■ レインタクト 第12幕<1>
水瀬 拓未様


 その日に限って結花の下校時刻が遅くなったのは、改めて夕暮れに染まる校舎の中を歩いてみたいと思ったからだ。
 二年前の夢が、ずっと頭の中をたゆたっている。
 どうして今頃になってあんな夢を見たのか、その理由を考えながら授業を受けていた。
 さぞぼんやりしていたと思うが、自分がぼんやりしているなんていつものことだから、あまり気にされたとも思えない。
 気付けば放課後で、紅に染まる教室の黒板をぼんやり眺めているうちに、朝とは違う、夕刻独特の世界の色が、心を二年前に導いていた。
 あの日の自分の気持ちを、よりはっきりと思い出したい。
 そんな漠然とした想いに捕らわれ、中等部の校舎に出向いた。
 数年前まで毎日のように通っていた学舎には、今でもたまに遊びにいく。といっても、少し顔を出しては自分を見て騒ぐ下級生を眺める程度だから、特定の教室に入ったことはなかった。
 すれ違う後輩たちに会釈しながら、記憶を頼りに歩き、かつて自分が学んでいた三年の教室にたどりつく。
 二度と来ることはないだろう、そう思っていた場所。
 そこで結花は、なにやら言葉を交わす二人の女生徒を見つけた。
 美夜と、あの子は確か……。
 記憶の糸を解き、そういえば数日前、芹菜にプレゼントした少女だったことを思い出す。
 それから美夜の座っている席が、かつて自分が座っていた場所だと気付いた結花は、知らず知らず苦笑した。
 クラスはまだしも、席まで同じであることはないのに。
 結局、二人には声をかけず、結花は中等部校舎を後にした。
 真奈美と美夜はなにやら話し込んでいたようだし、それを邪魔しては悪い、という気持ちが半分。
 残りの半分は、芹菜を出し抜くような形で美夜に仕掛けるのはズルい気がしたから、かもしれない。
 芹菜は真っ直ぐな少女だと、結花は常々思っている。自分の知りうる中で、もっとも純粋に近い存在だと言っても良い。
 唯も素直だけれど、彼女のそれとは少し違う。
 本人に面と向かって告げたことはないけれど、そんな彼女が寮生活のパートナーで良かったと、結花は感謝していた。
 一年と少し前、入寮する以前から、誰がルームメイトになっても多少のトラブルはあるはずだと覚悟していた結花にとって、芹菜はある種の奇跡だった。
 自分を知らない生徒が、里奈以外にもいたなんて。
 並木結花の噂は学園の生徒なら誰でも知ってるくらい広まっているんだと唯から聞かされていただけに、名乗っても動じずに握手にさえ応じてくれた芹菜は、それだけで特別だった。
 おそらく芹菜でなければ、部屋に下級生を連れ込むなんて真似、しなかっただろうと思う。
 剥き出しの嫌悪をぶつけるでもなく、かとって好奇の目で見ることもなく、自分と適度な距離をとっていた芹菜。
 そんな彼女が、初めて自分に感情をぶつけてきた。
 昨日、教室で目があった瞬間、挑発をすればどうなるか、半ば分かっていて、それでもあんなことを言ったのは――――たぶん、見てみたかったからだ。
 感情を発露させた、彼女を見てみたかった。
 その願いが叶ったとき、代償として結花の頬には鋭い痛みが刻まれたけれど、それを後悔はしていない。
 むしろ結果として利用してしまったことに対して、美夜への申し訳ない気持ちが強く残った。
 謝らなくちゃいけない。
 そう思うと同時に、憎まれたほうがいいか、とも思う。
 自分の存在が彼女の中でしこりになるぐらいなら、いっそ嫌われてしまった方がいいと、結花はそう考えた。
 疎んじられることには慣れているのだし。
 唯から、好きな人が出来たのかと訪ねられたとき、一瞬、美夜の顔が浮かんで、すぐに消えた。
 美夜の存在は、自分の好きな人を思い出させる。
 正確には、好きな人ができた頃の、自分を。

 自分と似た瞳、その視線が見つめていた人のこと。
 夕暮れの教室、二人きりの空間。
 なにより――――彼女が、中等部の制服を着ていたせいで。
 結花の心は昨日、あの瞬間、二年前に飛んでいた。

