■ レインタクト 第17幕<5> 水瀬 拓未様 「……昨日、私の部屋に一人の先輩が泊まりに来ました。泊めるように、という結花さんのメモを持っていたけれど……その人を泊めようと思ったのは、あくまでも、私の意志です」 夕暮れの廊下に、唯の声がそっと響く。 彼女の言う先輩が芹菜であることはすぐに分かったけれど、里奈は黙って、唯の話に耳を傾けた。 「その人には、とても好きな人がいたそうです。でも、ある日突然、永遠の別れがやってきて……それからずっと、その人は、自分の中に残っている、大切な人の記憶と過ごしてきた」 美優を想う、芹菜の心。 「でも、その人は言ったんです。大好きだった人をいつまでも忘れないでいられるかって聞かれたら、正直、わからないと」 美夜と出会って震えた、芹菜の気持ち。 別の誰かを好きになったら、美優のことを忘れてしまうんじゃないかと思えば怖いと、芹菜は吐露していた。 人を好きでいること。 人を好きになること。 そのことに対して、芹菜はとても素直だった。 「そして、私は聞かれました。『結花に好きな人ができたら、あなたはつらくはないのか』って」 そんなことはない。 きっと祝福することができる。 唯はずっとそう思っていたし、確かにその自信があった。 だのに、 「……私はその質問に、そのときになってみないと分からないと、そう答えていました」 呟いた瞬間、唯の瞳が淡く揺れる。 「……どこかで安心していたんです。結花さんにたくさん恋をしてほしいと願いながら……でもきっと、あの人が本気で人を好きになることはないんじゃないかって……」 もし結花に好きな人が出来ても大丈夫だという自信ではなく、結花が特定の人を好きになることはないから大丈夫だという、薄氷なごまかし。 もちろん好きだと言う気持ちに自信はあった。 でも、だからこそ気付いてしまったのかもしれない。 自分には到達できなかった結花の笑顔。 結花に告白したあの日、階段の踊り場で垣間見た微笑みが向けられる相手が自分ではないこと。 だから唯は、妹を望んだ。 恋人よりも姉妹という関係に憧れた気持ちは本当だし、妹として結花と過ごした時間に悔いはない。 けれど、それにより肥大していく想いがあった。 いつでも、ではなく、いつまでもを選ぶことで過ごしてきた時間が積み上げてしまった感情の土嚢。 自分は妹であるという気持ちが蓄積して出来上がったそれは、知らず知らず、唯自身を縛り付けてきた。 「……二年前、私が結花さんにキスをしたあの日からしばらく、先輩が保健室に通い詰めだったこと、覚えてます。水泳部も休みがちになって……顧問の先生は古傷が悪化したなんて言ってたけれど、私には、それが方便だって分かっていました」 恵美理と里奈が教員と生徒の関係以上であることを知っている唯にとって、それを見抜くことは容易かった。 「正直、先輩のことを軽蔑したこともあります。でも、先輩と話さなければ、私が結花さんに告白することはなかったから。今の私でいられるのは、先輩のおかげなんです」 見つめられるだけで満足していた。 好きという気持ちを停滞させることで、終わりが始まらないようにしていた、あの頃の自分。 そんな自分が行動を起こす切っ掛けとなった、存在。 「こんなふうに考える事が出来るようになったのも、昨日の夜、一緒に過ごした人のおかげだと思います」 唯は自らの決断を疑うことが少ない。 この学園を受けると決めたときも、結花に初めて口付けたときも、それを躊躇うことはなかった。 それは、結花の家族になりたいと思った時も同じだ。 「私が結花さんと恋人同士だったことは、きっと、ないんです。……ないんだと思います」 妹になりたいと願った時、結花はそれを受け入れてくれた。 それを一度も悔いたことはないし、そもそも、それを選んだこと自体、唯に選択したという意識はなかった。 それなのに。 「昨日の夜、あの人と出会って、話して……朝、その人を見送りながら思ったんです。私は本当に、本心から、結花さんの妹になりたいと思っていたのだろうか……って」 もしもこの場に芹菜がいれば、この告白を聞いた瞬間、気付いたに違いない。 