■ レインタクト 第13幕<4>
水瀬 拓未様


 いつものように、コンコン、と二回。
「どうぞ」
 結花の声が聞こえて、ノブに手をかける。
 が、ドアを開けてみると――――室内は真っ暗だった。
「結花……? 芹菜……?」
 なんだろうと、驚きを隠せないまま室内に一歩踏み込む。
「ちょ、ちょっと? 二人ともいるの?」
 声を掛けるが返答はない。
 点呼の時に部屋を暗くしている寮生もいるけれど、大抵は声を掛ければ返事をしてくれるものだ。
「……電気、つけるよ?」
 勝手につけていいものか迷ったが、このままでは訳が分からないと、電灯のスイッチに手を伸ばした瞬間、その手首が思いの外強い力で、ぎゅっと掴まれた。
 刹那、里奈の背後でドアの閉まる音が響く。
「……点呼、この部屋を最後にしてくれた?」
 真っ暗になった室内、闇の向こうから聞こえる結花の声。
「した、けど……。結花……? 芹菜は?」
「芹菜なら、今夜は帰ってこないわよ」
 声と共に照明が灯り、結花の言葉が嘘でないと知る。
 隠れる場所などない室内に、芹菜の姿はなかった。
「……ほら、チェックして」
 結花の指が、点呼ノートの四〇五、と書かれた欄をなぞる。
 言われるまま――まるで魔法にでもかかったみたいに――里奈は、そこにいつもと同じ印を書き込んだ。
「……一緒に寝ましょう? 里奈」
 囁きと共に、点呼簿が手から滑り落ちる。
 パチンとスイッチの音がして、室内は再び闇に包まれた。
「一緒に、って……結花が言うと冗談に聞こえないよ……」
 抱きすくめられながら答えた里奈の声は消えそうなほどに小さくて、だからこそ、結花にとっては何物にも代え難い。
「あ……っ、ん……」
 後ろから回した両手で、まさぐるように里奈のラインを確かめて、それから――――胸の下に触れる。
「……分かる?」
 里奈の身体に刻まれた、自らを縛る痕。
「ん……」
 戸惑いがちに呟いた里奈の頬に、自らの頬を重ねる結花。
 柔らかさを通して伝わるぬくもりより、耳元で擦れる髪の毛のこそばゆさに里奈は肩をすくめた。
「……ぁ、く……っ」
 身を捩った拍子に、結花の唇が頬に触れる。
 それはキスと言うよりも事故に近かったけれど、結花がそのまま舌を這わせたことで、偶然から立派な口づけへと変わった。
「……ひ、ゃ……はぁ……っ」
 耳たぶをついばまれて、堪えきれずに声が漏れる。
 結花の舌は彼女のイメージ通り意地悪なのに、胸元を撫でる手つきは優しくて、そのギャップが里奈を惑わせた。
「……抵抗、しないのね」
 ふと囁かれた声に、胸が跳ねる。
「もっと嫌われると思っていたのに……。夕方、部屋で二人きりになった時は……警戒してたでしょう?」
 ホットケーキに垂らすシロップのように、耳に注がれる言葉。
 艶やかなのに甘すぎず、それでいて妙に懐かしい声音。
「並木結花の部屋に連れ込まれて……警戒しないはず、ないでしょ……?」
 精一杯の台詞で言い返してみると、結花はくすくす笑った。
「そう、ね……」
 思い返すのは、ほんの数時間前の出来事。
 下校時の他愛ない話では物足りなくて、もっと一緒にいたいからと、芹菜に無理を言って部屋を空けて貰った。
 小さなテーブルを挟んで、向き合って話し合った数時間。
 その間、里奈と結花に特別なにかがあったわけじゃない。
 ただ、下校時よりもほんの少しだけ踏み込んで、お互いの最近について語り合っただけで――――結局、中等部時代のことについては触れることはなかった。
 それでも数時間という時の流れがあっという間だったのは、それだけこの一年、お互いのことを何も知らなかった裏返しだ。
 すれ違うたびに軽口をたたき合う程度の関係じゃ、相手が何を想って過ごしていたのかなんて、わかるはずもない。
「二年って、思っていたより長いのね……。あの頃はあなたのほうが少し、背が高いと思ってたのに……」
 呟いた結花が、里奈の肩にしなだれかかる。
 二年前を示す言葉が出たのは、今日、初めてだった。
「……そう、かな……」
 首を傾ぐようにして、里奈は自らの肩にかかった心地よい重みに頬を寄せ、目を細めた。
「ねえ、結花。もし……」
「……もし? ……なに?」
 言いかけて黙り込んだ里奈に、問い返す結花。
 けれど返事はなく、
「里奈……?」
 結花が再度問い返したところで、里奈は首を振った。
「……なんでもない。ごめんね、ほんと、ごめん……」
「里奈……」
 闇に吸い込まれる、里奈の呟き。彼女が果たしてなにを尋ねようとしていたのか、それが分からない結花ではない。
 けれど、彼女が謝ってまでして飲み込んだ言葉を、自分が言う必要も――――今夜に限っては、ないはずだから。
「……自室に帰る?」
 そっと手を離して、判断を委ねる。
 もしこのまま強引に事を運んだとしても、きっと里奈は抵抗しないだろう。
 だからこそ、そうなる前に確かめておきたかった。
「……私、この部屋でいろんな子とキスをして……いろんな子を抱きしめてきた。でもね、みんな私のことが好きなんじゃなくて……並木結花と一緒に居る自分が好きなのよ」
