■ レインタクト 第14幕<3>
水瀬 拓未様


 小さな電灯の明かりだけを頼りに、結花の唇が動く。
 寝かさないから。
 そう囁いた唇が、里奈の肌に朱色の跡をつける。
 繰り返される口づけを受けながら、里奈は結花の髪を指で梳き、それを見つめていた。
 さらりという感触が、自らの重みで指の隙間からこぼれるたび、いとしくてそれをすくい上げた。
「なに、してるの?」
「綺麗だな、って」
 それは素直な感想だった。
 結花を構成している全てが、綺麗だと感じた。
「……長いだけよ?」
 少しだけおかしそうに、くすっと笑う結花。
 その仕草を、今夜の里奈は素直に見つめられた。
「切ろうと思ったことはないの?」
「別に……その必要もなかったから」
 これといった運動をしていたわけでもないし、自分の髪を邪魔だと感じる機会もなかった。
「手入れを面倒だと思うこともあったけれど……慣れてしまうと、その時間も嫌いではなかったし」
 色々な事を想いながら髪をいじるのは好きだったし、今でも落ち着く時間のひとつだ。
 もしかすると、多少は愛着を感じているのかもしれない。
「そんなに欲しいなら……あげましょうか?」
 くすくすと笑って、指でハサミの形を作った結花は、それでうなじあたりからばっさりと切る真似をした。
「髪だけもらっても」
 困ったように苦笑した里奈は、それでも髪をいじるのをやめようとはせず、一房、そっとつまみあげる。
 それを筆のようにして、結花の耳元をくすぐった。
「……案外、子供じみたことをするのね」
 目を細めて、こそばゆさを堪えながら唇を尖らせた結花の顔は、いつもよりどこかあどけない。
「自分のことを大人だなんて、思ったことないけど」
 そう言った里奈に悪びれた様子は微塵もなく、結花の髪から指を離し、その指でくすぐっていた耳をつまんだ。
「もしかして……大人だと、思っていてくれた?」
 さするように、指で耳たぶを擦りながら少し遠慮がちに問いかけた里奈に対して、結花は曖昧に頷く。
「私よりは、ね」
 呟く結花の脳裏に甦るのは、夕陽に染まる教室で、自らの傷痕を見せてくれた里奈の姿だ。
 もっとも里奈を近いと感じた瞬間は、同時に、里奈をもっとも遠く感じた瞬間でもある。
「……ねえ、結花にとっての大人って、どういう人?」
 ふと、聞いてみたくなった。
 悪戯心と好奇心、半々ぐらいの質問だ。
「そうね……」
 問いかけを受け取った結花は、里奈の肌から唇を離すと、
「好きではない人や物事とも、接することを臆さない人」
 そう言って、じっと里奈の目を見つめた。
「言い換えるのならば、私には出来ないことを平然とやってのける人、かしら」
 それはつまり、
「自分になんら関わりのない他人の為に、わざわざ周囲の注目を集めてまで、自分の時間を使ってまで、何かをしようとするような……お人好しのことよ」
「……」
 少し遠回しな結花の表現が、二年前の自分を指しているのだという事はすぐに分かった。
 里奈はほんのわずか、悔いるように唇を噛む。
「……相手の気持ちも考えず、その人の領域に踏み込もうとするなんて……子供のすることじゃない」
 独白する声音は、自らに言い聞かせているようだった。
 二年前――――あの頃の自分が未熟で身勝手だったという後悔の念は、里奈にとって覆しようがない。
 そんな里奈を見て、結花はわずかに息を漏らした。
「……こっちに来て」
「でも」
「来なさい」
 言い切った結花は返事を待たず、里奈を抱きすくめた。
「嫌味だと思われたのなら謝るけど、別に責めるつもりがあって言った訳じゃないの。……むしろ、感謝してるんだから」
 囁かれた声は柔らかく、里奈の張り詰めかけていた気持ちをあっさりと解いてしまう。
「言葉を飾っていないと、見透かされてしまいそうで怖いのよ。……皮肉ばかり上手くなって、ほんと、馬鹿みたい……」
 自嘲するように呟いた結花は、それから、
「……誰かの心に踏み込もうと思ったら、少しはわがままにならなくちゃいけない。……でも、私にはそれが出来なかった」
 真面目な声で、そう、付け足した。
「結花……」
 一度、腕の力が強くなって、里奈は戸惑いがちに声を漏らす。
「……二年前のあの日、私の過去を、私の口から聞きたいって言ったこと、覚えてる?」
「ぅ、ん……」
 抱きしめられたまま、小さく頷く里奈。
「……小学校にあがって私が最初に覚えたのは、家の戸締まりの仕方だった」
 そう切り出した結花は、自らの過去を語り出した。
 育ててくれた母親と、名前だけしか知らない父親のこと。
 授業参観で自らを貫いた、様々な感情。
 我慢することに慣れていく時間の中で、自分に対して接してきた、何人もの大人。
「……私はひとりでいることを自分で選んだ。それが、私自身にもっとも適していると思ってた」
 他人の顔色を窺うことなく、気遣うことなく。
 幼くして定めた自らの生き方に迷いはなく、だからこそ結花は、他人に囲まれているときでも自分を見失わずにいた。
 それを、つらいだとか寂しいと思ったことはない。
「だというのに、あなたは……私の心に入り込んで」
 はじめて他人のお節介を好意だと感じた。
「……正直、気恥ずかしかった」
 だからこそ、それを素直に受け取ることが出来なかった自分。
 そんな自分がもどかしかった。
「もし、あの出来事がなければ……いまの私はなかった。あなたはその事をずっと気にしていたようだけど……私は、自分が自分を嫌いになるような生き方を選んだつもりはないから」
 今の並木結花になることを選んだのは、他でもない自分だ。
 里奈がそれを気にする必要はない。
「あなたに出会って、私が変わったとしても……それは、私自身が決めたことで、里奈のせいなんかじゃない」
「結花……」
 抱きしめられているだけだった里奈の腕が動いて、結花の背に回ると、彼女は添えるように力を込める。
「こんな私でも、まだ好きになれる自信はある?」
 挑発するような問いかけに、
「……たぶん、きっと」
 曖昧に頷いた里奈の言葉が、結花には却って好ましかった。
「……さ、お喋りはおしまい。時間、勿体ないでしょう?」
 ふふっと軽やかに笑った結花は、その声とは対照的に、寂しげな眼差しを細めると、里奈の頬に自らの頬を寄せる。
 記憶を二年前に巻き戻すと、必然的に思い出してしまう痛み。
 唯に初めてキスをされる少し前、軋む心に刻まれた言葉。

 ――――上坂さんに並木さんの事を頼んだの、私なの。

 ぎし、と胸を揺さぶる恵美理の声。
 けれど、
「結花……?」
 今夜は里奈のぬくもりが、その痛みを打ち消した。
 自分を抱きしめたまま動かない少女の名前を、どこか心配そうに呼ぶ里奈に対し、
「……ごめんなさい、なんでもないから」
 結花はそう答えて、首を振る代わりに、唇を落とした。
 いま、それを里奈に問うことは容易い。
 けれどもし、事が自分の想像通りだとしたら――――この場でそれを里奈に告げる必要はないはずだから。
...To be continue.