■ レインタクト 第17幕<1>
水瀬 拓未様


 芹菜と結花が一緒に登校した朝、その少し前。
 いつもより早く登校した唯は、誰もいない教室で、バインダーに綴じられた用紙をめくっていた。
 内容に間違いがないか、一枚ずつチェックしていく。
 それは寮長が学園側に提出する物で、本来ならば昨日の夜のうちに片付けておこう、と思っていたものだ。
 思いがけない客人――芹菜――の来訪で、昨夜は手を付けることが出来ず、寮で済ませてから登校するよりは学校で終わらせてしまおうと、朝の教室で作業していた。
 とくに問題がなければ、職員室へ提出しておしまいだ。放課後までに届ければいい、ということなので、焦りはない。
 月に一度の決まり事で、唯にとってはこれが初めてだった。
 当然、他の学年の寮長も提出にくるはずで、とくに二年の寮長に会うかも知れないと思うと、唯の胸はざわついた。
 上坂里奈。
 かつて水泳部の一番手だった彼女は、現在、生徒会副会長と二年生寮の寮長を兼任する優等生である。
 二年前のあの日以来、唯は里奈と話したことがない。
 話す機会がなかった、と表現しても間違いではないけれど、無意識に距離を取っていた部分はあるだろう。
 里奈に対しては、どうしても素直に向き合えない。それは唯の心にある、しこりのようなものだった。
 意識しないように意識している、という矛盾。
「……あっ」
 それまで順調だった作業が、里奈の事を考えた途端、手が滑り、シャープペンを床の上に落としてしまう。
 椅子を引いてそれを拾いながら、不意に昨日のメモの内容を思い出し、かがみ込んだ姿勢のまま動けなくなってしまった。
「……」
 今夜は里奈と過ごします、という一行。
 それを目にしたときに、ぎし、と軋んだ胸の痛み。
 からかったり、はぐらかすような態度をとることもあるし、それが似合ってしまう結花だけれど、面白がってあんな冗談をつくようなことはしない。
 第一、結花の書いたメモを芹菜に見せた時、里奈と泊まる、という箇所に芹菜が反応しなかったことから考えても、それが嘘だったとは思えない。
 結花と里奈が人払いをして一夜を共にした、という事実。
 それがなにを意味しているのか――――おそらく、唯の推測は当たっているはずだ。
 昨夜はそれを考えたくなかったし、実際、芹菜の話と無防備な寝顔のおかげで、それを忘れて眠る事ができたのに。
 朝目覚めて、芹菜を送り出した後、彼女に貸した結花のパジャマを見た途端、猛烈にそれを意識してしまった。
「……っ」
 想像のなかで結花と里奈がキスをする直前、唯は頭を振ってその映像を打ち消した。
 拾ったシャープペンを、ぎゅっと強く握る。
 結花の妹でいたいと思い、素敵な恋愛をしてほしいと願い、そうして過ごしてきた歳月。
 結花が自分以外の誰かとキスや、それ以上の行為をしてきた事は知っているし、分かっている。
 今までそれに嫉妬したことはなかった。

 なのになぜ、今朝に限っては、こんなに。

 シャープペンを持った手で、苦しくなる胸を押さえる。
 と、教室のドアが開く音が聞こえて、
「でもさ、あれ誰かな? わたし、あんまり見覚えないなぁ」
「だっけ? どっかで見たような気もするんだけど」
 続いて聞こえてきたクラスメイトの会話に、なぜだか、妙な胸騒ぎを覚えた。
「……おはよう」
 ちょうど机の陰に隠れるような格好になっていた唯は、そう言いながら椅子に座り直す。
「あ、唯じゃん。なんだ、一番うちらじゃないんだ」
 入って来た二人組の一人はそう言うと、
「そうだ、唯さ、並木先輩と仲良かったよね? なんか今日、並木先輩が同学年の人と一緒に登校しててさ」
「一緒に?」
 思わず聞き返したその脳裏に、過ぎる影。
 しかし、
「そうそう。んで、それがやけに親しそうだったんだけど……唯、誰だかわかんないかな?」
「誰、って……」
 呟きながら、唯はそれが里奈でないと気付いてほっとした。
 結花とは違う意味で、里奈は有名である。生徒会副会長や水泳部時代の功績などで、知っている生徒は多い。
「うん、なんか小声で話してて……唯以外で並木先輩と親しい高等部の生徒って、ちょっとわかんなくてさ。……こう、ね? 髪はえっと、こんぐらいで……」
 よほど気になるのか、身振り手振りを交えて目撃した生徒の情報を伝えようとするクラスメイトの話を聞きながら、唯は該当しそうな人物に思い当たった。
「それならたぶん、桜野先輩だよ。寮で同室の」
 寮で同室、という部分を少し強調して言うと、
「なんだ。ただのルームメイトかぁ」
 もう一人の少女が、少しつまらなそうに呟いた。
 謎が解けて、クラスメイトたちの興味は尽きたらしい。
「唯はこんな早くから何してたの?」
「あ、うん。月に一度、寮長が学園に提出しなくちゃいけないやつ、まとめてたんだけどね」
 自分の机の上を覗き込んできた級友と会話しながら、唯はいつのまにか軋んでいた胸の痛みがやわらいでいる事に気付いた。
 結花と一緒に登校した生徒が芹菜であるという結論が、思いがけず自分の不安を取り除いたこと。
 その理由。
 芹菜と結花が一緒にいる光景を思い浮かべても大丈夫なのに、芹菜を里奈に差し替えた途端、染み出してきた感情。
 その正体。
 それに向き合ってしまったら最後、自分がずっと積み上げてきたものが壊れてしまいそうで――それが分かるからこそ――唯は広げていたバインダーを閉じた。
「あれ? もういいの?」
「うん、あと少しだったから」
 問い掛けてきた友人に答えた言葉は嘘だったけれど、猶予は放課後まであるのだし、それまでには終わるはずだ。
 こんな気持ちのまま、一人でシャープペンを握っていたらまたそれを思い出すことは分かっていたから、唯は授業が始まるまでの間、クラスメイトと雑談に興じることに決めた。