■ レインタクト 第2幕<2>[改定版]
水瀬 拓未様


 中庭で二人の少女が共通の妹である美優のことを話し合っていた頃、食事を終えた結花は今日の相手を探しに中等部の校舎へとやってきて、そこでちょうど保健室から出てきた里奈と鉢合わせしていた。
「あら。中等の保健室にやってきて何してるの? 里奈」
「学生食堂で中等部の二年の子が軽い火傷をしたから送り届けにきただけよ。…結花こそどうせ下級生を誘いにきたんでしょう?」
「だとして、それが貴方に関係ある?」
 互いに鋭い視線をぶつけ合い、牽制し合うように一定の距離を保つ二人。わずかにシャギーを入れてあるのか、軽く頬にかかる黒髪はそのままに、切れ長の瞳でじっと見つめる結花と、いつもの温和な雰囲気を圧し殺すかのように密やかな笑みすら称える里奈。
「…そういえば結花、昨日また中等の女の子を寮の部屋に連れ込んだそうね。貴方の趣味をとやかく言うつもりはないけれど、寮は相部屋なんだから、同居人の芹菜には迷惑をかけないでくれないかしら」
「別に関係ないでしょ? たとえ貴方が寮長だったとしても、プライベートな問題には立ち入ってほしくないわね」
「じゃあ結花は、芹菜のプライベートはどうでもいいって、そう言う訳?」
「やけに芹菜の肩もつじゃない。…もしかして惚れてるの?」
「そうね。少なくとも貴方よりは好きなタイプよ」
 くすりと笑った結花に、里奈はまったく動ずる事無く笑顔で答える。二人のその表情には、この会話を楽しんでいるような、そんな雰囲気さえ垣間見えた。
「…じゃ、あたしは行くから」
 いつのまにか遠巻きに自分たちの成り行きを見守っている中等部の女生徒が増えている事に気付いた里奈は、くるっと踵を返して高等部の校舎へ続く渡り廊下へ向かう。途中、中等部の少女たちへの会釈を忘れずに去っていった里奈の後ろ姿を眺めていた結花は、不意に溜め息をつくと、周囲を取り囲んでいた下級生の中から最も目を惹いた一人の少女の頬に何気なく口付けた。
「あっ、あの…」
「私に惚れたら、寮にいらっしゃい。可愛がってあげるから」
 困惑しているその少女をその場に残し、結花もまた、高等部の校舎に戻っていった。




「ごめんね、手伝わせちゃって」
「いいって。どうせイベント以外は放送委員なんて結構暇なんだし」
 区別の終わっていない先日入ったばかりの新刊の整理は、芹菜が思っていたよりも早く終わりそうだった。
 花梨女子の図書室はもともと高等部校舎の一階にあったのだが、中等部を設立するにあたり蔵書を増やすとともに図書室自体も新築された。別館、と呼ばれるこの建物、その一階には区営の図書館なみの規模を誇る図書室と閲覧室があり、二階に運動部系、三階に文科系の部活の部室がある。また屋上には天体観測用のドームも設置されていて、放課後には校舎よりもこちらの方が人数が多い。また文科系の部室が三階にある為、図書室と三階を結ぶ書物専用の運搬用エレベーターも設置されている。
 咲紀が取り掛かっている仕事は、そのエレベーターで降ろされてくる貸し出していた本を棚に戻すもので、芹菜はそれをチェックしてコンピュータに打ち込む作業をしている。これだけの蔵書数となると、もはや図書カードなどの手作業で管理するのは効率が悪いので、本の裏表紙の隅に貼られたバーコードと二台のパソコンにより、図書室にある何万冊という本は管理されているのだ。
「咲紀、これを新刊の棚にお願い。あと、これとこれも」
「はいはいっと」
 てきぱきとキーボードとマウスを使ってパソコンのデータを整理していく芹菜と、広い図書室を機敏に動き回る咲紀。時折やってくる生徒の貸し出しの依頼に、芹菜はパソコンに本のタイトルと著者を打ち込んでは本のある場所を教えたり、そうかと思えば三階の美術部からルーベンスの画集を貸し出してほしいという連絡が来て、咲紀に頼んでその画集をエレベーターに乗せてもらったりと、二人は目の回るような忙しさで働いた。
