■ レインタクト 第2幕<1>[改定版]
水瀬 拓未様


 昨日の朝方に降っていた雨の残り香が、校庭に並んだ樹木の枝葉を引き立てる。いつもよりも早く学園へとやってきた芹菜は、高等部の昇降口ではなく、中等部の昇降口近くの壁に寄り掛かり、校内へと入っていく後輩の群れをながめていた。
「ね、あれ…」
「高等の二年の人、でしょ? 何の用事だろうね」
 中等部の制服を着た少女たちが、芹菜の脇をひそひそ声を交わしながら通り過ぎる。芹菜はそんな彼女たちにやんわりと会釈しながら、目当ての少女を待っていた。
「芹菜さん」
 やがて十五分ほどした頃、芹菜が探している少女が、彼女の方から声を掛けてきた。
「おはようございます。中等部になんの御用ですか?」
「おはよう、真奈美ちゃん。ちょっと頼みたいことがあって、貴方を待ってたの」
「私を、ですか…?」
 にっこりと微笑まれ、真奈美はどぎまぎとしながら自分の顔を指差した。
「そう。実はね、探してほしい子がいるの。それであたしがやみくもに探すより、中等部に在席してる真奈美ちゃんにお願いしたほうが効率がいいかと思って」
 言うと、芹菜は持っていた鞄の中から小さな包みを取り出して真奈美に手渡す。
「この中に入っている物の落し主を探して欲しいの。イニシャルが刻印されてるから、簡単に見付かると思う」
「判りました」
 それを受け取った真奈美は、小さく頷くとそれを鞄の中に大切にしまいこんだ。
「えと、じゃあ…」
「お昼にカフェテリア。これでいい?」
「はい」
 真奈美はそれから校内へと消えていく。途中、友達らしき少女にどうしたの? と聞かれている様子で、彼女は曖昧に微笑むと一度振り返り、芹菜に軽く手を振ってみせた。
 芹菜はそれを目で追ってからグラウンドを横切り、高等部の昇降口へ向かう。その時、自分の行動の一部始終を見ていた人影がいたのに、芹菜は気付いていなかった。
 予鈴が鳴り、授業はいつもと同じようにこなされていく。芹菜は真奈美に頼んだ事が気になって集中力を欠く、という事もなく、逆に午後まではその事を頭の中から追い出そうとするかのように黒板を見つめていた。
「…」
 咲紀はそんな芹菜の表情を見、雰囲気を感じ取って、彼女に何かが起こっているのだろうと薄々ながら感付いていた。




 午前中最後の授業の終了を報せるチャイムが鳴ると、各教室からは色々な溜め息が漏れてくる。同時に、学食へと向かうグループやお弁当一式を持って中庭へ降りていく少女などに別れ、自然にいくつかの流れが出来上がっていく。
「芹菜、放課後…空いてる?」
 机の上を簡単に片付けて椅子から立ち上がった芹菜に、彼女の後の席に座っている咲紀の声が飛んでくる。
「ん? これといって予定はないけど……。あ、委員会の仕事を片付けなきゃいけないといけないから、図書室に行かないと」
「うん、じゃあそれでもいいよ。私、その用事に付き合うから。放課後、図書室で」
 振り向いた芹菜に頷き、咲紀。芹菜はそんな彼女に軽く微笑むと一人で教室を後にしてカフェテリアを目指した。
 昼食タイムが始まったばかりのカフェテリアは下の階の学生食堂に比べるとまだ人影もまばらで、芹菜はその中の、階段にほど近い場所の席に腰掛ける。自分のために頼まれ事を引き受けてくれた真奈美のために飲み物でも、と自販機に向かった芹菜だったが、お金を投入するより早く、彼女はやってきた。
 その隣には、昨日逢った少女の姿も。
「実は、同じクラスだったんです。イニシャル、名字が違ってたから探すのにちょっと手間取っちゃって」
「中等部、三年C組の白石美夜です。あの、わざわざありがとうございました」
 軽く頭を下げた少女、美夜は芹菜の顔を見て思い出したようで、あっ、昨日の…と小さく呟く。それは芹菜も同じで、寒気はさすがになかったものの、美優の生き写しである少女が目の前に立っている、という感覚に慣れるのにはいくらかの時間が要った。
