■ レインタクト 第19幕<1> 水瀬 拓未様 歩いてきた道を引き返し、もう一度芹菜を自宅へ招く形になった美夜は、リビングではなく、自分の部屋に彼女を通した。 「話の前に、電話、貸してもらってもいいかな」 そう断りを入れた芹菜は、美夜の了解を得てからコードレスの子機を受け取ると、生徒手帳を取り出してボタンを押す。 やがて繋がった先に手短に用件を伝えた芹菜は、 「ありがとね」 そう言って、子機をもとの場所に戻した。 「すみません、部屋に誰かを招待したこととか、なくて……よければ、ベッドに座って下さい」 そう言った美夜自身も、ベッドに腰掛ける。 芹菜は美夜の言葉に従って、手のひらひとつ分のスペースをあけて、その隣に腰を落ち着けた。 「芹菜さんに話しておきたかったのは……両親の事故が起きた、その日の夜の事なんです」 先刻、芹菜を見送る道すがら、美夜はその胸中でただひたすら、あることを自問していた。 はたして、この過去を芹菜に伝えるべきかどうか。 伝えてもいいものなのか、どうか。 美夜がどうしても、その話を打ち明けることに踏ん切りがつかなかった理由は、ふたつある。 話を聞いた芹菜が自分を嫌いになるのではないか、という怖さと、そして――――身勝手な自分への諫め。 打ち明けること、それ自体にも勇気はいる。けれど、それを芹菜に話すことで自分は楽になりたがっているんじゃないか。 そう思ったら、後一歩が踏み出せなかった。 そんな美夜を決意させたのが、その日聞いていた、芹菜の一言だった。 こういうのは、勢いも大事だと思ったから。 今日、家を訪ねて砂織に会いたいといきなり言い出した芹菜の行動に驚いて理由を聞いたとき、彼女はそう言っていた。 その言葉が、最後の最後で、逡巡する美夜の背中を押した。 こんな気持ちになれる夜が、こんなふうに二人で話す機会が、もう一度あるなんて限らないと。 「……母さんがこの話を言わなかったのは、たぶん……私を気遣ったから、だと思います」 砂織の語った話には、いくつか欠けている部分がある。 そしてその、あえて伝えなかった出来事こそ、自分と美優が別れて暮らすことになった本当の理由であり――――ひいては、美夜が夜を怖れている原因だった。 それを言わないで欲しいと、美夜が頼んだわけではない。 むしろ、砂織の口からその話をしてくれるのであれば、それでもいいと美夜は覚悟していたほどだ。 だが、砂織はそれを芹菜には教えなかった。 「……打ち明けるべきかどうかの判断を、私に委ねてくれたんじゃないかって……そんな気が、するんです」 美夜の考えは、あくまでも推測に過ぎない。 けれど、間違っていないはずだ、という自信もあった。 「ずるい前置きをするなら……この話をすることで、芹菜さんは私を嫌いになるかもしれません。でも、それでもいいんです」 美夜にとって、これから話すことは懺悔に近い。 自分のしたことを罪だと自覚し、それを告白して悔い改めたいとずっと思いながら、彼女は暮らしてきた。 だが、それを伝えたかった相手は、もういない。 「……私は、美優にひどいことをしました。だから本当は、私に美優の姉を名乗る資格なんて……ないんです」 美夜が帯びている、何とも言えぬ哀しみ。 横並びに座った芹菜は、そんな彼女の気配を肌で感じながら、その横顔を見ることなく、耳に神経を集中させた。 「……両親が亡くなった事故は、父の運転する車がスピードの出し過ぎによって、濡れた路面で滑った事が原因でした。そして、その日に限って父が無茶な運転をした理由というのが……美優だったんです」 その日、夕方になって美優は高熱を出した。 娘を医者に診てもらうため、急患を受け付けてくれる病院まで車で向かう途中、その事故は起きてしまったのだという。 「……あの日は私たちの誕生日で、ささやかなお祝いの準備もしてあって……だからこそ、両親はすぐに戻るからと私に留守番を言いつけました。……私は、雨音と雷が鳴り響く中、ひとりぼっちで……両親の帰りを、ずっと待っていたんです」 楽しい思い出を作るはずだった、その日。 「なんだか、やけに落ち着かなくて……きっと一人で留守番をしているせいだと……思い込もうとしました」 両親と美優を見送ってから、ざわついて消えない不安。 はたしてそれは、現実のものとなってしまう。 「事故が起きた前後の記憶は曖昧で……気付いたら、私は隣の家のおばさんに付き添われて、病院にいて……」 父と母が亡くなり、唯一生き残った美優も、事故による怪我と高熱のせいか意識不明という状態だった。 両親を失ったという事実を漠然と受け入れられないまま、泣くことすら忘れ、妹の無事を祈り続けた美夜。 「美優は、夜にはどうにか目を覚まして……両親が亡くなったと知った途端、今度は、大声で泣き出したんです」 事故の車に同乗していた、ということもあったのだろう。 美夜よりも早く両親の死を受け入れて泣き出した妹の涙を見て、美夜は、その日一度も自分が泣いていないことに気付いた。 自分だって泣き出したかった。 けれど、泣いている妹を慰めなくちゃいけないと思って、必死に涙を我慢して、その頭を懸命に撫でた。 「でも、美優はちっとも泣き止まなくて……。私だって悲しいのに、なのに、なんで……なんでそんなに泣くのかって思ったら、なんだか凄く、苦しくなって、つらくなって……。