■ レインタクト 第18幕<3>
水瀬 拓未様


 白石砂織の姉の名を、白石美月という。
 白石家は名家と呼ばれてもおかしくない家で、長女だった美月に対する期待は大きく――――同時に、男児が生まれなかったことに対する失望も大きかったという。
 厳しく躾けられ育てられた美月だが、その重圧に負けることもなく、親に反抗することもなかった。
 なんでもそつなくこなし、周囲の評判も良く、これなら良い婿養子を迎えられると親は思っていたそうだ。
 だが、彼女は恋をする。
 その相手こそ、美夜と美優の父である桐生慎一だった。
「うちの父は絵に描いたような堅物でね、ふたりの結婚どころか交際すら認めなかった。大学生だった慎一さんは根気よく嘆願したんだけれど、結局は駄目で」
 慎一が学生であったこと、二人とも若すぎること。反対の理由はいろいろあったという。
 だが、なによりも心象を悪くした原因は、美月が身ごもるまでその交際を隠してきたことにあったらしい。
「でもね、誰よりも慎一さんを責めていたのが、裕子さん……つまり、あなたのお母様だった」
「母が、ですか……?」
 芹菜が記憶している母親――裕子――は、怒ることの少ない、いつも笑みをたやさない人物だった。
「責任もとれなくせに妊娠させて、この大馬鹿者! ってね。で、姉さんが慌てて仲裁に入ると、あなたは悪くない、悪いのは全部うちのバカ弟だ、って今度は謝って」
 その光景を思い出したのだろう、砂織が小さく笑う。
「いま思えば、二人のことが心配だったからこそ、弟をああして誰の目にも分かるように叱っていたんでしょうね。あの頃のわたしには、それが分からなくて……いつもヒヤヒヤしてた」
 過ぎ去りし年月を振り返る砂織の口調は、子供に童話を語って聞かせるように、穏やかで優しい。
「……でも、そんなある日、姉さんは姿を消した」
 いつもと同じように学校へ登校した美月は、その日、そのまま家に帰ってこなかった。
「手紙が残っていたそうだけど、それを見た父が捨ててしまったから、その内容は今でも分からない。……でも、父が姉さんを捜すことはなかった」
 事実上の勘当扱い。
 砂織は美月の行方を捜してくれるように訴えたが、取り合ってくれることは一度もなかった。
「……なんだかんだいがみ合っていても、孫が生まれたら喜ぶものだと思ってた。だのに、面子だか世間体だか知らないけど、そんな事をして……挙げ句、わたしに言ったのよ。お前はあんなふうになるな、って」
 耳に心地よい声で話していた砂織も、その一言だけは、苦々しく、吐き捨てるように言う。
「同じ日、慎一さんも姿を消して。何も言わず自分のもとから去っていったことに、裕子さんはひどく落ち込んだの」
 駆け落ちだった。
 それは、芹菜が産まれて一年が過ぎた頃だったという。
「もしあの時、あなたがいなければ……裕子さんは精神を病んでいたかもしれない。それぐらい、芹菜ちゃんの存在が裕子さんを支えてたのは確かだった」
「あの……慎一さんや母に身よりはいなかったんですか? その、親とか、親戚とか……」
 黙って聞いていた芹菜が、いたたまれなくなって口を開く。
 芹菜自身、父方の親族の記憶はあるけれど、母方の身内に会ったことはない。
「裕子さんの両親は既に他界されていて、半ば裕子さんが慎一さんの親代わりだったそうよ。親戚が居たという話も聞かなかったし……だからこそ、余計にショックだったんでしょうね」
 たった二人の家族だというのに、何も言わずに自分のもとから消えてしまった慎一に対する裕子の心情。
 その想いを想像することは、芹菜にとって難しい。