「あの、席…外したほうがいいですか?」
 その芹菜の様子から、真奈美が気を利かせる。ごめんね、と頷きながら呟いた芹菜を見た真奈美は、美夜にじゃあね、と一言だけ残してカフェテリアの階段を降りていった。
「ここじゃ話がしづらいし……中庭に行きましょ。木陰のひとつぐらいなら、空いているだろうから」
「でも…」
 いきなりの芹菜の誘いに対し、その理由が判らないのだろう。美夜が躊躇したように口ごもると、芹菜は振り返って微笑んだ。
「貴方の妹についての……美優に関する話なの。それでも、付き合ってくれない?」
 やんわりとした口調だった。けれど美優、という単語を聞いた美夜の表情にははっきりとした変化があり、それは緊張のために強ばっているかのようにも見える。
「知って、るんですか? 美優の事…」
 恐る恐るといった感じで聞き返す美夜に、芹菜は首を傾げるように笑った。
 上目遣いで自分を見つめる彼女の瞳が、まるで美優そのものだな、と想いながら。




 昨日降っていた雨の影響もあり、まだ湿っている芝生も多いからなのか、中庭は意外に空いていた。芹菜はそんな芝生から、日当たりが良く、もうすでに乾いている場所を見付けるとそこに腰を降ろした。
 美夜が遠慮がちに、距離を少しおいてその隣に座る。
「…こうなる事がもう少し早く判っていたらいくらか説明しやすいように文章を考えてみる余裕もあるんだけど、なにせ昨日の今日だから、判りにくい部分もあると思うの。質問はいくらでも受付けるし、あたしとしては隠し事しないで全部話すつもりだから、驚きたかったら驚いていいからね」
 我ながら変な前置きをしてる、と心の中で苦笑しながら、芹菜はまず、制服のポケットからあのバレッタを取り出す。
 美夜の息を呑む音が、空気を震わせた。
「美優の、形見」
 そのたった一言から芹菜の話は始まった。 美優が家にやってきた日のこと、義妹として暮らし始めたこと。初めて笑顔を見た日のこと、交通事故があった日のこと。
 そして、肉体関係があった事。
 その部分を話していたとき、美夜の明らかな動揺が芹菜には手に取るように判った。鼓動が早くなる以前に、自分を見る彼女の瞳が警鐘を響かせているのが見えたからだ。
 けれど、それでも芹菜は話を続けた。
「愛し合ってたとか、そんな陳腐な事を言うつもりはないの。ただ、お互いにぬくもりは欲しがってた。実の姉妹だったなら、こんなことになってたかは判らない。…ただ、純粋に美優のことは好きだったの、妹として」
 変な気持ち、と芹菜は思う。自分がいとおしいと想ってやまなかった少女の、その実の双子の姉にこんな事を話しているなんて。
「美優は、花梨女子の中等部に入学した日、このバレッタをあたしだけに見せてくれた。美夜っていう姉さんがいたって。あの時はどうして急にそんな事を言い出したのか判らなかったけれど、今にして思えば、きっと貴方を入学式の日に見かけたんだと思うの」
「そんな…。私、そんなこと…」
「うん、知らなかったと思う。多分、美優は貴方を見かけても声を掛けなかったから。こんなことを美優の本当の姉である貴方に言うのは酷な事かも知れないけれど……美優はある意味、あたしを本当の姉と同様に慕ってくれていたの。だから自分の双子の姉に再会して、その姉……つまり貴方に声を掛けたことを話したら悲しむかもしれない、そんなあたしを見たくなかったんでしょう」
「美優が…」
「…バカだよね、優しくって。優しすぎて、あたしにはもったいないぐらいだった…。あたしに遠慮しないで話しておけば良かったのにね…。次の日、事故に遇うんだから…」
 いけない、と思った瞬間にはもう遅く、芹菜は泣きだした自分を制御できなくなっていた。少女が初めて経験した好きな人物を抱きしめるという行為とその相手を思い出にするには、まだ二年という歳月は短すぎる。
 ましてや、その好きな人物の双子の姉が自分のわがままな思い出話を真剣に聞いてくれているという事が芹菜は嬉しかった。
