■ レインタクト 第13幕<2>
水瀬 拓未様


 寮生活を始めて一年以上経つけれど、他の棟に足を踏み入れるのは中等部の頃、寮見学に来て以来だった。
 揃いで建てられた三棟の寮は、配色に多少の違いはあれど、外観も内装もよく似ている。
 門限を過ぎても、棟の行き来自体に制限はない。受け付けで事情を説明し、芹菜は一年の寮に入った。
 すでに点呼が終わっている時間だからか、廊下に寮生の姿はない。自分の暮らす建物と同じ作りということもあって、芹菜は迷うことなく、目的の部屋の前までやってきた。
 コンコンと控えめにドアを叩くが、応対の声はない。
 寝ていたらどうしようか。そう思いつつ、もう一度ノックしようとした寸前、ドアノブがカチャリ、と音を立てた。
 ドアの隙間から顔を出した少女は、立っている芹菜を見て困ったように眉を寄せた後、
「……どなた、ですか?」
 そう言って返答を待った。
 芹菜自身、出てきた少女に見覚えはない。相手の反応からして、向こうも自分を知っているようには見えなかった。
「笹木唯、さん?」
「はい、そうですけど……」
 パジャマ姿の少女――――唯は、予期せぬ来客にやや訝しげな視線を向けた。
 同じ屋根の下で暮らす寮生の顔と名前は自然と覚えていくものだが、目の前の相手には見覚えがない。
「あの、失礼ですが……お名前は?」
 可能性として高いのは他の棟の寮生――上級生――だろうが、こんな時間に訪ねられる心当たりはなかった。
 たった一人を除いて。
「夜分にごめんなさい。あたしは、二年の桜野と言います」
 夜遅い突然の来訪に困惑している唯に、芹菜は二度も自分の名前を問わせてしまった謝罪の意味も含めて頭を下げた。
 桜野、という名前を聞いた唯がわずかにはっとする。
「これ、結花……じゃない、並木さんから預かってきたの」
 とりあえず用件を済まそうと、芹菜は結花から渡された紙を取り出し、目の前の少女に差し出した。
「結花さん、から……?」
 小さな紙片を受け取った唯は、折り畳まれていたそれを広げ、室内から漏れる明かりに晒して目を通した。
「……桜野先輩は、これ、読まれたんですか?」
「ううん」
 読まないで、と念を押されたわけじゃないけれど、他人宛の手紙に目を通すのがマナー違反だという道徳はある。
 それに、どちらかといえば芹菜の興味は、手紙の内容よりも、届けに行く相手に向けられていた。
 一年生の寮によく遊びにいく結花のこと、手紙を渡すように頼んだ相手とも、おそらく親しい間柄のはず。
 結花の好きな相手は、どんな子なんだろう。
 そんな想いが、手紙の内容よりも芹菜の関心を奪っていた、といっていい。
「そうですか……」
 芹菜の返事を聞いた唯は、わずかに考えこむ仕草を見せたが、すぐに、
「手紙、ありがとうございました。先輩、お礼に飲み物をお出ししますから、少し休まれていきませんか?」
 ドアを大きく開けて、芹菜を室内へ促した。
「でも」
 部活などで朝早い寮生なら、もう眠る準備をしていてもおかしくない頃合いである。
 そもそも頼まれ事が終わったらすぐに帰るつもりだったし、第一、会ったばかりの少女の部屋に立ち入るのも気が引けた。
 そんな芹菜の気持ちを見透かしたように、
「どうぞ、遠慮せずに。一人部屋ですし」
 ちょっとだけ申し訳なさそうな顔で、唯は言葉を続けた。
「それに、先輩をこのまま帰すわけにはいかないんです」
「……え?」
 突拍子のない台詞に、芹菜が変な声を出してしまう。
 そんな反応を見て小さくにこっと笑った唯は、
「そのことについても、合わせて説明しますから」
 廊下に一歩踏み出して、芹菜の手をとった。
「う、うん……」
 握ってきた手の柔らかさと温度に、心拍数があがる。
 芹菜は半ば押し切られるような形で、それでも最後は自分の意思で足を動かし、室内に入った。
「少し待っていてくださいね」
