■ レインタクト 第15幕<3>
水瀬 拓未様


 自分の部屋へ入るのにノックもするのもおかしいと思いつつ、昨夜の事と例のメモの内容もあって、ドアを叩く。
「どうぞ」
 同居人の帰室を予期していたらしく、結花の返事にはどことなく余裕があった。
 それは芹菜にとっても予想通りの反応で、だからこそ、ノブを回す手に緊張はなかったのだと思う。
 ドアを開けたそこに里奈の姿はなく、鏡の前で髪を梳いている制服姿の結花がいるだけだった。
「おかえりなさい」
 自分を出迎える柔らかい口調、心地よい声音。
 芹菜にとって、馴染みのない結花。
 それは、昨日と変わらなかった。
「……里奈は?」
「帰ったわよ、朝早くに。今朝は用事があるんですって」
「そう……なんだ」
 二人の間になにがあったのか、興味がないと言えば嘘になるけれど、詮索してまで知りたいわけじゃない。
 それに、ヒントならすでにもらっている。
「芹菜はどうだったの?」
「あたし?」
 なにが、と思って聞き返すと、
「唯と一晩過ごして、どうだった?」
 微笑んだ結花の表情に、どこか誇らしげなものを見つけて、芹菜は知らず知らずほっとした。
 もしここで真奈美をあてがったときのような反応が垣間見えたとしたら、嫌悪していたかもしれない。
「……うん。素敵な子だったよ」
 それは正直な感想だ。
「でしょう」
 まるで自分の事のように微笑んだ結花に、
「あなたのことを……色々、教えてくれた」
 少し迷ってから、そう告げた。
「……そう」
 自分を見つめていた目線を外して、結花が小さく頷く。
 黒髪を梳いていた手は、いつのまにか止まっていた。
「里奈とのことも……聞いた。中等部の頃のことも」
 そんな結花に、芹菜は昨夜のことを簡潔に伝えた。
 唯の抱く想いに胸を打たれたこと。
 中等部時代にあった、里奈との一件を聞いたこと。
 結花のパジャマを借りて眠ったこと。
 自分の秘密を、唯に語ったこと。
「……芹菜の、秘密?」
「それは、その……今度、教えるから」
 自分だけが相手の過去を知ってしまったのはアンフェアだという罪悪感のような意識が、芹菜にはある。
 自分のことなんて、正直、興味はないと一笑に付されるかもしれないなんて思いもあったけれど、
「……期待してる」
 結花の答えは、意外にもそんな一言だった。
 結花とのつながりが途切れなかったことに安堵しながら、
「ひとつ、教えて。どこまでが、あなたの計画だったの?」
 芹菜はずっと抱えていた疑問を口にした。
 一連の出来事は、出来すぎていた気がしてならない。
「計画……って」
 芹菜の問いに、一瞬あっけにとられた結花は、それから口元を手で押さえ、くくっと笑う。
「なっ、あたしは真剣に……っ」
「生憎ね、芹菜。私はそこまで器用じゃないから。唯のところに泊まってもらおうと思ったのだって咄嗟の思いつきであって、まったくもって昨日の出来事は……全部、偶然よ」
 どうすれば必然で、どこまでが気まぐれで、どこからが自分の意思によるものか、その線引きをすることは難しい。
 昨日の出来事に運命という名前をつけて処理するのは簡単だけれど、それで芹菜の抱く困惑の答えになるとは思えなかった。
 他ならぬ結花自身、まだ心のどこかで信じられずにいる。
 だからこそ尋ねてきた芹菜の気持ちが理解できたし、それゆえにこみ上げるおかしさを我慢できず、つい笑ってしまった。
「……本当に?」
「疑り深い。……でも、そうさせたのは私だものね」
 重ねて尋ねた芹菜へと返す結花の言葉に刺はない。
 それから少し考えて、
「……虎の威を借る狐、って話、知ってる?」
 結花はそんな質問を口にした。
「え?」
 突拍子もない内容に、思わず面食らってしまう。
 けれど結花は真面目な表情を崩すことはなく、
「知ってる?」
 と、繰り返し聞いてきた。
「一応、知ってるけど……。でも、なんでそんな事、急に」
「知っているならいいわ。今日は私と一緒に登校しましょう?」
「……え?」
 困惑して聞き返す芹菜だが、結花はそれに答えず、
「少し早いけど、先に朝食を済ませているから。支度が終わったら、食堂まで着て」
 言うが早いか返事も聞かず、そのまま部屋を出て行った。
「なんなのよ、もう……」
 雰囲気が変わっても強引なとこはちっとも変わらないと内心呟き、芹菜は閉まったドアを眺めて今日も溜め息をついた。

 結局――――意味深な言葉がどうにも気になって、芹菜は結花の誘いを受けた。
 二人並んで寮を後にする。
 思えば寮生になって一年、誰かと一緒に学園まで向かうのは、これが初めてかもしれない。
「……どういう風の吹き回し?」
 学園までの道のり、隣を歩く結花に問う。
「吹き回しも何も、これが答え。慌てなくても、すぐに分かるから」
 落ち着きのない芹菜の様子がおかしいのか、結花はくすくすと笑うことが多く、そのたびに芹菜は拗ねるように息を吐いた。

