■ レインタクト 第17幕<3>
水瀬 拓未様


「あの子は、先輩のなんですか?」
 その声には、芹菜のことを尋ねるときよりも、嫉妬と羨望が色濃く混じっていたように思う。
 芹菜との関係に、自分を取り巻く少女たちが納得したと思った刹那、その中の一人が問い掛けてきた言葉である。
 あの子、というのが美夜を指しているのだと気付くのに、結花は少し時間がかかった。
「あの子って……美夜のこと?」
 名前を出すと、別の少女が美夜とクラスメイトだったらしく、そうです、と頷く。
「なに、といわれても……」
 その瞳に惹かれてキスをした、とは言えなかった。
「……彼女は、芹菜の知り合いよ。芹菜に用があるというから、連れて行っただけ」
 とりあえず口にした言葉は事実なのだが、雰囲気で分かるのか、それに納得する少女は一人もいなかった。
 結花に関心や憧れを抱く下級生たちの多くは、お互いに多少なりとも面識があり、大抵が複数で行動している。
 中には、一人で一途に結花を想うようなタイプもいるけれど、その大多数は――さきほど芹菜に質問をしていたような――数人のグループが基本だ。
 だから自然に、それぞれの顔や名前を覚えていく。
 けれど、美夜はそういった関係の外にいた。それゆえに、突然現れたという印象を与えてしまったらしい。
 芹菜に関しては、寮のルームメイトだからという一言で説明できてしまうし、それで納得してもらえる。
 が、美夜に関してはそういう分かりやすい関連性がない。
 冗談めかして、恋人候補だ、なんて説明するのは簡単だけど、それで美夜に迷惑をかけては申し訳ないし、何でもない、というには少し親しげな雰囲気を出し過ぎた。
 さりとて一切説明をしないのでは、噂の一人歩きを容認してしまうようなものである。
 昼休みの終わりまで、時間は残りわずか。
 どうしたものかと結花が悩んでいると、
「結花」
 高等部と中等部をつなぐ渡り廊下で、思いがけず、里奈から声を掛けられた。
 結花の周囲にいた中等部の生徒たちがざわつく。
 里奈と結花が顔を合わせるたびに――とくに結花が中等部の生徒と過ごしていると――言い合うのは、誰しもが知っている。
「どうしたの? なにか用?」
 そう言って里奈に問い返した結花だが、実のところ、校内で里奈が話し掛けてくることは珍しい。
 大抵は結花のほうから声をかけて一悶着ある、というのが定番だったので、声をかけられた結花本人も少しだけ訝しんだ。
 とはいえ、その理由に心当たりがある。
「……別に。ただ、変わらないな、と思って」
 その一言が、暗に昨夜の行為を示していたので、自分の勘が当たっていたことに、結花は溜め息をつくように笑った。
 直後、
「……ねえ、里奈」
 結花の脳裏に、閃きがひとつ。
 いま結花が抱いている問題を、一気に解決する妙案。
 それはとても悪戯で、人騒がせで、しかし計算高い――――ある意味、結花らしい解決策だった。
 それを思いついたのは、昨夜、里奈と肌を重ねていたからこそであり、その下地があればこそ、結花はそれを実行に移せた。
「少し、いい?」
 問い掛けながら、結花が静かに床を蹴る。
 黒髪がふわりと舞った次の瞬間、結花は里奈の隣にいた。
「ゆ、か……っ」
 目前に近づいてきた顔、その瞼が閉じられるのを見て、里奈はこれから自分がキスされるのだと悟った。
 逃げるとか拒むとか、そういう選択肢を相手が選ぶ間もないほどに、結花は素早く間合いを詰めている。
 里奈が瞼を閉じるのと、唇が重なるのは、ほぼ同時だった。
「あ、ふっ……」
 触れ合った直後、結花はわざとそれを浮かせ、絡む舌が周囲にもよく見えるよう、ほんの少し距離をとって隙間を作った。
 当然、そこからは声や息が漏れる。
「……っ、ん……ぅ」
 唇を伝い落ちていく、唾液の糸。
 その艶やかさに、中等部の少女たちは息を呑んだ。
 中には、思わずよろけ、壁に寄りかかるようにしてしゃがみ込んでしまう生徒もいたほどに、二人のキスは濃厚だった。
「な、に……を、っ」
 口づけが終わり、それだけを紡ぐのが精一杯の里奈に、
「昨日だって、したことじゃない」
 結花は平然と、そう言って微笑んだ。
 どれほど気になることがあっても、より大きな関心事が現れてしまえば、人の興味はそちらに向かう。
 なら、それを自ら提供すればいい。
 白昼の校内で里奈とキスをしたことに比べれば、美夜に親しく接していたことなど霧散するはず。
 結花の思惑は、見事に狙い通りとなる――――。

 昼休み、他の生徒が見ている目の前で結花と里奈がキスをしたという話題は、すぐさま中等部を駆け抜けた。
 だが、目撃者が中等部の生徒ばかりで、すぐに昼休みが終わり授業が始まってしまったことによって、それが高等部へと伝わるには若干の時差が生まれた。
 その日は委員会の仕事もなく、登校時の騒動もあって早めに下校した芹菜は、そんなことがあったとは露ほども知らず、結花に自分の過去を話していたことになる。
 ちなみに芹菜がこの一件を知るのは少し後のことで、咲紀いわく、とっくに知っていると思っていたので話題にしなかったといわれては、芹菜も苦笑するしかなかった。
 そして、この一件で誰よりも動揺したのは、キスを目撃した生徒たち――――ではなく、他ならぬ里奈だった。
 いきなりのキス。
 触れ合わせるだけならまだしも、舌を絡ませて、音を響かせ合うほどの深い深い口づけ。
 それを、何人もの生徒たちに目撃されたこと。
 かつてないほど早く動く心臓と、火照ることをやめない頬の熱さが、昨夜の時間をより鮮烈に思い起こさせる。
 午後の授業は気もそぞろで集中することが出来ず、いつ、どこで、誰の口からその事を尋ねられるのかと、里奈はそわそわしたまま放課後の校舎に残ることとなった。
 本当なら彼女も、芹菜と同じように足早に下校し、たとえそれが束の間だったとしても、少しでも寮で落ち着く時間が欲しいと思っていたに違いない。
 だが、里奈にはそれが出来なかった。
 理由は唯と同じ。
 二年の寮長である里奈も、結花と一夜を明かしたために学園に提出する書面の整理が終わっていなかった。
 朝、結花の部屋を早めに退出した里奈は、遅刻ギリギリまで粘って作業をほとんど済ませていたのだが、提出しようと思っていた昼休みに急用が出来てしまい――結花と遭遇したのは、その帰りだった――結局、提出の機会は放課後を残すのみとなってしまったのである。