが先走るように動く。
 ようやく出た言葉は我ながら不自然で、それだけに少し気恥ずかしかった。
 ここ半年でなんとか慣れてきた、憎まれ口を言い合う距離感が思い出せない。
 ついさっきまで思い出してた、中等部時代の記憶が染み出す。
 違うのはきっと、お互いに高等部の制服を着ていることと、時間が2年過ぎたこと。
「帰るところ。ここは昇降口でしょう? 違う?」
 自分が問いかけたことに結花が答えたことで、そこが昇降口であることにようやく気付く。考え事をしながら、それでも一年通って校舎に馴染んだ身体は、無意識にそこを目指していたらしい。
 登下校時には混雑するそこも、今は彼女たちの他に誰もいない。
「あなたも、帰るのではないの?」
 問いかけてくる結花が、少し微笑んだような気がして意識が焦げる。
 そんなのは、ずるい。
 だってあなたは、並木結花は、上坂里奈を憎んでいなければいけないのに。
 もうずっと、下級生に囲まれながら微笑んでいる結花しか見ていないかった。そのときの結花は、里奈が知っていた結花ではない。
 だからこそ、里奈はそんな彼女とのやりとりが出来るようになった。
 結花でありながら、里奈の中の結花とは一致しない結花。そんな曖昧な存在となら、なんとか話せるようになった。
 それは意識の問題。
 だというのに、今、目の前で自分の名前を呼ぶ彼女は。
 あまりにも、里奈の知っている彼女そのものだった。
「……里奈?」
 押し黙ったままの里奈。その様子を訝しむように、結花がもう一度名前を呼ぶ。
「あたしは……」
 帰るつもりだった。けれど、彼女がもしもまっすぐに帰るとするなら、その行き先が同じ寮である以上、数分とはいえ、その道中を共にすることになる。
 もともと帰宅部同然の結花と、生徒会や寮長の雑務もある自分。その下校時間が重なることはないに等しく、実際、これが初めてだった。
 適当な理由を作って、この場から立ち去るのは簡単。
 けれど、今日を逃したら、こんな機会は二度とこないかもしれない。
「帰らないの? ……忙しいのね、長なんてつくものを掛け持ちしていると」
 そう呟いた結花の黒髪が、ふわりと舞った。踵をかえした彼女の、その背中が里奈の瞳に映る。
 ああ、と思うよりも早く足が一歩踏み込んでいた。
 柔らかな物腰、微笑むような瞳。夕暮れの校舎、目の前にたたずんでいる彼女はまるで幻のようで、逃せばもう二度と会えないような気がする。
 二年前のあの日、自分は教室から立ち去る彼女に声をかけられなかった。あの日の出来事を、里奈は鮮明に思い出せる。
 思い出せるからこそ、いま、目の前にいる結花がそのときと同じに見えた。
 どんな心境の変化なのかは分からない。自分の知らないところで、結花になにかがあったのかもしれない。けれど、それを詮索することは二年前のことを繰り返してしまうようで、踏み込んだ足が挫けそうになる。
 けれどいま、里奈の目の前にいる結花は、里奈の好きだった日の彼女そのもので。
「……今日はもう終わり。一緒に帰る?」
 思い切って声に出したら、それはすんなりと形になった。
 思わず里奈の顔に笑みが咲いたのは、こんな事を誰かに言ったのが久しぶりだったからかもしれない。
 二年になってから特に色々な雑務をこなしていた里奈は、同級生との登下校時間が重なることがほとんどなく、その登下校はほとんど一人だった。
 誰かへ向けて、一緒に帰ろうと誘う。それだけでも久しぶりだというのに、その相手が結花であることが、里奈には少しおかしかった。
 断っても、断らなくても。そのどちらでも結花らしい。
 その結果がどうであれ、その言葉を言えた自分が、踏み込めたその一歩が、二年前の出来事に縛られていた自分を解放する切っ掛けになればいい。
 静まりかえる校舎で、里奈は結花の唇を見つめた。
 そこから紡がれる答えを、待つために。