 小さなテーブルの側にクッションを敷いた唯は、芹菜にくつろぐように勧めると、カップとティーパックを取り出した。
「先輩、紅茶でかまいませんか?」
「あ、気をつかわなくても……」
「お客様なんですから。それこそ気遣いは無用です」
 芹菜の言葉をやんわりと断った唯は、ポットからお湯を注いだカップに、スティックシュガーを二本とスプーンを添えた。
 それを、遠慮がちに室内を見回していた芹菜の前に置く。
「あの……ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
 一緒に用意した自分のカップもテーブルの上に置くと、唯は芹菜の正面に腰を下ろした。
「先輩のことは、結花さんから聞いています。同居人は少し変わり者だって」
「そう……なんだ」
 少し変わり者、という表現を使う結花もさることながら、本人を前に、それを包み隠さず言ってのける唯に驚いた。
 ただ、それが嫌かというと――――そうでもない。
「あの、笹木さんは」
「唯で良いですよ、先輩」
「あっ、うん……」
 くすっと微笑まれて、多少どぎまぎしてしまう。
 さっきから、どうにも落ち着かない。
「じゃあ……唯ちゃんは、その……」
 言いかけて、それを知ってどうしたいんだろう、という気持ちが芹菜の口をつぐませた。
 けれど、唯はその手の質問に慣れているらしく、
「私と結花さんの関係、ですか?」
 そう返して、芹菜の答えを待つ。
「……」
 しばし迷って、それでも芹菜は頷いた。
 真奈美の一件に始まり、美夜とのキスを目撃したことによる衝突、さらには今夜の出来事と――――この数日、自分の中で結花の存在感は増す一方だ。
「教えて。……結花って、どんな人?」
 寮のルームメイトという、学園の中ではおそらく誰よりも結花に近しい場所に一年もいたのに、自分は彼女のことをあまりにも知らない。
「どんな人、か……」
 芹菜の問いを復唱した唯は、
「……考えたことなかったです。結花さんは、結花さんだから」
 そう言って、寂しそうに微笑んだ。
「私と結花さんの関係は……強いて言えば、家族、でしょうか」
「家族……?」
 言われて、芹菜はじっと唯を見つめる。
 どことなく結花に雰囲気が似ているような、なんて考えたすぐ後、名字が違うことを思い出して困惑してしまう。
「あの、家族って、いうのは」
「もちろん、血がつながっているわけじゃありません。私が、そうありたい……妹になりたいと、お願いしただけで」
 自分を見つめる視線の理由に気付いて、唯が言葉を足す。
「妹……」
 思わずその言葉を繰り返し、芹菜は曖昧に視線を逸らした。
「……先輩は、笑わないんですね」
 やや間をおいてから、唯が芹菜に尋ねる。
「笑う……って、どうして」
「他人を姉と慕うだなんて、普通、おかしいですから」
「そんなこと……ないよ」
 今度は言い淀むことなく、はっきりと告げた。
「……先輩、やっぱり少し変わってます」
 からかう風でもなく、唯は嬉しそうに笑った。
「先輩はご存じないんですよね? 昔、結花さんと上坂先輩の間に、どういう事があったのか」
「……」
 言葉をうまく継げず、黙って頷く芹菜。
 なぜ、急に里奈の名前が出てきたのか戸惑ったが、おそらく渡したメモに関係しているんだろう、と推測した。
「……あたし、中等部時代の結花はほとんど知らないから」
 もともと噂話に興じる趣味がない上、芹菜は中等部時代に美優を失っている。その後、失意の底にあった少女は以前よりも他人を気にする余裕も気力もないまま、曖昧に日々を過ごした。
 思えば、おぼろげな記憶が安定しだすのは、高等部にあがり、入寮して結花と出会ったあたりから、だろうか。
「先輩は、結花さんの噂についてご存じですか?」
「噂っていうと……その、下級生と、っていう……?」
 芹菜が必死に言葉を選んだのは、自分の正面に座っている少女が、他ならぬ下級生だからだ。