 学園で注目の的、そんな相手と一緒に居る優越感こそが、自分に憧れる少女たちを何よりも酔わせている媚薬だった。
 結花自身、自分が『噂の先輩』であるからこそ騒がれていることを知っているし、それを利用することだってある。
 けれどそれは同時に、噂されるような話題の存在なら、憧れの存在であれば、誰でも良いという事実に他ならない。
「もちろん、それだって立派な好意だと思ってる。……でもね、里奈。見つめ合った瞳に自分が映り込まない相手とどんなにキスをしても、肌を重ねても……心までは重ならないの」
「結花……」
 ぐん、と心にのし掛かる言葉。
 染みるように広がる優しさは微塵もなく、もっと激しく、焦がすように胸に刻みこまれる、経験からくる感情。
「こんなふうに想うのは、きっと、最初に抱いてしまった子が、あまりにも……特別だったから、かもしれない」
 今まで告白してくれた少女達の中で、自分を心から愛しんでくれたのは、たったひとり唯だけだという感覚が、結花の胸にはずっと残っている。
 もし、あのとき唯に出会わなければ。
 あの廊下で彼女がキスを、告白をしてくれなければ。
 きっと、今日の自分はいない。
「少しでも迷いがあるなら帰って。私はそれを追わないし、責めたりもしない。……明日からもまた、いがみ合いましょう?」
 懺悔や償いで肌を預けられても悲しくなるだけだ。
 それなら、気持ちを巻き戻して欲しくない。
「今日がとても楽しかったから、少しわがまなになっていたみたいね。……でも、それは贅沢な望みだった」
 それでも、わがままを態度として示せただけ、二年前のあの日より少しは成長したのかもしれない。
 それが良いことかどうかは、分からないけれど。
「……里奈。私は、明日や明後日になっても、何年経っても……今日という日が楽しかったと思い出せれば、それでいい。一線を踏み越えて、思い出したくない日が増えてしまうぐらいなら」
 暗闇が少女を饒舌にさせた。
 夕暮れの中では言えなかった本音が、二年かけて蒸留された想いが、伝えたい相手の顔さえ見えない闇の中に漏れていく。
「結花……」
 声が聞こえた闇へと。
 結花の気配がするほうへと向き直り、里奈が呟く。
「……あたし、本当は話したいことがいっぱいあった。言いたいことも聞きたいことも、たくさん……」
 二年前の事と、二年間の事。
「でも、結花と一緒にいたら、全部、どうでもよく……は、ないんだけど……でも、今を大切にしたくなって……そうしたら、二年前のこと、なにも、言えなくて」
 わがままだと結花は自らを評した。
 けれど、それは自分だって同じことだ。
「……あたし、今の結花が嫌いだった。でも、それ以上に……今の結花になる切っ掛けを作った、あの頃の自分が嫌い」
 とつとつと自らの気持ちを、いるはずの結花に語りかける。
 真っ暗な部屋は電話のように相手の顔が見えないけれど、息づかいとぬくもりがすぐ側にあった。
「そんな過去から目を背けていただけなのに……回りは、そんなあたしを前向きだなんて勝手に思い込んで……」
 薄く自嘲した里奈は、その唇の形を崩すことなく、
「いま思えばひどい矛盾よね。……嫌いな自分のことを忘れるために、いつのまにか、あの日の事すら置き去りにして……あたしは、あなたを嫌うことで自分を好きになろうとしてたんだから」
 そう呟いて、結花に背を向けた。
「今日、帰り際に声を掛けられたとき泣いたのは……自分が恥ずかしかったからなの。勝手に意識して、勝手に振り回されて、挙げ句……自分を嫌う原因すら、あなたのせいにして……」
「本当、前向きだなんて見かけだけなのね」
 言いかけた里奈の台詞を、結花が遮る。
「……簡単なことに、なにを悩んでいるのよ。今の私を好きになれば、昔の自分も好きになることが出来るじゃない」
 言い切った結花の、その声に満ちていた強さ。
 それがこの二年間、自分の知らないところで育まれてきた結花の魅力だとするなら――――、
「結花……」
 好きになってもいいのだろうか。
 同じ人を、二度、好きになってもいいのだろうか。
 二年前の気持ちを、いま、伝え直すのではなく――――いま、自分の感じた気持ちを言葉にするのなら。
「そういうこと、さらっと言えるから嫌いよ……」
 呟いた言葉は涙に濡れて、それが里奈の精一杯。
 そんな彼女をそっと抱きしめた結花の両腕は、さっきよりもゆっくりとした速度で閉じていく。
「里奈。手、重ねて」
「ん……」
 涙を拭った指を、手探りで結花の手に重ねる。
 濡れた跡を、自らの指で撫でた結花は、
「……前言撤回、してもいい?」
 里奈の耳に唇を近寄せ、そっと囁いた。
「一緒に寝よう、って言ったけど……今夜は寝かさないから」
 ふふっという含み笑いが耳元で聞こえたかと思うと、それはキスに変わって、唇は首筋に落ちる。
「は……っ」
 びくっ、と里奈の芯が震えて、一瞬で息が火照った。
 始まりの合図としてはいささか控えめだけれど、今の二人にはそのぐらいがちょうど良いのかも知れない。
 季節外れの長い夜は、まだ始まったばかりだから。