 結花の言葉通り、芹菜が例の謎かけを理解するのに、そう時間はかからなかった。
 普段とは何かが違う通学風景。
 学園が近くなるにつれ、その違和感は増していく。
「この時間は生徒が少なめだけど……私が誰かと登校することなんて、あまりないことだから」
 小さく漏らした結花の一言で、その正体に気がついた。
 自分たち――といっても、大概は結花――に向けられている視線が、やけに多い。
「これでも、以前よりは落ち着いたほうなのよ」
 平然と言ってのける結花。
 以前、というのが中等部の頃だとすぐに分かったのは、唯から話を聞いていたせいもあるのだろう。
「……虎の威を借る狐、か……」
 なるほど、と芹菜は呟いた。
 虎に食べられそうになった狐が、わたしは神の使いですと嘯いて、その証拠を見せるからと虎を引き連れて森を歩く。
 森の獣は、狐の後ろを歩く虎を見て驚き逃げるが、虎はそれが分からぬので、狐の威光なのだと信じてしまう――――虎の威を借る狐とは、そういう話だ。
 結花は別に、自分が虎だと言いたいわけじゃないだろう。
 この状況を比喩するため、そんな話を持ち出したに過ぎない。
「……昔は、もっと蔑みに似た視線も多かった。当然、関わりたくないと目を逸らす人だっていたわ。里奈は、そんな私に声をかけてくれた。唯は、そんな私の側を臆せず歩いてくれた」
「……」
 急に話し始めた結花の言葉を、黙って聞き入れる芹菜。
 と、
「どうしてそんな話をするのか。って、思ってるでしょう?」
「それは、まぁ……うん」
 不意にそんなことを言われ、芹菜は少し迷ってから頷いた。
「芹菜が私に関心をもってくれたから。そのお礼よ」
「関心、って……べつに、あたしは」
「あら? 唯に私のことを教えて、って言ったんでしょう?」
「あれは……」
 ふふっと笑った結花に見つめられ、昨夜の事を思い出す。
 その内容は、今朝自ら結花に伝えたばかりだ。
「さっきも言ったけれど、あなたのことを唯に頼もうと思ったのは、ほかに方法が思いつかなかっただけよ。でも、結果として芹菜は私に興味をもってくれた。それを喜ぶのは変?」
「変、じゃないかもしれないけど……」
 一年という時間、おなじ部屋で暮らしてきたにも関わらず、結花に対してどこか余所余所しく接してきた。
 そんな自分と彼女の距離を、なんと呼べばいいのだろう。
 放置? 容認? それとも嫌悪?

 ――――なんだか、どれも違う気がする。

 今まであまり考えたことがなかった。
 でも、それ以上に考えなかった事が、ひとつある。
 そんな自分を、結花がどういう風に思っていたのか、ということだ。
 並木結花は、桜野芹菜をどんな目で見ていたのだろう。
「好きな相手がいるのに素直になれなくて意地悪しちゃうってこと、あるじゃない? 自分の存在を、意識してほしくて」
 不意に湧いた疑問を抱いたまま歩く芹菜に、結花は変わらぬ口調で話を続けた。
「でも、近づくことも遠ざかることも選べないと……曖昧な距離を保ったまま、変化なく過ごすことしかできない」
「……それがあたしだって言いたいの? 素直じゃないって」
「逆よ。私はあなたのこと、ずっと素直だなって思ってた」
「は……?」
 きょとんと惚けた直後、よく絶句しなかったものだと思う。
「……結花ってそういう冗談、言うほう?」
 自分の耳を疑うより、結花の口を疑った。
「わりと、ね。私はあなたのように素直じゃないもの」
「……」
 なんなんだろう、このやりとりは。
 居心地が悪いような、でも、悪くないような、これは。
「……態度、変わりすぎ」
 ちょっと嫌味を込めて反論した芹菜に、
「お互い様」
 結花は軽やかに笑う。
「それと、もしこの前の……私の頬を叩いたことを気にしているなら、謝らなくていいから。あれは自業自得だもの」
「だっ……だれが、謝ろうとなんか……っ!」
 昨日の夕方はそのことで悶々としていた自分を思いだし、先手を打たれたこともあって、思わず反発してしまう。
 美夜とキスをしていた件について、芹菜の中から完全にわだかまりが消えた訳じゃない。
 もし美夜が憤慨しているのなら、そのことについて結花へ文句を並べても構わないかもしれないけれど――――当事者の美夜自身が結花に遺恨を抱いている様子はなかった。
 むしろ、あのキスを目撃した事によって嫌悪の対象となったのは他でもない、欲求に焦れる自分自身の浅ましさだ。
「……結花」
 短いようで長い沈黙の後、それでもつかず離れず一緒に歩いていた少女を呼び止め、芹菜は立ち止まる。
 息を吐き、吸って、止める。
 唇を、きゅっと結んだ。
「なに?」
 少し遅れて立ち止まり、自分のほうへと振り向いた結花に対し、芹菜は間髪入れず、
「ごめん」
 沢山の想いを込めた短い言葉とともに、頭を下げた。
「……ほら、素直じゃない」
 否定なのか、肯定なのか。どちらとも受け取れる微妙なニュアンスでくすくすと微笑んだ後、
「教室まで送るわ、芹菜。いきましょう?」
 そう言った結花の黒髪が、ふわりと風になびいた。