 そうしてようやく一段落ついたのは、図書室が貸し出しと返却の受け付けを終了する午後五時半を少し回った頃だった。
「はい、お疲れさまでした」
「ふみぃ…。すっごい疲れたぁ…。図書委員ですごいんだねぇ、毎日こんなことやってるんだもん。あたし放送委員で良かったぁ」
「別に、毎日こんなに忙しいって訳じゃないよ。今日は新刊の整理があったから。それにいざとなれば上の階の文芸部から応援呼べるしね。あたしだって忙しいだけだったら図書委員なんて辞めてるよ」
「…じゃ、なんで?」
「図書委員って、新刊購入の時に意見が通りやすいの。学園のお金で読みたい本が読めるとなれば、この労働もバイトみたいなもんだって割り切れちゃうもの」
「芹菜ってホントに本が好きだね」
 受け付けのカウンターにあるパソコン用の椅子に腰掛けてへたり込んでいる咲紀に、芹菜はまあね、と笑う。それから、今度はこの埋め合わせに喫茶店でなにかおごる事を約束し、芹菜はようやく、といった感じで付けっ放しだったパソコンの電源をオフにした。
「…それで。咲紀、あたしになにか用事があるんじゃなかったっけ? ただ手伝いするためにわざわざ図書室に居残りした訳じゃないんでしょ?」
「あ、うん…」
「ここで話しづらいんなら、カフェテリアに行ってもいいし。あそこ、六時までなら空いてるはず…」
「ううん、ここでいい。ここの方が…」
 芹菜の言い掛けた言葉に重ねて、咲紀が小さく呟いた。思わず黙り込んでしまう芹菜の顔をちょっとだけ見やって、それから咲紀は改まった様子で小さくうつむく。
「芹菜…。変な事、聞いてもいい?」
「えっ? 別に、いいけど…」
 少し戸惑いながら、それでも頷く芹菜。
「美優ちゃんの事、今でも好き?」
「…好きよ。いつまでも」
「じゃ、芹菜は恋人を作る気はないの?」
「そんなのわかんないよ、まだ。…美優がいなくなって二年だし、まだまだあたしの心の中には美優が住んでて、その比重は他の何よりも変えられない。咲紀はあたしと美優の事を全部話せた数少ない友達の一人だからこうして隠さずに言えるけど……正直、今はまだ誰のことも好きになる気はないの。まだ恋愛する気持ちになれるほど、恋の種は芽吹いてないから」
 芹菜が言い終えたところで、かたん、と椅子の音がする。それは咲紀が椅子から立ち上がる音で、まだもう一つの椅子に腰掛けたままの芹菜は、視線を上げ、上目遣いで咲紀の顔を見つめてしまった。
「…いつまで、縛られているつもり?」
「えっ…?」
「いつまで美優ちゃんの呪縛に身を委ねてるの? まだ二年って芹菜は言うけど、あたしにとってはもう二年なんだよ…?」
「咲紀…?」
 雲をつかむように近付いてきた手のひらが彼女の頬に触れ、そのまま咲紀の身体は芹菜に覆い被さるように重なった。
「…芹菜が美優ちゃんの事で綺麗になってくのは、嫌になるほど知ってる。芹菜、美優ちゃんのこと話すとき、すごく綺麗だもの。瞳を潤ませる芹菜を見てると、胸が苦しくなっていてもたってもたまらなくなる…。そのぐらい芹菜は美優ちゃんで綺麗になれるって事を、あたしは二年間も体験してきた…」
 何か言葉を掛けようとして、それでも適当な単語が思い浮かばない芹菜は、ただ自分を求めるように抱きしめる咲紀の声を聞き、何故か悲しくなる胸の内を感じていた。
「本当は、我慢するつもりでいたの。でも最近の芹菜を見てると、どうしてもダメ…。下級生と親しげに話してたりとかするのを見ると、どうしても嫉妬しちゃうんだもの…。あたし、そんな自分を押さえ付けてられる自信がないし、なにより……自分に嘘をついてまで芹菜と親しくなんてしてたくない…!」
 腕の力がぎゅっと強くなって、芹菜はキャスターのついている椅子からバランスを崩して絨毯の上に転げ落ちる。がたん、と派手な音がして、それは二人しかいない図書室の静寂を打ち破るには充分だった。