もし美優が熱を出さなければ、パパもママもいなくならなかったんだと思ったら、思ったら……もう、止まらなくて……」 ただ一度だけ、姉の心が崩れた瞬間、 「私は、美優に言ってしまったんです。パパもママも、美優のせいでいなくなったんだ、って」 口をついて出た言葉は、とめられなかった。 まるで、美優が全てを奪っていったような気がして、生まれて初めて、美夜は双子の妹を罵倒した。 「ひどい言葉をたくさん言いました。美優のあんなに悲しそうな顔を見たのは、あれが最初で……最後だった」 泣きじゃくっていた美優は、いつのまにか泣くのをやめ、一言も言い返すことなく、黙って美夜の言葉を一身に受け続けた。 「……次の日から、美優は喋らなくなりました。少なくとも、私がいる前では目を伏せて、黙り込んだままでした」 その時、美夜には確かに罪悪感があった。 事故が美優のせいではないことも、両親を失って悲しんでいるのが自分だけではないことも分かっていた。 けれど、謝れなかった。 「親戚の……いま思えば、芹菜さんのお父様に、私たちは二人とも引き取られるんだという話を聞かされたとき、私が言ったんです。……美優と一緒は、嫌だ、って」 まるで毒を飲むような、苦しそうな呟き。 「私がそんなことを言わなければ……砂織さんだって、私を引き取って苦労することもなかっただろうし……私も、もっと早く、芹菜さんに会えていたかもしれません……」 結果論だと分かっていても、言わずには居られなかった。 退院した後も、感情を失ったかのように無口な美優。 年の近い芹菜が良い影響を与えるかもしれないと、桜野家に引き取られるのは美優に決まり、美夜は白石美夜となる。 それから数年、二人は電話はおろか手紙にいたるまで、一度として連絡を取り合ったことはなかった。 「禁止されていたわけじゃないんです。……ただ、美優がどうしているのかを想像するのも、どう接したらいいのかも、分からなくて、怖くて……。だから、いつかもっとちゃんとした自分になれたら、その時に連絡をしようと……思っていました」 やがてさらに年月は流れ、美夜は芹菜と出会い、そして――――美優がもうこの世にはいないと知る。 その夜、美夜は夢を見た。 「美優と別々に暮らすようになってから、たまに美優の夢をみることがあって……それはいつでも同じ内容でした」 どしゃぶりの雨の中で泣いている美優。 美夜は彼女に手をさしのべようとするけれど、雷の音が鳴り響くたび、びくっと手を引っ込めてしまう。 自分の弱さを見せつけられているような気がして、美夜はその夢が嫌いだった。 「いつもは、そこで目が覚めるんです。……でも、あの日は続きがあって……。私ではない誰かの手が……泣いている美優を連れて行ってしまったんです……」 目覚めて、美夜は泣いた。そんな夢を見てしまった自分が憎らしくて、悔しくて、声を殺して泣いた。 「……美優が連れ去られた瞬間、夢の中の私は、もうこれで謝らなくても良いんだとほっとして……夢から覚めた後も、その安堵感が抜けきっていないことが……情けなくて……」 呟く美夜は、震える手を膝の上でぐっと握りしめた。 声はまだしっかりしていたけれど、心はぐんぐんと限界へ近づいていく。 軋む胸。 だけど、その痛みこそが、自らの犯した過ちの証明。 「芹菜さん。……私はずっと逃げたんです。謝ろうと思えばいつでも謝れたはずなのに、今はダメだ、もっと大人になってからちゃんと謝ろう、そのほうが良いと……先送りにしたんです」 恐怖と不安。 美優と向き合うことが出来ない美夜が見つけてしまった、自分の未熟さと、それを言い訳にする方法。 いつか、きっと。 夢を見て眠れない夜には、その呪文を繰り返した。 いま踏み出せなくても、明日はその一歩を踏み出せるかもしれない。明日になったら、謝れるかもしれない。 「……でも本当は、いつかなんて必要なかった。ただ一言、あの時はごめんね、って……言うだけで、良かったのに……」 美優という存在が、日に日に胸の中で大きくなる。 なのに、自分はその大きさに足がすくんで、すくまない足になれば――いつかきっと――謝れるはずだと自分を誤魔化した。 「……今日だって、芹菜さんが帰る、その寸前まで、ずっと迷っていました。今の自分には真実を打ち明ける資格なんてない、芹菜さんは自分に美優を重ねているのだから、あと少し、それに甘えていればいいんだって……だから、こんな……っ」 髪に結んでいたリボンを解き、それをぎゅっと握る。 美優のかわりで好きだと言われたくないなんて咲紀にいっておきながら、それなのに、美優と似ていることを利用した。 「芹菜さんの話に出てくる美優は、私が最後に見た美優とは全然違って、笑顔で、泣き虫で……だから、私も芹菜さんを好きになれば、好きになってもらえれば……いまの嫌な自分が変えられるかもしれないって、そんなことまで、考えて……」 それまでけして途切れることのなかった美夜の独白は、まるで断線したかのようにそこで終わり、沈黙が部屋を満たした。 美夜の頬を伝い落ちた涙が、リボンに落ちて、染みを作る。 ただじっと彼女の話を聞いていた芹菜は、深呼吸をするように息を吸ってから、ゆっくりと吐き出した。 「……リボン、似合ってたよ。あなたにあげて良かった」 穏やかな声音。 呟きながら、美夜の手から白いリボンを取り上げた芹菜は、そのまま、それを美夜の髪に飾り直した。 |