■ レインタクト 第3幕<3>
水瀬 拓未様


 懐かしい。そんな感覚を覚えるのは、なんだか生まれて初めてのような気がする。中等部の教室。その作りは高等部のそれと変わっていないはずなのに、なにかが違う気がする。
 夕焼けが見えた。三年の教室は4階にあって、それは花梨女子学園の建造物のなかで一番高い場所にある教室のひとつ。屋上と天文部の天文台を除けば、この階から見る夕日が一番綺麗だと、里奈は高等部に上がってから気がついた。
 さっき感じた懐かしさ。それはきっと、夕日だろうと里奈は思った。自分も2年前、ここで、このC組の教室で勉学をし、この高さであの夕日を見ていた。
 そして結花と出会ったのも、この教室だった。その思い出が強烈に残っているのも、懐かしい感覚を加速させる原因のひとつ。そのせいなのだろうか、三年C組の教室のドアは結花にとってタイムトンネルのようなものだった。
 目が自然に自分と結花の座っていた席へと向かった。そこで、真奈美が机のなかを探っているのが見える。彼女は、里奈の使っていた机のなかを探していた。
「どうしたんですか?」
 ぼうっと立ち尽くして自分を見つめる里奈に、真奈美が声をかけた。
 真奈美の手には、忘れ物として選んだ教科書を持っていた。使う予定もない、宿題も別に出ていない教科書は、家に持って帰っても使い道はないけれど、一応里奈に忘れ物と説明したから、なにもないのはおかしいと思ってこれを選んだのだ。
「忘れ物、教科書だったのね」
 里奈は問いかけるというよりつぶやいて、また窓の外を見た。こんな機会もなければ、再びこの教室に足を踏み入れることもなかっただろう。
「…はい」
 里奈の質問にうなずいた真奈美だったけれど頷くのが遅れたのは罪悪感からなどではない。里奈が、まるで放心するかのように外の夕日を見つめている、その瞳に言い知れぬ物悲しさを見つけてしまったからだ。
 心がきゅっとつかまれる。切ないというよりも、痛くなる。そんな目だった。その瞳で見つめられたら、真奈美は動けなくなりそうで、目を逸らす。
「…結花、昔はね、あんなふうじゃなかったのよ」
 里奈は震えた声を漏らした。うつむきたかったが、自分の意思ではないなにかが、夕日から目をそむけることを許してくれない。声の震えの原因である体の震えを、里奈は自分をその腕で抱きしめることで止めようとした。
 寒いはずではないのに。
「…」
 真奈美は震える里奈とは正反対に、体が動かなかった。空気の音を感じる。
「結花をあんなにしちゃったのは、たぶん、私のせいなの」
 足のつま先にきゅっと力が入った。全ての間接が、自分を抱きしめようとしている。
 里奈の体が、少し悲鳴をあげた。
「…だから、あなたの昨日のことは、私のせいでもあるのよ」
 赤い涙が流れる。無意識だったそのなみだは、夕日を透かして、里奈の頬に落ちた。涙の感覚に気付いて、里奈は自分を抱きしめる自分の腕の力をぎゅっとこめた。
 痛みが、心地よい。
「…昨日は、だから…あの…」
 里奈の涙を見て、真奈美は彼女の様子が急に変わってしまったのは昨日の一件に関係があるのだと思って、懸命に声を絞り出す。
 空気が重いような感覚が、声が思うように出させてくれない。けれどその声は、里奈 の呪縛を少し和らげた。
 制服に食い込むほど自分の腕をつかんでいた里奈の指が、ふっと緩む。
「私ね、この教室で勉強してたの。2年前。そこで、結花に出会ったのよ」
 ため息をひとつこぼして、里奈は夕日から逃れるように目蓋を閉じた。その目蓋の裏の場所に、中等部の制服を着た結花の寂しそうな横顔が現れて、消えていった。
「寂しそうに、見えた…。でも、それは私だけだった」
 その思い浮かんだ横顔に、今の結花の面影はない。普通の人が見ればきっと、少し拗ねたわがままな少女の横顔、としか思わないだろう。
 ただ、里奈はいま思い出しても寂しそうな顔だと思う。胸がしめつけられるよな。
 彼女の側に一番近いもの。それは孤立だと感じたから、里奈は結花に声をかけた。それが二人の物語を回すきっかけ。
 自分勝手な気持ちから声をかけた。あの胸のしめつけを、教室にいる間ずっと目にしなければいけないのが里奈にとっては苦痛だったから声をかけたのに、それが結花の生き方さえも変えてしまう結果になるなんて。
「結花が、この席に座っていなかったら、違ったかもしれないのに…」
 里奈が手を触れた席、そこは里奈の席だった真奈美の席から見てちょうど斜め前の場所だった。
「あっ…」
 真奈美が思わず呟いたのは、その席が美夜のものだったからだろう。真奈美も授業中、何度となくそこから美夜の横顔を見たことがある。夕日に染まる午後の授業中の美夜は、同性の真奈美でも一瞬目をとめてしまうほど透明感のある存在だった。
 なにかが美夜の周りで始まろうとしている予感が、真奈美の体を駆け抜ける。
 それは間違っていない。むしろ、遅いほどだ。そして彼女自身がそれに関わってくることなど、真奈美は露ほども思わなかっただろう。
 遠くで、校内閉鎖開始まで残りが30分だということを知らせる放送が聞こえた。教室にもスピーカーはあるのに、その音は里奈にも真奈美にも、遠くに聞こえた。