 自分は、並木結花は。
 上坂里奈を、ずっとずっと意識して生きている。
「そう、ね……」
 なぜあんな夢を見たのか、思い当たり、ひとりごちた。
 そういえば、あの日からウーロン茶が苦手になったんだっけと、気付けば紅茶ばかり飲むようになった自分に今更苦笑する。
 口にすると、あの時の吐き気も一緒に思い出してしまう、ほろ苦い味。
 だから、無意識に避けるようになっていった。
 そうして出来事自体を思い返すことすら少なくなって、高等部に入ってからは、ほとんど振り返らず過ごしてきた。
 けれど今日は、向き合えた。
 美夜と出会ったおかげなのか、それとも。
「……」
 ふと、目の前に見えた案内板に足がとまる。
 保健室。
 あの日以来、一度も足を踏み入れたことのない場所。
 先生が替わった、という話は聞いたことがないから、いまでもあの椅子には、きっとあの人が座っているはずだ。
 もしもあのドアを開けたら。先生は私を見て、あの時と同じように、幽霊でも見るような目をするのだろうか。
 いや、そもそも――――私が並木結花だと、気付くだろうか。
 そう思ったら、自然とくすくす笑みが漏れて、そんな自分の神経に、少しだけ驚きながら、結花は保健室の前を通り過ぎた。
 そうして朱色の校舎を歩き、高等部の昇降口にたどり着いた時、聞こえた足音に目を向けると、里奈がいた。
 自分の存在に気付いている様子はない。
 なにかを思案する顔は、高等部に上がってから軽口を言い合う間柄ではなく、あの日の彼女を思い起こさせた。
 夕暮れの中、自らの制服をたくし上げて傷痕を示し、自分の領域に踏み込んできた初めての存在。
 結花の中に刻み込まれ、褪せることのない里奈の記憶。
 二年前のことばかり考えていたせいで、いよいよ幻でも見るようになってしまったのだろうか。
 本気でそう思った。
「……里奈」
 だから、知らず声を掛けていた。
 名前を呼んで、その後、重なった視線に、彼女が幻でないことを実感すると同時に、なぜ声を掛けたのだろうと自問する。
 その答えが出るよりも早く、
「……結花。なに、やってるの」
 視線からやや遅れて、声が聞こえた。
 その声は震えていたような気がして、だから、ほん少し余裕が生まれたのかもしれない。
「帰るところ。ここは昇降口でしょう? 違う?」
 差し込む夕日に、空気までも赤く染まる。自分たちの他には誰もいない事が、結花をほんの少しだけ饒舌にさせた。
 話してないと不安になってしまいそうだから。
「あなたも、帰るのではないの?」
 素直、とは少し違う。
 こんなふうに里奈と話す時間が急に訪れたことに対して困惑しながら、それでも結花は嬉しかった。
 だからこそ、気付く。
「……里奈?」
 里奈の様子がおかしいことは、すぐに分かった。
 黙り込んだまま答えない彼女の名を呼ぶと、
「あたしは……」
 それだけ呟いて、里奈の言葉が途切れた。
 結花にとって、高等部の制服を着ている里奈はどこか遠い。
 言ってみれば自分の知らない里奈であり、だからこそ、すれ違いざまにいがみ合うこともできた。
 けれど今日、そんな彼女がいつもより近く感じるのは、着ている制服すらも染め上げる夕日のせいだろうか。
 紺色のブレザーは夕闇前の陽光と混ざって、中等部の時に着ていた紫の色に、どこか似ていた。
「帰らないの? ……忙しいのね、長なんてつくものを掛け持ちしていると」
 二年前の記憶をひっくり返し、自分はどんなふうに里奈と話していたんだろうと思い出そうとして、無理だと悟る。
 里奈とまともに話したことなんて、無いに等しい。
 だから、あのときと同じように――――踵がくるりと回る。
 だというのに、
「……今日はもう終わり。一緒に帰る?」
 そんな言葉を掛けられて、耳朶が震えた。
 問いかけられた言葉の内容に、胸の高鳴りを強く感じる。
 それは、自分が誘われている、ということに気付いたからに他ならない。
 二年前は自分の背を見送るだけだった里奈が声をかけてきたことに、あれから歳月が流れたことを、改めて知る。
 唯と過ごした自分が変わったように、里奈だってあの時から変わっていてもおかしくはないのだから。
「私と……?」
 足を止め、振り返り、確かめる。
 それは、二年前とは違う展開だった。
「迷惑だった?」
 誘いの言葉よりも、確かな声音で肯定する里奈。
 気づけばその視線は、自分をしっかりと見つめていた。
 自分の唇を、じっと見つめる瞳。
 二年前と同じだけど、違う。違うけれど、同じ。
 私の答えを、待っている。
 里奈が違う答えを導いたのなら、自分も。
 自分、だって。
「……かまわないけど」
 曖昧に頷いたとき、ほんの少し子供っぽい言葉遣いになってしまったことが照れくさくて、それに感づかれないよう、結花はすぐに背を向けた。
 先に靴を履き替えたのは結花のほうで、彼女はどこで里奈を待っていればいいのか分からず、傘立ての並ぶ入り口を選んだ。
 誰かを待つなんて行為、しばらく忘れていた。
 どうして里奈は私を誘ったんだろうと、自分では解決できない疑問を胸の中で繰り返しながら、彼女を待つ。
 が、いくら待っても里奈は現れない。
 靴を履き替えるにしてはやけに時間が掛かるといぶかしく思い、結花は里奈を迎えに行った。
 仕切りのような靴箱の壁を越えて、里奈が居るであろうD組用のスペースを覗くようにして顔を出した瞬間、
「……里奈」
 結花は呆然と呟いた。
 靴箱に手を掛けたまま動かない、里奈の側に歩み寄る。
 震える肩と、うつむいた頬から落ちた雫。
 嗚咽どころか声すら漏らさず、里奈は泣いていた。
「……」
 どうしたのかと、その理由を尋ねる代わりに、
「一緒に、帰るんでしょう……?」
 下校を促す言葉をかけた訳は、結花自身にも分からない。
 ただひとつだけ確実に分かることがあるとすれば、里奈の泣いている理由は自分にあるのだろう、ということ。
「うん……」
 ポニーテールを揺らしながら、小さく頷いた里奈が、手際よいとはいえない動作で靴を履き替える。
「……ごめん、お待たせ」
 目尻を拭いながら、里奈がようやく顔を上げた。
「それじゃ、行きましょう?」
 この前までどんな口調で言い合っていたのか、それすらよく思い出せなくて、少しぎこちない言葉遣いで里奈を誘う。
 涙の事には触れず、校門を目指して歩き出す。
 何を話せばいいのだろう。
 伸びていく影を見つめながら結花が考えていると、
「……結花」
「なに?」
 そんな自分を呼び止めた里奈に振り返る。
「……ひさし、ぶりだね。結花」
 ぽつりと落ちた声。
 その言葉に、今度は結花が胸を詰まらせた。