■ レインタクト 第14幕<1>
水瀬 拓未様


 シャワーを浴び、着替えを済ませて部屋まで戻ってきた芹菜は、唯の言葉に面食らった。
「一緒に、寝る……って」
「布団、一組しかないんです」
 そもそも一人部屋なのだから唯の言葉はもっともだが、
「じゃあ、結花がこの部屋に泊まるときは……」
 芹菜が袖を通している寝間着の持ち主が泊まりに来たときはどうしているのだろう、という素朴な疑問が生まれるが――――その答えは聞くまでもなかったかもしれない。
「そういうときは、一緒に」
「あ、やっぱり……」
 臆せず答えた唯の返事は予想通りで、芹菜は照れを隠すように、ちらと二段ベッドに視線をやった。
「……嫌、ですか?」
 困惑した様子の芹菜を見て、唯が不安そうに問う。
「あ、ううん。そうじゃなくて……迷惑かけてるなぁ、って」
 慌てて芹菜がフォローすると、唯はほっとしたらしく、小さく息を吐いた。
「結花さんの手紙を見たとき、先輩を泊めたくないと思ったのならば断っていました。そうしなかったのは、私自身、先輩に好感を抱いたからですよ」
「好感……って、あんな、一瞬で?」
「第一印象は理屈じゃありません。それに……私は、一目惚れを信じるほうですから」
 そう言いきった唯には自信と根拠があり、迷いのないその瞳が、何事か言おうと開きかけた芹菜の口をつぐませる。
 唯には、それが遠慮しているように見えた。
 だから思わず、
「……どうしても嫌だというのなら、私は友人の部屋で寝ますから、その」
 そんな言葉が口をついて出てしまう。
「あっ、そういう事じゃなくて……なんていうか、ちょっと、羨ましかったから」
「羨ましい……ですか?」
 思いがけない回答に、唯が少し戸惑いつつ問い返す。
「そう思えることも、そう思われていることも、両方ね」
 芹菜は努めて明るく答えると、改めて唯に頭を下げた。
「寝相が悪かったらごめんね」
「……心当たりでも?」
「ううん。でも、誰かと寝るのは久しぶりだから」
 そう言った芹菜は、この部屋に来て初めて自分から笑った。

 先にどうぞ、と唯に勧められて二段ベッドの下側に滑り込んだ芹菜は、見上げた天井――二段ベッド上段の底面――との距離感に思わず声を漏らした。
「……あ」
 ふと、昔の記憶が甦る。
 昔、家の二段ベッドでは美優が上で、自分は下だった。
 寮生になったとき、どちらでも好きに選んでいい、と結花に言われて二段ベッドの上を選んだことを思い出す。
 半ば無意識だったあの選択。上を選んだのは、あの頃の記憶を遠ざけたかったから、だろうか。
 それとも、美優の見ていた世界を知りたかったのか。
「……どうかしましたか?」
 部屋の明かりを落とした唯が尋ねる。
 さすがに二人並んで寝転がると窮屈さはごまかせないが、それでも唯は慣れた様子で、芹菜の隣に落ち着いた。
「うん。……ちょっと」
 言い淀んだのは、ごまかすのは容易いと思ったからだ。
 唯は詮索することを好むタイプではなさそうだし、何でもない、と言えば、それで会話は終わっただろう。
 いつもの芹菜なら、きっと、そうしていた。
 だのに、
「……昔のこと、思い出して」
 自分の呟きをそう言って補った理由は、芹菜自身にもよく分からなかった。
 ただ、薄暗い部屋の中、二段ベッドに誰かと二人きりという状況が久しぶりだったから――――今夜ぐらい、おしゃべりになるのも悪くないと、そう思ったのかもしれない。
「……あたし、妹がいたの。妹は雷が嫌いで……雨が強い日は、いつもこうして二人で眠ってたから」
「いた……?」
「うん」
 訝しげに呟いた唯に、芹菜が頷く。
「二年前に、その……事故でね」
 唯が気遣うだろうことは分かっていたから、言葉を選ぶ。
「すみません、あの……」
 案の定、顔を曇らせた唯に芹菜は首を振る。
「気にしないで。知られたくないなら、そもそも自分から話したりなんかしないんだし」
 自ら呟いた一言で、なお、肩の荷が下りた。
「……無理に、とは言わないから。でも、もしよければ……あたしの話、聞いてくれないかな」
「……」
 これから語られるだろう事が、芹菜にとってどれほど大切な出来事であったか、それは彼女の口調ですぐに分かる。
 言葉通り、断れば芹菜が無理強いすることはないだろう。
 けれど自分だって、身勝手な――結花と里奈の過去を話して聞かせるような――真似をしてしまった後である。
「……私でいいんですか?」
 呼吸を数度繰り返せるだけの間をあけて、唯が問う。
 なによりも、大切な話をしてもいいと、芹菜にそう思えてもらえたことが嬉しかった。
「うん」
 深刻にならぬよう微笑んで、芹菜は話し始めた。
 二年前に失った妹への想いと、そんな妹と瓜二つの少女、美夜との出会い。
 そして、美夜と結花がキスをしている場面を目撃した事。
「……口論になって、気付いたら結花の頬を叩いてた」
 それが昨日の出来事だと知り、唯は合点がいった。
 昨日の夕方、唯は下校時に結花を見かけて部屋に誘った。
 思わず声をかけてしまったのは、結花の雰囲気に普段とは違うものを感じたからだけれど――――その理由を本人の口から聞かなかった唯は、今ようやく、その訳を知った。
「どう見ても無理矢理しているように見えた。だから、思わずカッとなって、ぱちーん……って」
 初めて結花の前で感情を発露させた夜、彼女が帰ってこない寮の部屋で一人、芹菜は自らの気持ちに気付いてしまう。
「あたしに、結花を責める権利なんてないのに……」
 真奈美に触れ、咲紀に告げられ、止まっていた時が動く。
 その中で、何よりも欲したもの。
「……自慢じゃないけど、あたし、そんなに友達が多い方でもなくて。それはたぶん、あたしが積極的に人に声をかけるほうじゃないからなんだろうけど……」
 だからこそ、咲紀の存在は大切だった。
 そんな彼女が、自分に特別な好意を寄せていたのだと知る。
「告白されたときに言われたの。いつまで縛られているつもり、もう二年なんだよ……って」
 それは図書室で告げられた言葉。
 何でも話せると思っていた無二の存在が、その胸の内にどんな想いを抱いているのかすら、自分は気付かずにいた。
 気付くことなく、二年という年月を過ごしてしまった。
「……誰かを好きでいる時って、それ以外の好意にひどく鈍感になるのかもね。好きな人の事を想うほど、それ以外の人の気持ちに、気付くことすら出来ない……」
 もしも自分に余裕があれば、咲紀の気持ちに気付いてあげることができたのだろうかと、そう考えた事もある。
 でも、あの日からずっと余裕なんてなかった。
 好きだという気持ちごと、いなくなってしまった美優。
 ずっと続くはずだった時間は、いきなり途切れてしまった。
「美優がいなくなって、なによりもつらかったのは……止まってしまった美優の時間が目の前にあることだった」
 二度と着られることのない洋服。
 座る人のいなくなった椅子。
 一人になってしまった部屋。
 それを片付けることは、芹菜には出来なかった。
「……家の部屋、そのままなの。なにもかも、そのまま。だから、いつか帰ってくるんじゃないかって……そう考えたこともある。そんなこと、あり得ないのにね」
 唯に、というより、自分に言い聞かせるように呟く。
 咲紀の言葉が、いまならよく分かる。