 芹菜は久しぶりに泣いたな、と思いながら自分の涙を拭おうと頬に手にやる。するとその手に、美夜がハンカチを差し出した。
「…使ってください、芹菜さん」
「ありがと…。こんなあたしでも、名前で呼んでくれるのね…」
「だって……美優のお姉さんでしょう? それって、私のお姉さんって事だもの」
「美夜…」
 たまらなく抱きしめたいという気持ちを必死に堪えながら、芹菜はぐっと息を呑み込んだ。好きな人に似ているけれど本人ではないという人物が目の前にいる感覚は、芹菜にとって言い知れない切なさがある。
 抱きしめたい。けれど彼女は美夜という少女であり、美優ではありえないのだ。
 彼女の様子に気付いているのか、美夜はそんな芹菜から視線を逸らした。
「…美優と私の両親が事故で他界したのは私たちが六歳の時です。私たちは親戚に引き取られる事になり、私は母さんの妹である白石沙織という女性の養女になりました。そして美優は、父さんの姉夫妻の養女になったと聞かされていました。…芹菜さんのお母さま、旧姓は桐生じゃありませんでしたか? 名前は裕子。桐生裕子という名前だったと思います。私の父さんの名前は桐生慎一。つまり、芹菜さんのお母さまの弟にあたります」
「えっ…? じゃ、それって…」
「はい…」
 問い掛ける芹菜に、小さく頷く美夜。
「美優と芹菜さんは赤の他人ではなく、血縁だったという事になります」
「でっ、でもあたし、親戚に桐生って家があるなんて知らなかったし、両親だってそんな事は一言も…」
「多分、知らなくて当然だと思います…。私も義母である沙織さんから最近になって聞かされたばかりなんですけれど、私の両親は駈け落ち同然で結婚したそうです。父さんの姉である裕子さんはそれに反対していたそうですから、芹菜さんのお母さまが自分に弟がいるのを芹菜さんに隠していたとしても、それは無理のないことだと思います…」
「だ、だって、そんな事って…」
 何を喋っていいのか判らなくて、芹菜自身自分がもどかしくてしょうがなかった。ただ驚くことしか出来ない自分が恥ずかしかったし、何より自分の妹と肉体関係があったのだと初対面の相手に告白されてさっきまで動揺していたのに、今は落ち着き平静でいられる美夜に羨望さえ感じてしまう。
 自分がここで慌て、さらに泣いてしまってはいけない、という強い決意が美夜にはあったのだ。ここで芹菜に無用な心配を掛けさせてしまってはいけない、そんな思いが彼女の涙腺を堪えさせていた。
 対照的な二人ではあったけれど、その想いは同じ。妹である美優に対する気持ちと、互いに対する事実を受け入れる姿勢だった。
 校舎の方から、昼休みの終わりを報せる予鈴の音が聞こえてくる。まるで異国から聞こえてきたようなその音を耳に入れた二人は、お互いに見つめ合い、時間の流れゆく速さに歯痒くなりながら微笑んだ。
「今度、家に来てください。義母に紹介します。芹菜さんになら、私が話した事よりも詳しいことを教えてくれると思いますから」
「うん。…心の準備が出来たら、ね」
 相手の手をとり、そっと握る。確かな暖かさが伝わってきたとき、芹菜はその手を離したくないと思った。
「これ、あげる。美優の入学祝いに買ったものだったんだけれど、一度も使われなかったの。棺の中に入れてあげようと思ったんだけれど、どうしても出来なくて…。美夜ちゃんなら似合うと思うから。双子だものね」
 芹菜は言いながら、リボンを取り出し、それをあのバレッタと一緒に美夜に渡そうとした。けれど美夜はリボンだけを受け取り、バレッタの方は芹菜の手に残す。
「これは美優の形見ですから、芹菜さんが持っていてください。その方が美優も喜ぶと思いますから。…お願いします」
 革のバレッタが手に残ると芹菜は正直ほっとしたような気持ちになってしまい、思わず美夜の身体を軽く抱き寄せる。
「ありがと…」
 そう言われた美夜の頬に微かに赤みが挿したのを、頬を重ねていた芹菜は知らない。