 その物音を聞き付けたある女生徒がこの図書室の様子を覗きにきてしまうのだが、芹菜と咲紀は、もちろんそれを知らない。
「…咲紀の言ってる下級生って、今朝、中等部の校門で立ち話をしてた子でしょう?」
 体勢的には仰向けになり、真上に咲紀の顔を見ながら呟く芹菜。彼女は咲紀のとった行動よりも、不思議と冷静でいられる自分に驚いていた。
 そんな芹菜の身体に覆い被さるように身体を横たえている咲紀は、彼女の問い掛けに、ただ黙って頷いた。
「…あたしね、咲紀が思ってくれてるほど素敵な女じゃないよ。それが証拠にあたし、その下級生の子……柳瀬真奈美ちゃんと、昨日寮の自室でエッチしたもの。…咲紀はこんな話を聞かされても、あたしに嫉妬してくれたりするの?」
 尋ねる芹菜の首筋に、キスをする咲紀。
「する…。…でもね、この嫉妬って感情は決して醜いものじゃないって思う。どれだけその人の事が好きか、その想いの裏返しに嫉妬って感情が存在してるんだもの。あたし、嫉妬から生まれてくる恨みや憎悪は嫌いだよ。…でもね、嫉妬自体は嫌いじゃない」
「…あたし、美優の事が今でも一番に好きなの。咲紀は知ってるでしょう? どうしたって咲紀は親友なの。それ以上にも、それ以下にも出来ない」
 残酷な言葉を言ってると、芹菜は判って呟いていた。人の心を傷つける言葉を言う事がいかに容易か、それを知る瞬間。
 けれどここで咲紀に優しい言葉を掛けることが本当の優しさだと、芹菜には思えなかった。安易な優しさが傷口を広げてしまうこともあると、芹菜は知っていたから。
 とかく恋愛に関しては。
「…あたしは、ただの親友ではもういられない。中途半端はダメなの。この二年で、それをイヤというほど経験してる。好きか嫌いかでしか、もう芹菜を見ることが出来ない」
「あたしは咲紀と親友でいたいよ。何でも隠さずに話せる。咲紀には、そんなポジションで笑っててほしいの」
「…あたしだって、その方が楽だよ。でも、もう自分に嘘をついてまで楽をしていたくないの…! だって、大好きなんだもん。芹菜を嫌うぐらいなら、自分を嫌いになったほうがいい…!」
 そう言って、咲紀は芹菜の髪に指先をうずめた。咲紀は芹菜の耳元に口付け、それから完全に身体を重ねる。着ている制服の衣擦れの音が、意外に大きく聞こえた。
 抵抗しようという気持ちは、まるで起きなかった。ただ咲紀の心の不安が彼女の指先の震えから痛いほど伝わってくる。
 
 拒否できるほど、大人じゃない。
 
 自分の髪に絡まる咲紀の指先に、芹菜は自分の指を絡めた。
「…バカ。こういう時、泣くのは普通あたしの立場なんだから」
「だって…」
 頬に零れたひとしずくをそのままに、芹菜は彼女の目元に口付ける。背中に手を回して抱き寄せると、咲紀の身体が落ちてきた。
「咲紀ってスタイルいい。胸の膨らみ、制服の上からでも判るもの」
「芹菜…」
「ん…? なに?」
「やっぱり……嫌いになれないよ…」
「当たり前でしょ。あたしだって咲紀のこと大好きだもの」
 はだけたスカートから覗く素足が折り重なって、二人の間隔が縮まっていく。
 目には見えない心の距離。
「咲紀、あたしとエッチしたい?」
「したい。…でも、今はいい」
 額が触れ合うほどの距離で見つめ合い、そして囁く二人の声。
「だって親友でしょ? 芹菜とあたし」
「咲紀がそう言うなら…いいよ。でも残念。せっかく身体は出来上がってたのに…。今を逃したら二度とチャンスないかもね」
「そしたら、またこうやって押し倒すから平気。芹菜、逃げないもん」
「どうかなぁ。わかんないよ?」
 互いの表情を見つめ、やがてくすくすと笑う。一瞬、不意に真顔になって軽く頬に口付けを交わし、それからまた微笑んだ。
「…」
 同時に、椅子が倒れたときの音に気付いて図書室にやってきていた彼女は、その二人の様子を遠くから黙って見つめていたが、やがて溜め息をつくように曖昧な笑みを零し、二人に気付かれぬよう、足音を忍ばせて図書室から出ていった。