■ レインタクト 第3幕<2> 水瀬 拓未様 教室は、もうすっかり朱色へと染まり初めている。校舎を照らす薄紅の夕日は窓から入り込むと、昇降口を柔く染め上げた。 今となっては珍しい、木製の蓋付き下駄箱から靴を取り出した結花は、靴と一緒になって零れ落ちてきた何通かの手紙を拾うと、それを大切に鞄のなかにしまいこんだ。差出人なんて気にはしない。自分に対して、大切な時間を使ってまで書いてくれた手紙をどうして蔑ろに出来るだろう。 「…?」 しゃがむことによって微かに頬を撫でた髪を軽く指で直してやると、その視線の先に、長く伸びた人の影が映った。 様子からして高等部の生徒じゃないと判断した結花は、好奇心も手伝って、その影の主に声を掛けてみた。 「何の御用?」 思わぬ声に、影は驚きながら振り返る。その瞬間、結花は思わず息を呑んだ。 中等部の制服を着込んでいる少女は、肩までの髪を揺らしながら結花を見つめ、そして制服から彼女を高等部の生徒だと判断すると小走りに近寄ってきた。 「あの、高等部の方…ですよね?」 「そうだけど…。中等部の子がこんな時間に高等部の校舎になにかしら?」 対比するとちょっと背の高い結花が、話し掛けてきた少女を少し見下ろすような感じで問い返す。 「あの、二年の桜野芹菜さんって御存じですか? 私、彼女に用事があって…」 「芹菜に?」 「知ってらっしゃるんですか?」 「知ってるもなにも、彼女とは寮で同室だもの。…でも、芹菜に何の用?」 「あ、あの私、白石美夜といいます。芹菜さんに伝えたい事があって、それで…」 ちょっとどぎまぎとしながら喋る少女、美夜の様子を見ていた結花は、彼女に気付かれないようにくすっと微笑みながら、そして彼女の肩にそっと触れた。 「そういう事なら案内してあげる。多分、彼女は委員会の仕事で残ってたはずだから、今頃は教室に戻ってるはずよ」 「あ、ありがとうございます」 ぺこんと頭を下げた美夜に来客用のスリッパを差し出すと、結花は履き替えようとしていた靴をもう一度下駄箱に戻し、それから美夜に一緒に来て、とうながした。 「はい」 素直に靴を脱いでスリッパに履き替えた美夜は結花に付き従い、階段を昇る。西日の差し込む廊下を歩いていくと、二年C組と書かれた教室が見えた。 「ここよ、芹菜のクラス」 言いながら、結花は教室の戸を開ける。そして美夜に教室の中に入るように勧め、そして彼女が室内に入ったのを確かめるようにゆっくりと、その戸を閉めた。 「…いませんね、芹菜さん」 かたん、と静かに閉じられる戸に少しの疑問も感じずに、美夜が尋ねる。 「そうみたいね」 くすくすという笑みを浮かべる結花のその微笑みの意味するものに、まだ気付くことが出来ない美夜。 「待ってましょう、そのうちに戻ってくるわよ。鞄も置きっぱなしだもの」 芹菜の机を指差し、結花。それに美夜が頷くと、結花は足音も零さずに、美夜にそっと近寄った。 その気配を感じ取った美夜が、警戒心すらないまま無防備に振り向く。その頬に両手を滑らせ、結花は彼女の視線が自分の瞳にぶつかった事を確認するように微笑んだ。 「芹菜に何の御用なの? 美夜ちゃん?」 魅入られるような笑みに吸い込まれそうになり、美夜は身震いにも似た感覚を覚え、結花の両手の呪縛から逃れようとする。けれど畏怖に恐縮したのか、身体は思うように動かずに、気持ちだけが焦るばかりだった。 手の平のなかの無抵抗な鼠を玩んで楽しむ余裕のようなものが、結花の笑みを美夜にとっての畏怖の対象としているのだ。それは美夜が本能で、身の危険を感じているからに他ならない。 「貴方みたいな子が中等部にいたなんて、知らなかった…」 悪戯に笑う瞳が、美夜の表情を映す鏡になった。ゆっくりと近付いてくる結花の瞳と、そして綺麗に染め上げられた紅の唇。 美夜の脳裏に、ひとつの名前が横切る。 「並木…。並木先輩…?」 自分の問いを肯定するように、黒髪の少女は頬にそえていた手の指で、耳の辺りをくすぐるように撫でた。 そう、彼女のことは友達から聞いたことがある。高等部に長い黒髪の、すごく綺麗な先輩が居て、彼女には何人もの下級生がキス以上のことをされたって。 その人の名前が確か、並木結花。 後ずさる美夜の身体とその退路を塞ぐ机がぶつかり、机の脚のゴムと地面がこすれて派手な音をたてる。 心の中で、激しい警鐘が鳴り響く。 「……や…」 小さな声が漏れる。結花はそんな美夜の怯えた表情を見ても臆する事無く、逆にそんな彼女の唇をじっと見つめた。 「ぃやぁ…!」 