あの朝、妹になりたいという唯の言葉がどうしても忘れられなかった、その理由に。 「自分の選んだ今が、本当に自分が望んでいたものなのかどうか……昨日までは、別に、不安に感じることもなかったのに」 結花を愛するがゆえに、妹という存在でいることに対してジレンマを抱き、それがどれほど彼女の心を焦がしているのか。 唯と話すうち、芹菜は無意識にそれを感じ取った。 だからこそ、芹菜は自らの恋を唯に聞かせたのだろう。 妹を愛した姉もいるのだということを、教えたくて。 「……校内で結花さんとキスをしたって、聞きました」 ぽつりと漏らした唯を見て、里奈は全身を軽く震わせた。 キスのことを言及されたからじゃない。 目の前の少女が、泣き出しそうな顔をしていたからだ。 「昨日までは、結花さんが誰とキスしてても大丈夫だったのに……今日はそれを想像するだけでも、苦しいんです」 唯の頬を、はらり、と涙が落ちていく。 廊下に伸びた影がくわん、と揺れて、唯の足がもつれる。 「……先輩、私、わたし……ほんとはずっと、二年前のこと、謝りたくて、でも、できなくて……」 唯の心にずっと残っている、しこり。 部活の最中に溺れたことが切っ掛けで、里奈は一人の先生と仲良くなり、結果、助けてくれた後輩に感謝した。 感謝されていた、自分。 優しくされたことに裏があると知って、その相手が自分の好きな人の笑顔を手に入れたと知って、唯はそれを嫌悪した。 でも、自分だって似たような事をしたんじゃないか? 結花に告白した二年前、心のどこかでくすぶっていた、里奈には負けたくないという気持ち。 ずっと気付かないふりをしてきた。分かっていたけれど、認めたくなかった。 だって、それは嫉妬で。 だからあの告白は、報復だったんじゃないか、って。 偶然一致した、手段と目的。 そして果たされた願いと、もたらされた結果。 それは少女の望んだ通りで、だからこそ、それは少女をずっと縛り付けてきた。 「先輩、わたし、わたし……」 芹菜と出会った事で揺らぎ、自問によって広がった亀裂。 それが里奈と向き合うことで完全に崩壊した瞬間、 「ずっと、ごめんなさいって、言いたかった……っ」 二年間、言えなかった言葉を紡ぎ出した唯は、溢れ出た涙とともに崩れ落ちた。 「唯……っ」 声よりも先に体が動いて、彼女の膝が床につく寸前、里奈は唯を介抱するように抱きかかえた。 唯が泣くだなんて、そんな彼女を抱きしめるだなんて、里奈は夢にも思っていなかった。 「先輩、わたし……結花さんと、ちゃんと恋がしたかった……」 耳を焼くような熱い声音だった。 「唯ちゃん……」 強くて、真っ直ぐで、自分にできないことをした唯。 結花に強く想われ、彼女の口から特別な存在だと言わしめるほどの少女でも、その胸にはずっと不安を蓄えていたこと。 それを知り、里奈は驚きながらも、心のどこかでほっとした。 自分も二年前、そうして不安に押しつぶされて、弱くなる心にふりまわされていた時期がある。 あの時、自分には恵美理がいた。弱い自分をさらけだしても、それを見守り、慰めてくれる存在がいた。 自らの弱さを見せ、甘えることのできる相手がいたことによって、どれだけ心が救われたことか。 大好きな結花の側にいながら、だからこそ彼女に本当の自分自身を晒すことができず、ずっと苦悩し続けてきた唯。 そんな彼女が秘めていた、罪悪感と矛盾。 結花がそれを知っていたのかどうか、それは分からないし、それを気にしたところで意味がない。 唯がそれを自分に告白してくれたこと。 いまは、なによりもそれを大切に受け止めたかった。 里奈の脳裏に一瞬、唯にとっての恵美理になれるのは自分なんじゃないのか、という考えが浮かぶ。 けれど、それでは二年前の繰り返しだ。 自分が感じて、思ったことを、唯にも伝えたい。 「大丈夫。……何度だって、好きになっていいんだよ」 昨日の夜、結花を前にして抱いた感情。 それは誰の言葉でもなく、自分自身が紡いだ想いだ。 だから里奈は、それを唯に伝えた。 「……同じ人を、何度好きになっても、いいんだから」 小さな背中を撫でながら、耳元にそっと囁くと、 「あっ……ぁ、う……ぅ……」 廊下に響く唯の嗚咽が、よりいっそう、強くなった。 |