■ レインタクト 第15幕<2>
水瀬 拓未様


 懐かしい顔を見つめていたような気がする。
 声をかけるでもなく、かけられるでもなく、ただ見つめ合うだけで胸が満たされた。
 彼女の名前を知っていたけれど、呼べず。
 彼女が自分の名前を呼ぶこともなく。
 やがて揺り起こされる感覚で、少女の姿はふっと消えた。
「おはようございます、芹菜さん」
 目を開けると、自分の顔を覗き込んでいる少女と目が合う。
 思わず違う名前を口にしそうになった直後、
「え……あ、うん。……おはよう」
 自分のおかれた状況を思い出し、芹菜はぎこちなく笑った。
 結花の頼みを聞いて一年の寮にやってきた後、初対面の後輩に自分の過去を話し、そのまま一緒に眠った。
 端的に事実を並べれば、自分でも苦笑するしかない。
「すみません、朝早くに起こしてしまって」
 そんな芹菜の表情を見たせいか、唯は申し訳なさそうにちょこんと頭を下げた。
「早い、って……えっと、いま」
「六時過ぎです」
「ふぁ……早起きなんだ」
 小さなあくびをかみ殺しつつ、体を起こす。
 見れば唯はすでに制服姿だった。
「いえ、今日は特別です。ほかの寮生が起きる時間では、芹菜さんが部屋に戻りにくいのではないかと思って」
 早めに登校したい用事もあってこの時間を選んだというが、それは気を使わせないための方便かも知れない。
「そっか、なるほどね」
 確かに見知らぬ二年生が寮の中をうろうろしていては、一年生も落ち着かないだろう。
「ありがと。着替えたら、すぐに出ていくから」
 唯の気配りに感謝して、芹菜はベッドから降りた。
 寮長である唯の許可があったとはいえ、宿泊したのはイレギュラーなことだし、これ以上の迷惑はかけたくない。
「あの、途中まで送ります」
 敷地内を歩いて自室に戻るだけなら大仰な身支度も必要ないと適当に着替えていた芹菜に、唯が控えめに申し出た。
「平気。もし下級生とすれ違ったら会釈しておくから」
 本当にそうなったら相手の子は驚くんだろうな、なんて想像をして笑みがこぼれる。
「でも」
「早い時間に起こしてもらっただけで充分」
 その言葉に嘘はない。
 実際、早朝の寮は静かなもので、これならよほど間が悪くない限り誰かとすれ違うことはないだろう。
「……よし、っと」
 髪の乱れが少し気になるけれど、このあたりは自室に戻ってから整えても問題ないレベルだ。
「色々ありがとね、唯ちゃん」
 あらためて微笑む。
 彼女に対する感謝の気持ちが、自然と笑顔を生んだ。
「いえ、べつに、そんなたいした事は」
「また遊びにくる、って言ったのは嘘じゃないから」
「……はい」
 名残惜しい、という気持ちが湧いてきたことに自身でも驚きながら、それでも唯はその気持ちを抑えて頷く。
「学園で見かけたら遠慮せず声かけて。放課後は図書室にいることも多いから」
 よければ本を借りにきてねと、自分が図書委員であることも伝えた芹菜は、一晩明かした部屋のドアノブに手をかけた。
「じゃ、またね」
 ドアを開け、廊下に出た芹菜が手を振る。
 自分も廊下に出て見送ろうと思ったけれど、なんだか出来なくて、唯はそのまま手を振るのが精一杯だった。
 ゆっくりと閉まったドアを見つめ、ふぅ、と息を吐く。
「偉そうなこと、言っちゃったな……」
 昨夜の会話を思い出した唯の口から、そんな呟きが漏れた。

「んっ……」
 その後、とくに問題もなく一年の寮を後にした芹菜は、朝の日差しに目を細め、あらためてぐっと伸びをした。
 雲のない空に昇りはじめた朝日は体を透かしてくるようで、ほんの少し肌寒い風と相まって心地よい。
 わずかに残っていた眠気が洗われていく中で、不意に、今朝見た夢のことを思い出した。
 美優が妹であること。
 それは彼女がはじめて自分の家にやってきたときから、彼女の時が止まってしまった今でも変わることはない。
 では、もし美優が妹でなかったとしたら。
 そもそも出会えたのだろうか。
 仮に出会えたとしても、好きになったのだろうか。
「……今のあたしに、わかるわけないか」
 ここ数日、いろいろな事があった。
 昨夜、唯と話したなかで自分の気持ちをいくらか整理できたことは事実だし、得られたものも多い。
 見えなかったものが見えるようになった、というより、見えていなかったことに気付いた、と言った方がきっと近いだろう。
 もっとも、気付いたからといってどうこうできるわけじゃないけれど――――それを意識するだけでも違うはずだ。
 今なら、結花とだって素直に向き合える気がする。
「……単純なのかなぁ、あたしって」
 乾いた笑いは、どうしても自嘲的になってしまう。
 結花の妹になりたいと言った、唯の声。
 なぜだか、その一言が忘れられなかった。