 けれど、自分が生まれたばかりの頃、母がそんな問題を抱えていたのだと知って、胸が軋んだ。
 弟と、弟が愛した女性が行方知れずとなり、裕子は苦悩する。
 自分の接し方が悪かったのだろうか。
 両親がいなかったことが影響したのだろうか。
 美月のお腹の子はどうなったのだろう。
 もっと二人の意見に耳を傾けていれば、あるいは。
「……慎一さんたちを探したい。でも、自分に二人を探す資格があるのだろうか。裕子さんはずっと苦悩し続けて……やがて病魔を患い、亡くなってしまった」
 それが約10年前の出来事だと砂織は補足した。
 時期的にも、芹菜の記憶と符合する。
「その報せを聞いた頃、わたしは家を出たばかりでね。理由は言わずもがな、親とうまくいってなかったからなんだけど」
 美月の一件以来、両親とぎくしゃくしていた砂織は、高校を卒業すると同時に、友人を頼って家を出たのだそうだ。
「裕子さんが亡くなったと聞いて、わたしもかなり落ち込んだ。素敵な人だったし……なにより、憧れだったから」
 だが、哀しみは連鎖する。
「裕子さんが他界してから一年と少し経って……わたしが一人暮らしをはじめた頃かな。今度は、姉さんたちが亡くなった、って連絡が、あなたのお父様から届いたのよ」
 美優たちの両親は事故で亡くなった、というのは前もって美夜から聞いていたが、原因を詳しく聞いて芹菜は眩暈を覚えた。
 美月を乗せ、慎一の運転していた車が、雨の日の濡れた道路でスリップして電柱に激突したという。
 それは、美優が亡くなった事故によく似ていた。
 だが、それよりも気になったのは、
「あの、連絡があったって……父は知っていたんですか? 美月さんたちがどこで暮らしていたか、って」
 芹菜は呼吸を整え、渇いた唇を舐めてから声を漏らす。
「ええ。裕子さんが姉さんたちのことで思い悩んでいたと知っていたあなたのお父様は、彼女が会いたくなったとき、いつでも会えるようにと調べられたそうよ。……結局、それが叶う前に、裕子さんが亡くなってしまったのだけど……」
 芹菜の父は裕子が亡くなった時、その事を慎一に手紙で報せたそうだが、慎一からはなんの音沙汰もなかったそうだ。
「その辺りは、わたしも詳しくないの。姉さんや慎一さんにしか分からない事情があったのかも知れないし……。でも、聞いた話では、その手紙はとても大切にしまわれていたそうよ」
 美月と慎一が亡くなった後、その手紙に書かれていた連絡先が切っ掛けで、芹菜の父に連絡がいったのだそうだ。
 そして残された、美夜と美優。
 経済的な理由もあって、最初は二人とも桜野家に引き取られることになっていた。
「でも、姉さんの忘れ形見だから。わたしも出来れば育てたいとお願いして……美夜が小学生の間は、あなたのお父様から幾ばくかの援助を受け取ることを条件に、美夜を引き取ったの」
 大変な事も多かったが、それ以上に生きることに張り合いが出来たから頑張れたと、砂織は屈託なく笑った。
「……そして、美夜と美優は二人とも同じ学園に入学した」
 引き取った直後こそ小まめに連絡を取り合っていた砂織と芹菜の父も、美夜と美優が互いの環境に馴染むにつれて、次第にその頻度は低くなっていったという。
 だから美優と美夜が揃って花梨女子学園を受けたのは全くの偶然で、当人達はもちろん、周囲もそれを知らなかった。
 ただ一人、美優だけは入学式の日に美夜を見つけたわけだが――――その翌日、彼女は事故にあってしまう。
 美優が亡くなったという連絡は、すぐに芹菜の父から砂織へと伝えられたのだが、砂織はそれを美夜に伝えなかった。
 正しくは、伝えられなかった。