 ――――確かに、これじゃ呪縛と同じだ。

 芹菜の顔に、苦笑とも自嘲とも違う小さな笑みが浮かぶ。
「美優なら、もういいって、そう言ってくれるような気もするの。いつまでも私のことばかり思ってないで、自分のことをちゃんと考えて、って……こっぴどく叱られそうな気もする」
 その光景を想像するのはとても簡単だ。
 けれど、想像は想像でしかない。
「いくら心の中の美優に問いかけても、その先を想像しても、それはあたしの出した答えであって、美優がくれたわけじゃない。美優はもう……永遠に答えを教えてくれない」
 日々、だんだんと零れていく記憶。
 薄れていく思い出を自分の都合でつぎはぎしていく。
 それを繰り返して、繰り返して。
 そんな、自分の中に生きている美優に気持ちを尋ねたとしても、それは美優がくれる答えじゃない。
 彼女の声を聞く術は、もうない。
「……美優を忘れたくない自分がいる。でも、いつまでも忘れられないか、って聞かれたら……正直、わからない」
 美夜に出会って分かってしまった。
 自分はやっぱり、美優が大好きだということ。
 でも、どんなに大好きでも、彼女はもういない。
「怖いんだ。誰かを好きになることで、美優を忘れてしまうんじゃないかって。思い出を増やすことのできない相手より、すぐ隣に居る人に気持ちが傾いたら、きっと……」
 変化していく日々は鮮烈だ。
 どんなに大切な記憶であろうとも、あの頃のまま、ずっとずっと抱き続けていくのは不可能かもしれない。
 でも、それでも、美優は自分の中に生きている気がした。
 真奈美を抱きしめたとき、咲紀に押し倒されたとき、そして、美夜のことを考えるとき。
 どこかで美優が、自分を見ているんじゃ、ないかと。
「こういう言い方していいのか、分からないけど……思い出ってズルいね。あたしを責めたり、嫌ったりしないんだもの」
 微笑んで欲しいと願えば、笑ってくれる。
 寂しい夜には触れた肌の柔らかさを思い出せる。
 けして拒まず、いつでも側にいてくれる。
「でも……」
 少し言い淀んだ芹菜の言葉を、
「その代わり、何も応えてはくれない……ですか?」
 そう言って、唯が継いだ。
 芹菜が少し驚いて唯の顔を見つめる。
「……私の場合は、思い出じゃないですけど、でも……誰かのことを想い続けていたことはあります。……二年と、少し」
 その相手が誰なのか、芹菜は問わなくても分かった。