 そんな芹菜の気遣いが伝わったらしく、唯が微笑む。
 よく笑う少女だな、という印象を芹菜は抱いた。
 よく笑うけれど、どの笑顔も、微妙に表情が違う。
「噂……というか、本当の事なんですけどね」
 そう言って、唯はカップに口をつけた。濡れた唇の艶やかさに知らず見惚れた芹菜は、直後はっとして視線を落とす。
 動揺を隠すように、自分も紅茶を口に運んだ。
「それよりも前の噂は、知ってますか?」
「……少し、だけ」
 入寮当時、同居人が並木結花だと知った咲紀が、あれこれと彼女について教えてくれたことがある。
 確か、担任と揉め事を起こして以後、問題児のレッテルを貼られて、三年のときに他の生徒と口論を起こした、とか。
「そのとき、口論した相手というのが上坂先輩で……その直後、結花さんと最初にお付き合いしたのが……私です」
 空になったカップをテーブルに戻しながら、唯が呟く。
「ちょっ、ちょっと待って」
 いきなりの展開に、芹菜の声がほんの少しうわずった。
「急にどうして……なんで、そんな話をあたしに聞かせるの?」
 そもそも結花について尋ねたのは自分からだし、その点、唯の話は興味深く、もっと聞きたいという好奇心はもちろんある。
 けれどそれよりも良識が先に立ち、芹菜は唯の話を遮った。
「確かに結花がどんな人かは聞いたけど……でも、いきなり、そんな過去のことまで教えてくれなくても」
 いくらなんでも、プライベート過ぎはしないか。
「もしかして……結花の指示?」
 もし、さきほど唯に渡したメモにそういった内容が書かれていたのならば――理解に苦しむけれど――納得は出来る。
 けれど、唯は首を振った。
「先輩の問いに、この答えを選んだのは私の意思ですよ。……先輩になら、話しても良いと、そう思ったんです」
「どうして? だって、まだ……会ったばかりでしょう?」
「そうですね……」
 自嘲するようにくすりと微笑んだ唯は、
「……わがまま、です。きっと」
 少し迷ってから、言葉を選ぶ。
 それから件の紙片をテーブルの上に広げた唯は、その内容が芹菜に見えるよう、すっと差し出した。
 そこにはしなやかな文字で、

 今夜は里奈と過ごします。
 このメモを持ってきた相手を泊めること。
 着替えはわたしのを貸してかまいません。

 そう、書かれてあった。
「これ……」
 最近は結花に振り回されっぱなしだと思っていた芹菜も、このメモには絶句せざるを得ない。
「……と、いうわけですから」
 芹菜が呆然としている間に用意したらしく、唯の手には、普段は結花が袖を通しているパジャマがあった。
「どうぞ、使ってください」
 あまりの周到さに、今夜の出来事自体、そもそも仕組まれていたのではないかと勘ぐってしまいたくなる。
 だが、だとしたら、なんのために。
「ああ、もう……っ」
 余計なことまで考え始めた自分の思考回路に呆れて、芹菜は自らを突き放すために悪態をついた。
 いまさらこの場を飛び出して自室に戻ったとしても、きっと事態をややこしくするだけだし――――なにより、結花の頼みを果たすことが出来なかった唯に迷惑をかけてしまう。
 ここで文句を言っても、八つ当たりにしかならない。
「はぁ……」
 まずは溜め息をひとつ。
 それから大きく深呼吸して、覚悟を決めた。
「唯ちゃん、着替える前にシャワー浴びたいんだけど……」
 着替えを受け取って、そのまま立ち上がる。
 点呼が終わった後、浴場のお湯は抜いてしまう決まりだけれど、シャワーなら寮長の許可を取れば問題ない。
 もともとは里奈に頼もうと思っていたのだが、今となってはそれも叶いそうになかった。
「悪いんだけど……寮長さんに許可、もらってきてくれる?」
「でしたら問題ありません」
 芹菜が泊まる意思を示したことにほっとした唯は、ふわっと笑みを浮かべた後、
「寮長はわたしですから」
 そう言って芹菜を驚かせた。