「あなたのお父様から連絡があって、その子細を聞いたとき、血の気が引いたわ。まさか、姉さんたちと同じ理由で亡くなったのかと思うと……それを美夜には、どうしても言えなかった」
「……」
 その気持ちは、芹菜にも分かる。
 先ほど、慎一と美月の亡くなった理由が交通事故だと聞いたとき、眩暈のような悪寒が全身を駆け抜けたばかりだ。
 だから、それを知った時の砂織の気持ちを思えば、美夜に告げるのは酷だと考えたとしても無理からぬことだろう。
「もちろん、機会を見て話すつもりだったのよ。高等部に上がるか、卒業する頃には……って、考えていたんだけど」
「……ごめんなさい、あたしが、その……」
 芹菜が、悔いるように唇を震わせた。
 亡くなった妹と酷似した少女との出会い。
 彼女の正体を確かめたくて、バレッタを手がかりに美夜を探し出した芹菜は、何も考えず、美優の死を伝えてしまった。
 思えば、あの時は身勝手なことを言った気がする。
 実の姉に対し、あなたの妹は死んだけれど、わたしの事を本当の姉だと慕ってくれていた、なんて――――無神経にもほどがある言葉を、美夜は反論もせず聞いてくれた。
 おそらくは急展開すぎて何も言葉が浮かばなかっただろう美夜に対し、一方的だった自分の行動がたまらなく恥ずかしい。
「……あたし、なんてバカなこと、して……」
「芹菜ちゃんには何も知らなかったんだから、ね?」
 うなだれた芹菜に砂織が優しく声を掛けるが、
「でも……」
 芹菜は下を向いたまま、顔を上げようとしない。
 そんな芹菜の悔やむ言葉を、
「芹菜さん」
 思いの外強い口調で、美夜が遮った。
 一瞬びくっと震えた芹菜は顔をあげると、その視線を美夜に向ける。
「こう言えば、芹菜さんには都合よく聞こえるかもしれません。でも、私は……美優が、芹菜さんの口から、それを伝えてほしいと願っていたのかも知れないと……そう、思うんです」
 美夜の言葉を受けた砂織が、少しわざとらしく咳払いをする。
「運命、なんて言葉を使うのはズルいかもしれない。でもね? 同じ学園で二年間、すれ違うことすらなかった美夜とあなたが、このタイミングで出会ったのは巡り合わせだと思う」
「巡り、合わせ……」
 思わず繰り返した芹菜に、砂織はうんうん、と頷いた。
「あなたが高等部だった去年はともかく、一昨年は二人とも中等部だったのよ? 学年の差はあっても、同じ校内で過ごしているんだもの、出会う可能性はいくらでもあるでしょう?」
 もし美夜が芹菜を見かけたとしても、美夜にとって芹菜はただの上級生でしかなく、それ以上の関連性はない。
 だが、逆となれば話は別だ。美優に瓜二つの生徒がいれば、芹菜が見逃すはずはない。
 それは美優を知っている咲紀にしても同じことだ。
 だが、二人は一度として、美夜を見かけなかった。
「確かに、花梨女子は生徒数が多いほうだけど、全学年の生徒が揃う行事だって年に何度だってあるじゃない?」
 続けて砂織は言った。
 出会う瞬間が運命なら、出会わずにすれ違うこともまた、運命なんじゃないか、と。
「美優の死から二年経った今になって出会ったこと。そこに意味があるって考えた方が……自然だし、素敵しょう?」
 砂織の言葉を受けた芹菜が、思わず美夜を見つめる。
 それに対し、美夜は照れるような仕草ではにかんだ。
 そんな二人の様子を見て満足そうに笑みを漏らした砂織が、思い出したように軽く伸びをする。
「紅茶、すっかり冷めちゃったわね。いれ直しましょうか」
 話に夢中で、最初にシュークリームと一緒に一口含んだ程度の紅茶は、すっかり熱を失っている。
 砂織がそのカップを持ってキッチンへ向かう途中、不意に電話が鳴った。