後ずさっていた美夜が、一気に走りだそうと結花に背を向けた瞬間、結花は冷静に彼女の左腕を掴んでいた。 軽く引っ張っただけで美夜の身体は翻り、そんな彼女を結花は抱き寄せ、そしてそれと同時に彼女の唇を塞ぐ。 もちろん、自分の唇によって。 「…ん…んっ…!」 突き放そうと、腕に力を込める美夜。けれど見事に絡め取られた美夜の腕は、結花の両手とその腕によって封印され、動かすどころか、力を込めることすらままならない。 抵抗する美夜の、その微かな力すら楽しむように、より唇を深く落としていく結花。 静かな教室に結花の腕時計が鳴らす秒針の時の刻みの音だけが響き、そして幾度も繰り返された頃、美夜の力がふっ、と抜けた。 「…もういいの? 抵抗は」 結花が楽しげに問い掛ける。美夜は鋭い視線をその答えとしたが、けれどその唇は、微かに震えていた。 「綺麗な目…。そういう目、嫌いじゃない。昔の私を見ているみたいで…」 結花は美夜の身体を、彼女の背後にあった机に押しつける。 「…でも、教えてあげる。人間が、どんなに欲にあさましい生き物かって事。…快楽の前には、どんな綺麗事を並べたって通用しないって事を」 がたん、と机が鳴いた。美夜が背中を押しつけられた痛みからか、呻くように小さな悲鳴を上げるが、それにかまわず、結花は美夜の両足の間に自分の右足を割り入れた。 はだけたスカートから覗く膝と膝の間に強引に自分の足を割り込ませた結花は、そのまま美夜の身体に自分の身体を預ける。 「…っく…!」 無理に抵抗すると背中が痛みに襲われる為に、美夜は素直に机の上に背中を預けた。結花はここぞとばかりに美夜の足を開かせながら、彼女の制服を脱がせにかかる。 それは鮮やか、と云わざるを得ない手際の良さだった。美夜が逃げる、という事を考える暇すら与えさせない結花。 ただひとつ彼女の計算違いと云えば、教室に近付いてくる足音に気付けなかったことぐらいだろう。 しかしそれは、致命的だった。 音がして、教室の戸が開く。教室内の二人の視線は、その音に引き寄せられるように入ってきた人物に向けられた。 「芹菜さんっ!」 美夜が叫ぶ。 「美夜…!?」 それに呼応するように、教室に入ってきた人物、芹菜は教室内にいた二人を見つめ、そしてその視線は真っすぐに結花の瞳へと移行していく。 その状況は、疑うまでもない。 「結花…! 何してるのよっ…!」 叫びそうになるのを、芹菜自身が必死で堪えていた。理性を繋いでいた鎖が解けそうになるのを引き止めているのだ。 そうしなければ、芹菜は自分自身が結花に対してどんな行動をとってしまうのか判らなかった。 「…愛してるのよ、彼女を」 「なっ…」 結花を見据えるように睨み付け、芹菜は二人の側に歩み寄る。美夜は制服の乱れを直そうと必死になっていたが、結花の両手がそれを許さなかった。 しかしその彼女の手首を、芹菜がぐいっと掴んで美夜から引き離す。 「これ以上するんなら、怒るから」 「貴方が怒っても、別に怖くないわよ」 芹菜の言葉に結花がそう返した瞬間、結花の左の頬に、芹菜の右手が飛んだ。 刹那、美夜が思わず顔をそむけてしまうような迫力があり、そして乾いた音は、廊下にまで届こうかという大きな響きだった。 「……」 左手で自分の赤くなった頬を抑えながら、結花が芹菜を見据える。けれど芹菜は、そんな結花の視線を一瞥しただけで、美夜の方に向き直り、彼女の制服の乱れを直し、そして机の上から彼女の身体を降ろした。 「ごめんね…。もう少し早く教室に戻ってこれたら、こんな事にならなかったのに…」 大丈夫なんて、そんな安っぽい言葉は言わない芹菜。あの状況で、不安にならない訳がないのだ。大丈夫なんて聞いて、無理して応えられたその返事は、痛々しい以外のなにものでもない事を知っている。 芹菜は美夜を軽く抱き寄せ、そして乱れている彼女の髪を指で梳いて簡単に整えた。 「行きましょう、美夜ちゃん」 「あっ、でも…」 美夜が結花の方に顔を向ける。しかし芹菜はそんな彼女の手をそっと引っ張り、もう片方の手で自分と咲紀の鞄を持って、教室から出ていった。 もちろん芹菜は、結花の方にただの一度も振り返ろうとはしなかったのだった。 そして教室に一人残された結花は、頬を抑えていた手を目の前に持ってきてそれを見つめた後、溜め息をつくように小さく微笑み、それから教室を出る。 「……」 ちょっと憂いを帯びた瞳で廊下の先の方を見ていた結花は、そこでまた柔い、自然な微笑みを零して立ち止まった。 「美夜ちゃん、か…」 その瞳は、綺麗な色をしていた。 |