■ レインタクト 第12幕<3>
水瀬 拓未様


 当たり障りのない、何気ない雑談の繰り返し。端から見れば、それはなんてことのない下校風景に見えたことだろう。
 けれど、そんな会話が出来ることになによりも驚いていたのは、他ならぬ当人たちだった。
 歩きながら話すことにより、視線は自然と前を向いて、結果として互いの顔を見ないからこそ、途切れなく話が続く。
 その内容が取るに足らないものであったとしても、いさかいなく言葉を交わせるだけで充分だった。
 だから、
「……部屋、寄っていく?」
 結花のその台詞は、至極自然なものだったのかもしれない。
 話し足りない、そう思った。
「それは……かまわない、けど……でも」
 相部屋で生活している以上、お互い部屋には同居人がいる。
 里奈がわずかに躊躇ったのを察して、
「芹菜には、私が話すから」
 そう言った結花は返事を待たず、自分の部屋へ向かった。

 ノックなく部屋のドアが開いたとき、反射的に振り向いた芹菜は、そこに立っている結花を見て息を呑んだ。
 美夜に迫っていた少女と同一人物だなんて信じられない。
 かつて見たことがないほど雰囲気は柔らかく、結花独特の、凛とし、張り詰めた空気がほとんど感じられなかった。
「ゆ、か……?」
 呆然と、自分の名前を呟いたルームメイトに、
「昨日はごめんなさい、芹菜」
 そう言って謝った結花は、続けて頭を下げた。
「悪いのだけど、少しの間、部屋を空けてもらえる?」
「な、え……?」
 普段なら許可なんてとらないで、自分勝手に下級生を連れ込む少女の言葉に芹菜は面食らって言葉を失う。
 美夜の一件で感じた憤りは未だ胸に残っていたけれど、それ以上に、勢いで頬を叩いたことに対して謝りたい気持ちがあった。
 そういうふうに気持ちの整理が出来たのは、今日の昼、結花の話が出ても動じることのなかった美夜を見たからだ。
 結花について、噂は噂だと言った美夜の表情に憂いはなく、そんな美夜の態度に、芹菜は恥ずかしさすら覚えた。
 夕べ、あれこれと考えた挙げ句、美優と美夜を重ね、不実なことを思い浮かべていた自分の浅ましさが胸に痛い。
 結局、自分は何を感じ、誰を求めているのか。
 その答えを見つけられないまま、夕暮れ、今日も結花は帰ってこないのだろうかと考えていた芹菜にとって、結花の申し出は唐突過ぎて、戸惑うしかなかった。
 まさか、相手は美夜なんじゃ。
 そんなことを考えてしまう自分を、また、嫌悪する。
 けれど、
「お願い」
 囁く結花の声音に、戸惑いすら霧散してしまった。
 優しく、少しだけ甘い響きが耳からじん、と染みていく。
「……いい、けど」
 ズルい、という言葉が浮かんで消えた。
 普段の結花なら絶対にこんなことはしないし、言わない。
「ありがとう」
 立ち上がった芹菜のために、結花が部屋のドアを開ける。
「どのぐらい、時間潰せばいい?」
「点呼までには終わるから」
「……了解」
 頷いて、そろそろ夕食の頃合いだし、少し早いけれど食堂にでも行こうかと廊下に出た芹菜は、
「あ……」
 どことなく居づらそうに立っている里奈と目があった。
「あの、芹菜」
「えっ? あ、ううん。いいのいいの」
「……ありがとう」
 白いリボンに束ねられたポニーテールが自分の生活している空間へと消えていき、そしてドアが静かに閉まる。
 ただならぬ様子に、芹菜はしばらく立ち尽くした。
 結花も里奈も、普段の雰囲気とは違う。
 二人の間になにがあったのか、それを詮索するつもりはないけれど、少なからず付き合いがある相手の知らない一面を垣間見たことに、芹菜の心がわずかに揺れた。
 驚きとは少し違う、困惑に似て、迷いを誘う感情。
「……」
 見慣れた自室のドアを眺める。
 点呼までには終わると、そう言った結花の言葉に、なるほど寮長相手ならそれも当然だと妙なところで納得しながら、芹菜は改めて食堂へ向かった。
 芹菜にとって、里奈は生徒会の副会長兼寮長である、という以外の印象はあまりない。
 クラスも違うので、接点が少ない、といった方が近い。
 中等部時代に里奈と結花の間で揉め事があったことも、後になって小耳に挟んだ程度で、詳しい経緯は知らなかった。
 そういえば結花が下級生以外を部屋に連れ込んだのは、これが初めてになるのかもしれない。
「……って、連れ込んだわけじゃないか」
 なにか大切な話をするために二人きりになれる場所を探していて、それで結花が自分の部屋を提供した可能性のほうが高い。
 点呼のたび、結花がいないと苦笑して、真奈美の一件では結花の趣味について言及していた里奈のことだ。
 万一にも、結花と関係しているだなんて、ことは。
「……ああ、もう……っ」
 自分の考えが至った結論に、苛立ち、思わず唇を噛む。
 真奈美と肌を重ねてから、思考回路はずっとこんな調子で、最後に行き着く想像は決まって、淫らなものばかりだった。
 これじゃ欲求不満の塊だと自分を卑下するも、心のどこかでその通りのくせに、なんて声も聞こえるから始末に負えない。
「はぁ……」
 溜め息を吐いた直後、階段の踊り場で一人、ふと立ち止まって唇に触れた。
 キスがしたい。
 指じゃなく、唇と唇、舌と舌で、誰かとつながりたい。
 美優、美優。
 逢いたいよ、美優。
「……っ……」
 指先で舌をくっと押し込んだら、その感覚に腰が震えた。
 人差し指と親指で自らの舌をきゅっとつまんだら、舌は自然に指先を舐め始めていた。

 ――――お願い。

 耳元に甦る、結花の囁き。
 優しくて甘くて、自分が知らない結花の声。
 あんな声が出せる人だったなんて、知らなかった。
 一年一緒に居て、まったく気付かなかった。
 たぶん、気付こうとしなかった。
「……ん、つ……っ」
 必死に頭を振り、どうにか理性を保つ。
 指を唇から離したら、まるでレコードと針みたいに、耳元で甘く木霊していた結花の声も消えていた。
「馬鹿……」
 唾液に濡れた、自分の指先を見つめて呟く。
 その言葉が誰に向けられていたものなのかは、芹菜本人にすら分からなかった。