「あ、私が」
 言いつつ美夜が立ち上がって電話の応対を引き受けたが、すぐに砂織宛てだとわかり、キッチンへ声を掛ける。
「母さん、事務所の人から」
「ええー?」
 やや辟易した声を漏らしつつ受話器を受け取った砂織は、少し会話をしたたけで電話を終え、溜め息をつきながら戻ってきた。
「せっかく来てもらったのに申し訳ないんだけど、出かけなくちゃならなくなったみたい」
 聞けば砂織はデザイン関連の仕事をしているそうで、先日仕上げたばかりの仕事でトラブルがあった、という。
 その対応のため、今から出なくてはいけないそうだ。
「ここんトコそれにかかりきりで、ようやく終わって今日はお休みだったんだけど……慌ただしくてごめんなさいね」
「いえ、そんな」
 いきなり押しかけた格好なのに、美味しいシュークリームまでご馳走してもらって謝られては恐縮するしかない。
 それから身支度をととのえた砂織は、玄関まで自分を見送りに来てくれた芹菜と美夜の頭を、それぞれ優しく撫でた。
 年上の女性からそんなことをされたのは随分と久しぶりで、知らず知らず、芹菜の胸があつくなる。
 それは、照れくささと懐かしさだった。
「また今度、遊びに来て。そのときは、芹菜ちゃんのお話も聞かせてちょうだいね」
「……はい」
 勢いが大事だ、なんて思い切ってここまでやってきたものの、それでも芹菜はドキドキしていた。
 だが、砂織に会い、話すうちに、彼女と美優や美夜が少なからず血が繋がっているのだと、不思議なほどすんなり納得した。
 二度目の来訪は、もっとリラックスしてこれるはずだし、今度は、ちゃんと自分と相手の都合を合わせて、ゆっくりと話がしてみたい。
「……あたしも、お母さんの話とか、聞きたいです」
 思い切ってそう言うと、
「そうね。……あ、そうそう、わたし、実はあなたのファーストキスの相手かもしれないのよ?」
 いきなりそんなことを言われてしまい、驚くよりも先にきょとんとして言葉を失った。
「ああ、もちろん赤ちゃんの頃の話だけどね。あんまりにも可愛かったから、ほっぺにするつもりが、ついつい口に」
 芹菜が産まれて間もない頃、裕子の家に遊びに行ったときの話だというから、芹菜が初耳なのも無理はない。
「それだけじゃなくて、オムツを替えたこともあるのよ? あとはそれから……」
「母さんっ。ほら、早く行かないといけないんでしょ!」
 めずらしく少し取り乱した美夜が、砂織を押し出すように玄関の外へと追い立てる。
 ドアの外は既に暗くなり始めていて、思っていたよりも自分が長居していたことに芹菜は気がついた。
「あとのことは私がしておくから、ほらっ」
「あっ、もう、ちょっと……っ、帰りが遅くなりそうだったら電話を入れるから、そうしたら晩ご飯はいつもみたいに……」
「分かってますっ! もう、いいから早くっ」
「はいはい、行ってきます行ってきます」
 楽しそうな声を残して、砂織は小走りで階段を駆け下りる。
「すみません、母さんたまにスイッチ入っちゃうから……」
 弱り果てた様子の美夜を見て、二人のやりとりにどこか圧倒されていた芹菜は、溜め息を吐き出すように笑った。
「大丈夫。楽しかったよ、来て良かった」
 家族といったら大げさになるかもしれないけれど、砂織や美夜と共に過ごした空間には、確かに団らんの空気があった。
「区切りもいいし、続きはまた今度ってことにして、今日は帰ろうと思うんだけど……良かったら、途中まで一緒に歩こう?」
 帰る名残惜しさをせめて少しは和らげたくて、美夜を誘う。
「はい」
 そんな芹菜の心情を察した――――というより、美夜もこのまま別れたくなくて、それに応じた。