■ レインタクト 第3幕<1>[改定版]
水瀬 拓未様


 白いパイプベッドの脚が軋んだ音をたてたのは、放課後の、誰も居なくなった中等部の保健室。そこでわずかに声を零した彼女の瞳を覗き込み、笑みを零す白衣の女性。
「…えみり…先せっ…ぃ」
 名前を呼ばれても無言のままで、彼女はベッドの上、横になっている少女を見た。少女の傍らには脱がれた高等部の制服が乱雑にたたまれて置かれ、そしてその側には、今まで彼女の髪を結っていた白の飾り気を感じさせない質素なリボンもある。
「最近こないと思ってたら、お昼にいきなりやってくるんですもの。驚いた」
 長いキスから相手を開放して、耳元に囁く声には笑いすら隠されていた。
「中等部を出ていってから、綺麗になったわね。研かれてる証拠だわ」
「からかわないでよ、先生」
 照れながら起き上がった少女は、洋服や下着よりも先にリボンを手に取り、そしてそれで髪をポニーテールに結いあげた。少女だった面影が消え、代わりに現われたのは大人びた表情と少し淋しそうな唇。
 それは彼女、里奈が一瞬だけ自分を呪う瞬間だった。
「…私なんて、まだまだ先生の足元にも及ばないもの。女として」
「言ってくれるじゃないの。一応これでも二十五年間、女として生きてるんだから。十六才の貴方に負けられないわよ」
 くすりと笑い、白衣の襟元を直しながら呟く。そのまま彼女は下着を身につけている里奈の、そのポニーテールに頬を寄せて、いい匂いね、と軽く口付けた。
「里奈ちゃん…」
 濡れている声に名前を呼ばれ、振り返るとそこに待っているのは薄紅の唇。
「…ぅん」
 心を許せる人。この校内の中、この学園の中で里奈が唯一、自分を曝け出してしまえる人。それが中等部の保健医、浅見恵美理。
「顔色、良くないわよ。疲れてるんじゃないの? 里奈ちゃんは何でも悩みを自分の中にため込むタイプだから、先生としては心配になっちゃうのよ」
「…大丈夫、先生。私、三年前の私とはもう違うんだから」
 きゅっと結んだ唇のように制服を着込み、彼女は少し背伸びしながら恵美理にもたれ掛かるようにして抱きついた。
 このまま腕が彼女の身体のなかに溶け込んで、同化してしまえばいいと、そう思う瞬間がやってくる時もある。愛し合うもの同士、身体が二つあるから苦労してしまうのだ。
 理屈じゃなくひとつになれれば、どんなに素敵で甘美な感覚を味わえるのだろう。
「里奈ちゃん、あんまり私を頼ってはダメなのよ。判っているでしょう?」
 しっとりと絡み合う互いの指。
 恵美理の言葉は里奈の心に小さなくさびを打ち込み、それの感覚を確かめるように自らキスをする里奈。
「あと、少し…。少しだけ、このまま…」
 キスの距離が一気に縮まる。この想いに溺れていたいと思うのは、今が幸せすぎるからじゃなく、そんな幸せに慣れていったせいで心が弱くなってしまったから。
 恋は、どこまで人を脆くさせるのだろう。
「もう行きなさい、里奈ちゃん。ここにくるのは、貴方を楽にするかもしれないけれど、それはやがて苦痛にしか生まれ変わらない仮初めのものよ」
 それは里奈も気付いている。けれど、それでも甘えていたい時が存在してしまう。
「先生…」
 自分の言葉を聞いてゆっくりと微笑んだ彼女の顔を見つめ、里奈は腕を解いた。
 
 
 
「芹菜さん…」
 小さく呟いた真奈美は、今し方の光景を思い出しながら図書室を振り向く。椅子の倒れた音によって図書室にやってきた彼女は、そこでの咲紀と芹菜のやりとりの一部始終を、会話は聞こえなかったものの全て目撃してしまったのだ。
「…」
 なんとも云えない表情で微かに溜め息を零し、少女は図書室から自分の胸元へと視線を移し、うつむいた。
 胸はまだ、緊張で早く波を打っている。真奈美はそれをどこかに逃がそうと、あれこれと色々な事を考えてみる。
 結花に声を掛けられて彼女の寮の自室に連れ込まれたとき、抵抗しなかった。紅茶と一緒に飲まされたブランデーのせいもあるかもしれない。でも、それ以上に周囲から伝わってくる高等部の並木結花という人物の噂は、エスカレーター式の中等部の三年という退屈だった立場の真奈美を確実に刺激した。
 同級生の中には、本気で結花に恋をしている少女だっている。そんな結花を、身近で感じてみたい好奇心もあったのは確かだ。
 自分は周囲に思われているよりも、浅ましい性格をしているのかもしれない。
 真奈美は自分の外見からくるイメージを今まで少なからず利用してきたことに、自分でも気付いていないことはなかった。
 しかし、そんな自分でも純粋に芹菜に憧れてしまったのだ。なんの裏もなしに結花から自分を助けてくれた彼女に対して。
 人に話せば笑われてしまうかもしれない。けれど真奈美は真剣に、彼女に自分の処女をもらってほしいと思っている。
 優しさというものの暖かさと、それを有している人の手のひらの柔らかさというものを知ってしまったら、貪欲な人間はどうしてもそれを欲してしまう。
 そして真奈美は、先程の芹菜と咲紀の雰囲気から、芹菜にとっての咲紀が、唇へのキスの人だと思い込んでしまったのだった。
 部室棟を抜けて、中等部の校舎に戻ってくる。真奈美はそこで振り返るのをやめ、それから教室に置いてきた鞄を取りにいこうと階段に足を掛けた。
「あら、貴方…」
 その時、背後で聞き慣れない声がして真奈美を呼び止める。振り返るとそこには、ポニーテールの少女が立っていた。
「あの、えと…」
「そっか、覚えてないのも無理ないわよね。私、上坂里奈よ。ほら、寮の二年の寮長してる。昨日、芹菜と一緒にお風呂に入っていった子でしょう?」
「寮長さん…。あの、昨日は本当に御迷惑をかけてしまって…」
「いいのよ、そんなこと。こっちも、聞いたわけじゃないから判らないけど、おそらくは結花が迷惑をかけたんでしょう?」
「あ、そんな、迷惑だなんて…」
 思わず口篭もる真奈美に歩み寄り、里奈は彼女の顔を覗き込むように笑った。
「あと一時間で校内閉鎖になっちゃうわよ。どうしたの? こんなにおそくまで。部活かなにかやってるの?」
「…ちょっと忘れ物しちゃって、それで」
「…ふぅん、そうなの。じゃ、付き合ってあげる。どうせ私も帰る所だったし」
 見え透いた嘘だったかな、と思って呟いた真奈美と、それを見破ってもなお、真奈美のペースに合わせた里奈。二人は歩調を合わせると、中等部の階段を昇っていった。